断罪後の悪役令嬢は、炭酸割りで愚痴をこぼす
王太子から婚約破棄を告げられた夜、エルヴィラは王都の外れにある酒場へ入った。
公爵令嬢が足を踏み入れるような店ではない。
だが、今夜くらいは、公爵令嬢らしく振る舞う気になれなかった。
「強い酒を、泡の出る水で割ってくださいませ」
店主は眉を上げた。
「割合は」
「酒一、水三。氷を多めに」
「慣れてるな」
「父が晩餐の後に飲んでおりましたの」
琥珀色の酒に透明な炭酸水が注がれる。
細い泡が次々と浮かび、氷が軽く鳴った。
エルヴィラは一口飲んだ。
喉に刺激が走り、その後から樽の香りと苦味が追ってくる。
「おいしい」
「そりゃよかった」
「ですが、婚約破棄は最悪でしたわ」
「そりゃ災難だったな」
店主は驚かなかった。
王宮の夜会で起きた騒ぎは、すでに王都中へ広がっているらしい。
「わたくし、悪役令嬢なのだそうです」
「そうか」
「聖女様の教本を隠したと」
「隠したのか」
「王立図書館へ返却しました」
「借りた本だったのか」
「期限を四十六日過ぎておりましたので」
店主は黙って、彼女の杯へ炭酸水を少し足した。
「聖女様のドレスを破いたとも言われました」
「破いたのか」
「裾を踏んで転びかけておられたので、危険な部分を切りました」
「勝手に」
「仕立て直し代はわたくしが払いました」
「それは先に言ったのか」
「明細書を三通提出しました」
店主はまた黙った。
エルヴィラは二口目を飲んだ。
泡が舌を刺す。
今夜の出来事を思い出すたび、酒よりも炭酸の方がよく効いた。
「何より腹が立つのは、断罪の進行が雑だったことですわ」
「そこなのか」
「証人の氏名は伏せられ、証拠は提示されず、反論時間は与えられず、処分だけが先に読み上げられました」
「処分は」
「北の領地へ追放です」
「公爵家の領地か」
「ええ。温泉と葡萄畑があり、収穫期には祭りもあります」
「追放とは」
「わたくしも聞きたいですわ」
エルヴィラは杯を置いた。
「しかも、王太子殿下は『二度と王都へ戻るな』と仰いました」
「戻れないのか」
「王都の屋敷はわたくし名義です」
「殿下はどこに住んでる」
「王宮です」
「なら困らないな」
「王都にある三つの倉庫も、商会の株式も、街道沿いの宿場町も、わたくしの管理下です」
「追放できてないな」
「ええ。資産の移管について誰も確認しておりませんでした」
店主はついに笑った。
「殿下、明日から困るんじゃないか」
「明日どころか今夜から困りますわ」
「何がある」
「王宮へ納める冬用の薪、来月分から止まります」
「寒いな」
「食肉の契約更新も保留です」
「腹も減るな」
「聖女様のお好きな砂糖菓子は、わたくしの商会が独占輸入しております」
「甘い物も消えるのか」
「はい」
エルヴィラはもう一口飲んだ。
先ほどより酒の味が薄い。
けれど、それでよかった。
強すぎる酒は、怒りを増幅させる。
泡の多い薄い酒は、怒りを言葉へ変える。
「わたくし、復讐などしたくありませんの」
「そうか」
「ただ契約に従うだけです」
「止めるのも契約か」
「婚約を前提に、王家へ優先供給していただけですもの。婚約がなくなれば通常契約へ戻ります」
「値段は」
「三倍ほど」
「復讐じゃないのか」
「市場価格ですわ」
店主は笑いながら、新しい杯を作った。
今度は酒一、水四だった。
「少し薄いですわね」
「愚痴が長くなりそうだからな」
「失礼ですこと」
「まだあるんだろ」
エルヴィラは新しい杯を受け取った。
氷が鳴る。
「ありますわ」
「聞こう」
「まず、断罪状の文法がひどいのです」
「そこからか」
「主語が途中で三回変わっております。誰が何をしたのか分かりません」
「殿下が書いたのか」
「側近の代筆です」
