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第一章 黄色信号

第一章 黄色信号

三枝栞の足は、黄色信号を見ると自然に止まってしまう。

渋谷の夜。雑踏の中を縫うように歩く人々の流れに逆らって、栞だけが歩道の端で立ち止まっている。目の前の横断歩道では、点滅する黄色信号が彼女を見つめていた。

「また、始まった……」

栞は小さく呟き、スマートフォンを取り出した。午後九時四十三分。最終電車まで、まだ時間はある。急ぐ必要はない。そう自分に言い聞かせながら、彼女は信号が青に変わるのを待った。

Webニュースメディア「デイリー・トゥルース」の校閲者として働く栞は、他人が書いた文章の誤字脱字や事実関係を正すことが仕事だった。文章の中の「間違い」は見つけられても、自分の人生の「正解」は見つけられない。そんな矛盾を抱えながら、二十八年間を生きてきた。

信号が青に変わる。栞は安堵の息を吐き、横断歩道を渡り始めた。

黄色信号を避けるようになったのは、もう十年以上前のことだ。最初は何となく。黄色は「注意」の色だから、止まった方が安全だろう。そんな些細な理由だった。やがてそれは習慣となり、今では黄色信号に遭遇すること自体を避けて生活している。

マンションに着くまでのいつものルートも、黄色信号にかかりにくい道を選んでいた。少し遠回りになるが、栞にとってはそれが当たり前だった。

部屋に戻ると、パソコンを開いて明日の仕事の準備をする。画面に映るのは、芸能人の不倫騒動についての記事だ。事実関係を確認し、表現の適切性をチェックし、誤字脱字を修正する。機械的な作業の繰り返し。

「もし、あの時違う選択をしていたら……」

ふと、そんな考えが頭をよぎった。大学時代、就職活動で内定をもらった出版社を蹴って、安定した今の会社を選んだこと。恋人との結婚を考えていた時、お互いの将来への不安から関係を終わらせたこと。人生には無数の分岐点があり、栞はいつも「安全な方」を選択してきた。

その結果が、今の生活だった。平穏で、安定していて、そして退屈な毎日。

栞は記事の校閲を終えると、ベッドに横になった。明日もまた同じような一日が始まる。そんなことを考えながら、眠りについた。

翌日の夜、事件は起こった。

いつものように残業を終えて会社を出た栞は、最寄り駅への道を歩いていた。普段なら通らない路地を選んだのは、メインストリートで工事をしていたからだった。狭い道の先に見える交差点。そこで信号が黄色に変わった。

栞の足が止まる。いつものことだった。しかし、その時背後から聞こえてきた声が、彼女を動揺させた。

「お姉さん、急いでるんだったら渡っちゃえばいいのに」

振り返ると、二十代前半と思われる女性が立っていた。ショートカットの髪に、カジュアルなジャケット。手には小さなハンドバッグを持っている。

「あ、いえ……急いでないので」

栞はぎこちなく答えた。女性は人懐っこい笑顔を浮かべている。

「私、いつも黄色でも渡っちゃうんですよね。人生短いし、ちょっとくらいのリスクは」

女性は栞の横を通り過ぎ、点滅する黄色信号を無視して横断歩道を歩き始めた。栞は咄嗟に声をかけようとしたが、その瞬間、頭の中に映像が流れ込んできた。

真っ暗な夜道。同じ交差点。黄色信号を渡る女性の姿。そして、左折してきた大型トラックが、女性の体を跳ね飛ばす。鮮血。悲鳴。救急車のサイレン。

「やめて!」

栞の叫び声が夜の静寂を破った。しかし、現実の女性は無事に向こう側の歩道に到着していた。トラックなど走っていない。事故は起こらなかった。

「え? どうしたんですか?」

女性が振り返って心配そうな表情を浮かべている。栞は自分が異常なことをしたのだと気づき、慌てて手を振った。

「す、すみません。何でもないです」

女性は首をかしげていたが、やがて去っていった。栞は一人、交差点の前に取り残された。

今のは何だったのか。夢? 幻覚? それとも——

栞は震える手でスマートフォンを取り出し、ニュースアプリを開いた。最近気になっているニュースがあった。都内で続発している若い女性の失踪事件。二週間前から三人の女性が行方不明になっている。

画面に表示された写真を見て、栞の血の気が引いた。

失踪した女性の一人が、今し方交差点で出会った女性にそっくりだったのだ。



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