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月の兎と月のガマ

作者: 子志

 月の世界は、今日も銀色だ。

 その銀色の中に、一心に杵を振るっている者がいる。


 兎だ。


 大きな兎が、時折臼に薬草やら何やらを放り込みつつ、ひたすら杵でついている。


「こんにちは、月兎(げっと)

 その兎に、誰かが声をかけた。兎は振り向きもせず、杵を握ったまま応える。

「こんにちは、麗しのかぐや姫。月の裏側からわざわざこんなところまで、何の用だい」

「相変わらずつれないのね」

 肩を竦めたかぐやは、銀色の地面にふわりと座った。

「貴方に貰った不死の妙薬、あの人は火山に捨ててしまったみたい。ごめんなさい」

「構わないよ。僕の意志であげたものでもなければ僕の持ち物でもないからね、あれは」

 兎は再び、何かを臼に放り込む。

「僕のつくる薬は西王母の持ち物。使い道を決められるのは彼女と天の帝だけ。僕はただこうして杵でつくだけさ」

 かぐやはどこか不満げな顔をした。

「あなたはそれでいいの」

「それでいい?何のことだい、高慢なかぐや姫。僕はしがない薬師。薬をつくるのが僕の仕事であり存在理由さ」

 かぐやは溜息を吐いた。

 何て欲の無い、と思う。もっとも、そんな風に思うのは、かぐやが地上の人間達に慣れてしまったからかも知れないが。


 兎は変わらず薬をつく。

 かぐやはそれを黙って眺める。


 そんな二人に、のそりと近づいて来た者がいた。

 一匹の巨大なガマガエルである。


「月兎や」

 蛙が声をかける。兎はやはり振り向かずに応えた。

「ごきげんよう、醜い嫦娥(じょうが)。わざわざお越しとは珍しい」

「月兎や……おくれ、その薬をおくれ」

 嫦娥と呼ばれたガマガエルは、のそのそと兎に近づいて行く。兎は溜息混じりに言った。

「いけないよ、愚かな嫦娥。第一これを飲んだって、貴方は天には帰れない」

「どうして!?」

 嫦娥が叫ぶ。その声は悲鳴に似ていた。

「どうして私がこんな姿で這いつくばっていなければならないというの!?」

「そりゃあ決まってるよ」

 兎は淡々と言った。

「盗むなかれ、殺すなかれ、壊すなかれ。それが一番簡単で普遍的な法さ」

 とんとん、と規則正しく杵が薬草を潰す音が兎の声に混じる。

「それは罰だよ。夫から薬を盗んだ貴女への」

「そんなの酷い!」

 嫦娥はそのぎょろりとした瞳から、ぼろぼろと涙を溢した。

「私はそもそもあの人に巻き込まれただけよ。天に帰りたいと思って何がいけないの」

「でも彼は二粒の薬を一緒に飲もうと言ったじゃないか。それを貴女は裏切った。一粒ずつで不死になれたのに」

 兎はふぅ、と息を吐いた。

「可哀想に、貴女に裏切られた彼の末路を見たかい?」

「私は悪くないわ!」

 ついに嫦娥は泣き崩れた。兎は変わらず杵を振るう。その様子を呆然と見ていたかぐやは、兎に問いかけた。

「ねえ月兎、一体何があったの」

 兎はとん、と杵を振り下ろした。

「ああ、貴女は知らないんだね、幸せなかぐや姫」


 教えてあげるよ、今日の僕は、誰かと話したい気分だから。


 そう前置きして、兎は遠い昔の物語を紡ぎ始めた。



 貴女は知っていたかい、昔太陽は十個あったのさ。おや、知らない?ほら、十干というのがあるだろう。甲乙丙丁……というあれさ。あれは十の太陽達の名前なんだよ。だから昔は日付を言うのに、その日空にいる太陽の名前を使ったのさ。