「なら側近が悪いな」
「ですが殿下は署名しました」
「殿下も悪いな」
「でしょう?」
初めて、エルヴィラは少し笑った。
「それから、婚約解消に伴う引き継ぎが一切ありませんでした」
「何を引き継ぐんだ」
「王太子妃教育の一環として、わたくしが担当していた業務です」
「令嬢が仕事してたのか」
「殿下の名で届く嘆願書の一次分類、地方貴族への返信案、夜会の席次調整、外国使節の食事制限一覧、王太子宮の年間支出確認などですわ」
「多くないか」
「先月だけで書類は四百二十七件でした」
「それを今まで誰が」
「わたくしが」
「これからは」
「存じません」
店主の手が止まった。
「誰かに渡さなくていいのか」
「ですから、引き継ぎの機会を求めました」
「断られたのか」
「悪役令嬢の弁明を聞く必要はない、と」
「弁明じゃないな」
「ええ。来週訪れる南方使節団の一人が、胡桃を食べると呼吸が止まるという話です」
「それは伝えた方がいい」
「一覧表はわたくしの机にあります」
「取りに戻れないのか」
「二度と王都へ戻るなと命じられましたので」
「死ぬぞ」
「王宮の料理長が気づくことを祈っております」
店主は無言で炭酸水の瓶を置いた。
エルヴィラは自分で杯へ注いだ。
泡が勢いよく立ち、縁から少しだけこぼれた。
「あと、王太子宮で働く侍女たちの雇用契約も、わたくしの家が結んでおります」
「なぜ王家が雇ってない」
「殿下が人件費を増やしたくないと仰ったので、婚約期間中に限り、公爵家から派遣する形にしました」
「帰るのか」
「明朝、全員北へ向かいます」
「殿下の世話は」
「聖女様がなさるのでは?」
「できるのか」
「教本を四十六日延滞する方ですから、書類の返却期限は守れないでしょうね」
店主はとうとう、声を上げて笑った。
エルヴィラは不満そうに眉を寄せた。
「笑い事ではありませんわ」
「いや、悪い。だが殿下は、あんたを追放したんじゃなくて、自分の仕事を追放したんだな」
「その表現は正確ですわね」
「馬車はあるのか」
「公爵家のものが三台、表に待たせてあります」
「じゃあ何で一人で酒場に」
「侍女たちは王太子宮から私物を回収しております。帳簿と契約書を種類別に箱詰めするよう命じました」
「酔ってる場合じゃないんじゃないか」
「一杯くらい飲まなければ、殿下の衣装目録まで持ち帰るところでしたわ」
「それは置いていけ」
「もちろんです。婚約者でなくなった以上、あの方が冬用の外套を何着お持ちかなど、わたくしには関係ございませんもの」
エルヴィラは杯を空にした。
王宮では、誰も最後まで話を聞かなかった。
令嬢は泣くものだと思われていた。
怒るなら取り乱すものだと思われていた。
だが実際の彼女は、炭酸割りを飲みながら、未処理の書類と契約の不備を一つずつ数える女だった。
「北へはいつ発つ」
「明朝です」
「早いな」
「温泉に入りたいので」
「追放を楽しんでないか」
「それとこれとは別ですわ」
店主は頷いた。
「じゃあ最後に一杯、店から出そう」
「なぜですの」
「北でも酒場を開いてくれ。こういう客が一人いると、店は退屈しない」
エルヴィラは杯を持ち上げた。
「考えておきますわ」
「店の名前は」
「そうですわね」
泡が静かに弾けた。
「断罪後、でいかがかしら」
翌月、北の領地に新しい酒場が開いた。
看板には、琥珀色の酒と泡の絵が描かれていた。
名物は、蒸留酒の炭酸割り。
そして無料でついてくるのは、元悪役令嬢による王家への愚痴だった。
評判は、酒よりもよかった。
通常勤務に加え、シフトの都合で残業が確定していた十二時間勤務を終え、ハイボールを飲みながら、いただいた感想を読んでいて、なんとなく書きました。
たぶん、疲れていたのだと思います。




