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ロスタイム

作者: マドル

 冬が過ぎ、春の兆しが辺りにちらほらと窺えるほどには暖かくなった頃、私は転勤のために荷造りを始めていた。心理臨床士である私は定着した勤務先は無く、必要とされれば向かうような人間だった。新しい出会いを求めているわけではないが、一つの場所にずっと居続けるというのは少し閉じ込められた気がして嫌なのだ。今年で34という、働き盛りという事もあって、努力の意欲はまだまだ二十代の頃と変わりないと自分では思っている。

 患者の方も回復し、私でなくても大丈夫なほどなになってきたので引き継ぎに任せておけばいい。勝手な言い草ではあるが、前の勤務先の臨床士達はかなり腕がよく、頭もきれ、私以上の治療が出来ると確信しているからこそ、引き継いでもらうのだ。

 人の心はとても神秘的だ。心はどうやって生み出されるのか、という問いは昔から議論されているテーマである。その解明は未だになされていないが、それでも多くの事は分かり始めている。その結果、心理臨床士などの心の医療というものも生まれ始めている。

 私がその道を志したのは、二十年前の事だ。私も心、硬く言えば精神状態が芳しくなかった。解離性同一性障害、いわゆる多重人格という症状を呈していた。

 その頃の私の記憶は少しばかり曖昧だ。というのも、その頃の主な人格はこの私ではなく、もう一人の私だった。私には記憶のない事が色々と起こったりしていて混乱したりもしたが、それでも至って落ちついていられたのは彼の事を知っていたからである。どうしてそんな事が出来るのか、と訊かれれば現実的で論理的な回答は出来ないが、簡単に言えば二つの意識が混ざり合う時に私と彼はコンタクトを取る事が出来たと言える。その瞬間というのは、私の体が、脳が、活動を休止する就寝の時だ。

 懐かしさで胸が一杯になる。あの時、私に不安は無かった。今となってはそれは少しばかり恐ろしい事なのだけれど、彼との時間はとても楽しいものだった。その日の出来事を少し大げさに表現しながら、彼はまるで何も知らない子供に教えるようにして話す。その姿が今でも私の中に鮮明に残っているのだ。

 さて、そうして考えているうちに大抵の物は片付け終わった。次は服に取り掛かるとする。衣服の入ったタンスの中には、今となってはもはや気ないだろう服がいくつか残っている。それは、私の怠慢で残っているわけではなく、ちゃんとした理由がある。その服は、厳密には私の服ではないのだ。何のデザインも施されていない、無地の色んなカラーの服がそこにはあった。

 それを着た、自分の姿をおぼろげではあるが覚えている。その歳には多い、自分に合ったサイズではなく少し大きめの服だったはずだ。ダボダボ感があの頃では当然のようにして流行っていた。それに、彼も倣ったのだろう。彼も流行に敏感だったのかと思うと、少しおかしかった。

 懐かしさで胸一杯になりながら、服を片付け始めてた。何着か片付けているところで、服の間から紙きれが出てきたので私は驚いてしまった。

 黄ばんでいるところから見ると、少し古いものなのだろう。名前も書いていないが、この場所から出てきたことから誰からの物かは察しがつく。

 二つ折りにしてあったそれを暫く、私は開く事が出来なかった。というのも、嬉しい気持ちの反面、不安というものもあるからだ。私の中では彼の事を理解しているつもりだったが、彼からしてみれば、私は何にも理解していなかったかもしれない。それが、怖いのだ。

 けれど、ここで迷っていても仕方がない。それに、彼は『もういない』。彼は私の中から消えていった。何も言わずに。ここには、その理由が書かれているかもしれない。

 私は決心し、薄っぺらい紙を開いた。そこには、こう書かれていた。


 君がこれをみるのはいつの事だろう。僕が消えてからすぐだろうか。それとも月日が経ってからだろうか。出来れば、前者であってほしいと願ってやまない。

 さて、僕が君から消える理由について簡単に説明させてもらう。

 一つ目。僕は事件に巻き込まれた。その内容を話す事は出来ない。僕は、監視されている。僕が事件に関する内容を少しでも零せば、君の親しい人の誰かが不幸に遭う。それを避けるため。

 二つ目。人格としての期限が迫っているため。僕は君の中の、感情の中の一つの機能の役割を人格化したものだ。しかし、僕と関わる事で君はある一つの感情を取り戻しつつあるため、期限を待たずとも消えようと考えたため。

 三つめ。僕を忘れてもらうため。君が僕を忘れてくれたならどれだけ良いだろう。僕によって刻まれた記憶が表面化せず、他の記憶にかき消され、僕という記憶もその海の底に埋もれてしまおうと思ったため。

 これを読んだ後、すぐにゴミ箱に放り投げてほしい。決して、僕の事を公言しない事。僕が巻き込まれた事件について調べない事。僕について考えない事。僕の事は忘れる事。手紙の事は忘れる事。

僕は誰でもありません。僕はどこにもいません。僕はもういません。さようなら。


親愛なる君へ


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