培養液
冷たい。
皮膚の一点が冷たい。
震える液体が雫を作っていた。
元はどこかと辿れば自分の親指だった。今更何を。
本能は厄介だ。自分の脳でありながら、意志と反する反応を見せる。
液が勿体無い。早く全て押し込まなくては。
一本の銀を近づける度に震えは大きく、動きは鈍く。
震えは肘まで伝わる。ガラスの筒から鈍く光る針を通して、また一滴、皮膚の上に滴り落ちた。
青い筋は浮き出ている。どこでもいいなら、手首が妥当だろう。
中々手が進まない僕に、彼女が語りかけた。
「さぁ、早く」
****
今日も街は死んでいた。
もう蘇生するのは不可能だと何回も実証したのに、毎朝確認してしまう。
これだけは彼女になんと言われようと止めることは出来なかった。
今ではもっぱら黙認状態だ。
「また、見てるの?」
いい顔は、しないけれど。
肘を付いて乗っけていた顔をどかし、灰色の街から彼女へ目を向ける。
もう、この姿も見慣れたものだ。
「体、新しくしてみたの」
そう言って金属音を響かせながら彼女が近づいてきたのは1ヶ月くらい前だったと思う。
最初何かの失敗作かと思ったが彼女は嬉しそうだし、何より新しい女性(?)を作るなんて彼女が絶対にしないことだった。
なんだ、それ。と問いかけるも彼女は、だから言ったでしょ? と静かに笑う。片方の目が機械式レンズになってる顔で。
それだけじゃない。左腕と両足は無骨なフレームだし、生身の部分は胴体と右腕、あとは精々顔の半分程度。両足のフレームは骨格形状自体人間じゃないし、左腕に至っては何やら物騒なものまで付いていた。
「体、新しくしてみたって」
彼女のその発言を聞くときには既に、僕は額を抑えていた。
「そのよく切れそうな左腕を近づけないでくれ」
「あら、ごめんなさい?」
大きくくねり曲がった刃物を、意外と便利なのよ。と呟きながらも引っ込める。
代わりに白く、その体には不釣り合いな不健康の肌をした右腕を伸ばしてきた。
冷たい。
頬に触れた彼女の手は、冷えた金属のように滑らかだった。
****
足元に赤い血煙が飛んでくる。僕の靴にかからないギリギリで床の上に着地した。
「これもダメ、ね」
僕が入ってきたことに気づいているんだろう。一人の時、彼女は喋らない。
「試作品の血は浴びたくないな」
「中々良い距離だったでしょ?」
頭と切り離された試作品の、首から下を鉄の左腕で焼却炉に運びながら彼女は微笑む。
その顔にはべっとりと血糊を浴びていて、少し嫉妬を覚えた。
焼却炉の蓋が開いて、その中に試作品を放り込む。そして、転がっていた頭も。
さっき僕の足元に飛んできた血は首を切ったときのものか。
「で? 今度は何がダメだったのさ」
「完璧な反応をしなかったわ」
完璧。彼女の言う完璧な反応。...ただの質問と応答じゃないことは確かだけど。
「代謝経路の反応が遅すぎるの。おかげで律速酵素が台無しよ」
あぁ、分かった。分からないことが分かった。
「つまり君の専門分野ってことだろ」
彼女は大きいもの、僕は小さいものを研究し、作り、実験する。
今は人型がマイブームらしい。よくああやって作っては何かが気に入らなくて壊している。
その腕の切れ味を試してみたいだけなんじゃないかと思った時もある程だ。
デスクの横に置いてある小さな、一人で抱えられる程度の培養タンクを見た。
一部がガラス製で、中の様子を伺うことが出来る。
入っているのは、見た目はただの水。だけどもこの中には何兆個という物体が蠢いている。
そういう液体。
画家という存在が筆を取れば描きたくなるように、
指揮者という存在が指揮棒を取れば振りたくなるように、
学生という存在が回転椅子に座れば回りたくなるように、
僕はクルクルと回った。
****
「ほら、早く」
優しい声がまた響いた。
頭だけ取り外して機械に繋げた彼女の声。
「あなたが望んでいたことでしょう?」
そうだ。僕はこうなることを望んだ。だからこれを作ったし、こうして打ち込もうとしている。
どんな事態が起ころうと彼女が何とかしてくれるだろう。今までだってそうだったのだから。
一旦注射器を離してから、一気に刺した。
注射針ってチクッと暑くてでも冷たくてよく分からなくなりますよね。