 兎も角、太陽は十人兄弟だった。皆天の帝の息子さ。それで毎日一人ずつ、東から西へ、半日かけて馬車を走らせる。それが日課だった。


 ところが彼らは段々その日課に飽きてきた。

 そうしてある日、誰かが言ったのさ。


「どうだい、たまには皆で空に昇ろうじゃないか」


 皆大賛成さ。何しろ仲良し兄弟だからね。意気揚々と手と手を繋いで、一緒に空へと昇っていった。

 いつも一人の道のりが、今日は兄弟十人一緒だ。太陽達は大はしゃぎさ。


 ところが地上は堪ったものじゃない。


 夏になってひとつの太陽が近づくだけであの暑さなんだ。一度に十も太陽が出た日には、熱いなんてもんじゃない。みんな干からびてしまうに決まってる。

 慌てたのは天帝さ。どら息子達の気まぐれで地上は滅茶苦茶だ。なんとかしなければ、と焦った天帝は、一人の神様に事態の収拾を命じた。


 それが、嫦娥の夫さ。

 あの頃は二人とも神籍に名を連ねていたんだ。


 さて、嫦娥の夫は弓の名手だ。太陽を何とかしろと言われた彼は、愛用の弓と十本の矢を携えて出掛けた。

 彼は実に素直な思考の持ち主でね。太陽が多すぎて大変だというのなら、射落としてしまえばいいと考えたのさ。


 彼は一つ目の太陽に狙いを定め、弓を引き絞った。きりきりと限界まで弦を引いて、それから手放す。

 矢は面白いほどよく飛んだ。

 ぐんぐん空へと昇っていって、過たず太陽を射落とした。

 彼はすぐに次の矢をつがえた。同じようにして、二つ目の太陽を射落とす。

 三つ、四つ、五つ。


 またもや慌てたのは天帝さ。

 この調子で彼が太陽を全部射落としてしまったら、今度は地上が真っ暗闇だ。

 天帝は急いで家臣に命じて、彼の矢筒からこっそり矢を一本抜かせた。

 そうして天には、一つだけ太陽が残った。地上はすっかり元通りさ。


 めでたしめでたし。

 ……とはいかなかったんだ。残念ながらね。


 何しろ九つの太陽達は彼に射殺されてしまったんだ。父親の天帝が嘆くのも無理はない。少しばかり懲らしめて元に戻してくれればよかったのに、何も殺すことはないだろう、とまあ、そういうことだね。


 悲しみ嘆いた天帝は、罰として彼ら夫婦の神籍を削った。つまり神から人間に堕としたのさ。


 納得いかないのは嫦娥だ。夫の巻き添えで人間になってしまったのだもの。

 神なら不老不死だけれど、人間はいつか死ななければならない。天上に昇り雲に乗ることだって、もうできないんだ。


 嫦娥は嘆いた。そりゃあもう、旦那に恨み言の百や二百は言っただろうさ。

 ほとほと困り果てた旦那は、意を決して西の山に住む西王母に会いに行った。彼女は不老不死の霊薬を持っているし、神に戻ることのできる妙薬だって作れるからね。

 西王母の住処は人間がおいそれと踏み込めるような場所じゃあない。生易しい旅ではなかったと思うよ。

 それでも彼はたどり着いた。そして、西王母に訴えたんだ。神に戻りたい、とね。


 遥々やって来て懇願する彼を憐れんだのか、西王母は彼に二粒の薬を渡した。


 吉日を待って二粒飲めば、神に戻れる。

 一粒だけなら、不老不死。但し天界には戻れない。


 その薬を持ち帰った彼は、嫦娥に言った。

 吉日を選んで、一粒ずつ飲もう。不老不死で十分、二人一緒なら天界に戻らなくても幸せに暮らせるさ、とね。


 ところが、嫦娥は納得しなかった。

 彼女にしてみれば、自分は夫のとばっちりを受けただけだ。

 自分には神に戻る権利がある筈だ。そう考えたんだね、彼女は。


 吉日を迎える前に、彼女は夫から薬を盗み出した。自分一人天に帰ろうと、すぐにその薬を二粒とも飲んでしまったんだ。


 果たして、体が軽くなる。

 嬉しくなった彼女は、軽やかに飛び立った。あまり地上でぐずぐずしていると、旦那に見つかってしまうかも知れないからね。

 彼女はぐんぐん昇っていく。

 しかしなにぶん久しぶりだからか、ちょうど月の傍にたどり着く頃にはすっかり疲れてしまっていた。


 少し、休んで行こう。


 そう考えた彼女は、この月に降り立って、一息吐いた。


 その時さ。

 彼女の体に、異変が生じた。

 口が裂ける。背がひしゃげる。腹がせり出す。


 そうして出来上がったのは、一匹のガマガエル。


 彼女はそれきり飛ぶことも地上に降りることもできず、ここでこうして嘆き続けている。



「そう、これは罰なのさ、身勝手な嫦娥」

 相変わらず薬をつきながら、兎は歌うように言った。

「可哀想に、裏切られた旦那は人のまま地上で死んでいったよ。それも弟子に殺された。天下一の弓の名手という称号欲しさにね」

 やれやれ、と首を振る。新たな薬草を加えて、またとんとんと杵でつき始めた。

「そういう哀れで愚かな話さ。長話をして悪かったね、かぐや姫」

 かぐやは何も言えずに兎を見つめていた。傍らでは、嫦娥が涙を溢している。

「さぁ、もうお帰り、貴きかぐや姫。またお迎えが来て連れ戻されるよ」

 兎に促されて、かぐやは渋々踵を返した。

 背後からはいつまでも、規則的な杵の音が追いかけて来るのだった。


 月の世界は、今日も銀色だ。

 その銀色の中に、一心に杵を振るう者がいる。


 そう、見上げれば見える筈だ。

 杵を手にした、兎の影が――


閲覧ありがとうございます。

神話に関してはいろいろなパターンがあるようですので、ひとつの解釈とお考えください。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 羿(げい)が太陽を射落とした話、と嫦娥が不死の薬を盗んで月に逃げガマになった話は知っておりましたが、嫦娥って羿の妻でこの2つの話は繋がっていたのですね。勉強になりました。 元々、嫦娥のお…
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