第1夜
あの夜の寒さを、僕は一生忘れない。
標高千三百メートル。皮膚を刺す冷気と、巨大な電波望遠鏡の影。 頭上には、東京の濁った空しか知らなかった君が言葉を失うほどの、息を呑む満天の星。
深夜一時の衝動。始発の列車。埃っぽい山小屋。 そして、二人で見上げた、くじら座の変光星――ミラ。
名前の由来は、ラテン語で「奇跡」。
あれは、人生でたった一度きりの、二十四時間だけの逃避行だった。 すべては、スマートフォンの画面に並んだ、誰にも見向きもされない観測ログから始まった。
☆ ☆ ☆
画面の青白い光だけが、暗い自室の壁を四角く切り取っていた。 時計の針は午前零時を回っている。
一階のリビングからは、低く唸るようなテレビの音も、親が階段を上ってくる気配もとっくに消えていた。
僕が開いているのは、『StellarLog』という個人開発の天文アプリ。
SNSのように派手なタイムラインがあるわけでも、映える天体写真を並べて「いいね」を競い合う場所でもない。
黒を基調とした極めて無骨なデザインで、天体のカタログ番号と、観測時刻、光度の目測値、大気の状態――シーイングの数値を淡々と打ち込むためだけの、言わばデジタル版の野帳だった。
トップ画面に並ぶ「注目天体」のタブには、木星や土星、あるいはプレアデス星団といったメジャーどころが並び、そこには世界中から何百件もの綺麗な写真や観測ログがリアルタイムで更新されている。
僕がタップするのは、そんな華やかな一覧のどこにも載っていない、検索窓の履歴の一番上にピン留めされた天体だった。
――Mira (ο Cet / HIP 10826)
くじら座の心臓に位置する脈動変光星。 およそ三百三十日の周期で膨張と収縮を繰り返し、光の強さを大きく変える星。
最も明るい極大期には肉眼でもはっきりと捉えられる二等星まで跳ね上がるが、暗い極小期には十等星
――望遠鏡の視界の奥に目を凝らさなければ見つからないほどの、ただの塵のような光点にまで沈み込む。
いまのミラは、ちょうどその谷底に向かって沈んでいく途中だった。
長野の澄み切った五月の夜空、僕の部屋の窓から双眼鏡を覗き込んでも、輪郭を捉えるのがやっとの暗さだ。
窓を開けると、諏訪盆地のひんやりとした夜気がカーテンをわずかに揺らす。五月の夜風はまだ薄手の長袖を通すほど冷たく、網戸の向こうの遠い水田からは、かすかにカエルの声が響いていた。
僕――長谷川翔は、長野県の諏訪にある公立高校に通う、どこにでもいる高校三年生だ。
何か特別な才能があるわけでも、誇れる特技があるわけでもない。成績は学年のちょうど真ん中あたりを低空飛行し、部活も春に引退して、今はただ「進路未定」という落ち着かない宙ぶらりんの立場だけを背負わされている。
机の上には、三つ折りにされた「第一回進路希望調査票」が、連休が明けてからずっと放置されている。
就職を考えているクラスメイトたちは、夏休みの企業見学に向けて早くも職種の絞り込みを始め、担任との面談を重ねていた。
進学する連中も、オープンキャンパスの予定表を手帳に書き込んだり、指定校推薦の評定基準とにらめっこしながら、着々と自分の行き先を見据えている。
僕だけが、何も決められないまま足踏みをしている。
星が好きだ。松本市内で暮らす叔父の影響で、子どもの頃から夜空を見上げるのが好きだった。
けれど、天文学者になれるような頭もなければ、研究者を目指して難関大に挑む覚悟もない。
どうせ僕はこの街を出ることなく、適当な工場に高卒で就職し、親と同じように軽自動車に乗って、そのまま一生を終えるのだろう。
そんな底の知れた未来が、すぐそこまで口を開けて待っている。
親や教師から「早く現実を見ろ」と急かされるたび、胸の奥が冷たく強張った。
だから僕は、毎晩こうして部屋の明かりを消し、双眼鏡を握りしめて窓辺に立つ。
漆黒の宇宙に浮かぶ無数の星々には、偏差値も、内定も、将来の不安も関係ない。
ただ何億年も前からそこにあって、誰に媚びることもなく光を放っている。
その冷たい光を網膜に焼き付けている数十分間だけが、僕にとって息苦しい現実から逃げ出せる、唯一の「自由な時間」だった。
双眼鏡を下ろし、机の上に置く。
まぶたの裏に残るかすかな光の余韻を引きずったまま、僕はスマートフォンの画面に視線を落とした。
見上げるだけで終わらせず、こうしてわざわざアプリに記録を残す星は、僕にとってミラだけだ。
周期的に光を弱め、やがて夜の闇に溶けて見えなくなってしまう、ひどく頼りない星。
まるで、この街の片隅で誰にも気づかれずに消えていきそうな、僕自身の輪郭に似ている気がしていたからかもしれない。
そんな地味極まりない星のログ画面を開く人間なんて、このアプリの全ユーザーの中でも、片手で数えるほどしかいない。 いや、正確には「片手」どころじゃなかった。
画面を下にスワイプして最新ログを読み込む。 並んでいる文字列を見て、僕はふっと息を吐いた。
――やっぱり、今夜もそうだ。
【観測天体:くじら座オミクロン星(Mira)】
[5/24 23:48] Kakeru_sky (長野県)
推定光度:5.2等 | 機材:7×50双眼鏡 | シーイング:4/5
【メモ】気流安定。輪郭は掴めるが、先週より確実に光が痩せてる。そろそろ双眼鏡の限界。
[5/25 00:55] miku_stella (東京都)
推定光度:5.1等 | 機材:60mm屈折望遠鏡 | シーイング:2/5
【メモ】視界最悪。向かいのマンションの非常階段の電球が視界の端に入って鬱陶しい。ピント合わせに二十分。でも、見失ってはいない。
過去三十日分のログをどれだけ遡っても、画面を埋めているのはこの二つのアカウントだけだった。
長野の僕と、東京の誰か。
日本中、いや世界中の天文ファンがオリオン座の流星群や土星の輪に望遠鏡を向けているあいだ、僕たち二人だけが、毎晩この沈みゆく暗い変光星に向かって、誰にも読まれない記録を落とし続けていた。




