泉の女神様はいつだって正直者の味方なのです
人が立ち入ることのない森の奥深くに、静かに湧き出る小さな泉がある。
泉の水面は青く輝き、周囲に咲き誇る花々と清浄な空気が、まるで理想郷のような美しい光景を作り出していた。
誰とも顔を合わせることのないこの場所は、ルシアにとって特別な場所――いわば秘密基地のようなもので、今日も足取り軽く泉を訪れた彼女は、いつものように花の手入れを素早く済ませた。
景観を整えてから泉に祈りを捧げるのが、ルシアのルーティンになっているからである。
ルシアが初めてこの場所に辿り着いたのは、まだ彼女が幼く、母を失くしてすぐの頃だった。
寂しさのあまり泣き場所を求めてふらふら彷徨っていたら、偶然足を踏み入れていたのだ。
その際に、ルシアの背丈ほどまで生い茂っていた雑草に足を取られ、転んだ拍子に握りしめていた髪飾りを泉に落としてしまった。
落とした髪飾りは母の形見だった為、結果的に余計に泣きじゃくることになったのだが、その後は母に会いに来るような気持ちで泉を頻繁に訪れるようになった。
少しずつ手を入れたおかげで、今では泉の周辺には色鮮やかな花が咲き乱れている。
ルシアは泉に向かって膝を突くと、恒例の祈りを捧げ始めた。
後になって知ったことなのだが、この泉には女神様が住んでいるという言い伝えがあるらしい――誰も信じていないせいで、ここを訪れる者はいまだにルシアしかいないのだが。
こんにちは、女神様。また来てしまいました。
今日もいいお天気ですね。
女神様ももう耳タコだとは思いますが、どうかどうかお願いなので、あのアーデン子爵家のバカ息子を何とかしてください。
あんな男の愛人になるなんて真っ平御免です。
私は結婚相手に多くを望んではいません。
まあまあの顔でそこそこの性格、ほどよい生活水準の男性が現れますように!
もはや女神への祈りというより、完全に己の愚痴と願望を垂れ流しているだけなのだが、ルシアは至って本気だった。
いるかもわからない女神様に毎回祈らずにはいられないほどルシアの置かれている状況は切実で、心の底から子爵家のバカ息子――コールの存在が嫌で堪らないのである。
ルシアはフォルス男爵家の一人娘で、現在十七歳。
一応は貴族令嬢という肩書を持っている。
しかし、辛うじて貴族に引っかかっている程度の末端貴族に位置している為、フォルス家は所領も狭く、税収も雀の涙ほどしかなかった。
つまり、世間で言うところの貧乏貴族というやつなのだ。
ドレスも持っていないルシアにとって、お茶会や夜会は別世界の出来事で、王都から遠い田舎の土地で、令嬢自ら畑仕事に精を出す日々……。
それでもルシアは貧しさを苦に感じたこともなければ、自分を不幸せだと思ったこともなかった。
なぜならルシアには生まれつき前世の記憶がうっすらと残っており、日本で一般人として暮らしていた記憶があるからだ。
前世が農家の娘だったこともあり、土いじりはお手の物。
思考や常識だって根っからの庶民そのものなのである。
むしろ屋敷に閉じ込められ、令嬢らしく振舞えと言われていたら発狂していたかもしれない。
そんな訳で、裕福でなくとも平凡で幸せな生活を送りたい……と、地に足を付けた堅実な人生を夢見るルシアだったが。
平凡に生きるということは、ルシアに限ってはとても難しいことだった。
なぜかと言えば――
ルシアは『まあまあの顔』どころか、『稀に見るほど美しい顔』の持ち主だった。
白金のストレートな長い髪に、紫水晶のように煌めく瞳、白い肌は透き通るようだ。
上品な桃色の頬、形の良い鼻と唇が絶妙なバランスで配置されている。
本人は自身の美しさに大した思い入れもなかったが、悲しいことにその無駄に美しい顔立ちのせいで、隣の領地を治める子爵家の息子、コールに目を付けられてしまったのである。
思えば出会いからしてひどかった。
「ほう、こんな掃き溜めには勿体ない女じゃないか! しみったれてはいるが、その美しい顔は俺と並んでも遜色ないだろう。よし、俺の愛人に加えてやる」
「はあ?」
ある日の昼下がり、領民と共にいつもの畑仕事に精を出していたルシアは、突然横柄な口調の男に声をかけられた。
馬車の中から聞こえた声だけでは、男の顔はおろか、年齢すらもわからなかったが、禄でもない人間であることだけは間違いないとルシアの本能が訴えている。
内容も突拍子がなさすぎるし、しみったれていて悪かったなと言ってやりたいのをなんとか飲み込む。
この辺では滅多に目にすることのない豪華な馬車に乗っているところを見ると、金回りは良さそうだ。
だが初っ端から印象は最悪、好感度はゼロスタート……いや、マイナススタートと言っていい。
ルシアが思わず眉間に皺を寄せ、令嬢らしからぬ悪態を吐いてしまったのも無理もないことだろう。
このクソ忙しい時にどこのどいつよ?
一瞬でここまで人を不愉快にさせられるなんて、ある意味尊敬するんだけど。
大体、雑草を抜いている女を見初める男なんてどうかしてるとしか思えないわ。
『牛乳を注ぐ女』ならぬ『雑草を抜く女』……案外名画になったりして。
転生者であるルシアの心の声は、あまり口がよろしくない。
しかもちょいちょい前世の記憶が混ざる上、この年頃の女の子特有の初々しい可愛らしさというものを持ち合わせていなかった――というのに、あら不思議。
美形マジックなのか、はたまた異世界チートなのか。
周囲の人間にはルシアが黙って立っているだけで儚く美しい、頼りない存在に映ってしまうのだとか。
意味がわからない。
現に今だって、ルシアはわけてもらった鶏肉をグリルにするかシチューにするかで頭を悩ませながら、雑草をぶちぶち抜いていただけだった。
なのに、おくれ毛に縁取られたそのアンニュイな表情と薄汚れたワンピース姿が、なぜか薄幸の美少女感を際立たせており、思わず手を貸したくなるほどの庇護欲を搔き立てられるらしい。
もう一度言うが、全く意味がわからない。
やっかいごとは勘弁して欲しいんだけど。
誰だか知らないけれど、さっさとお帰りいただかないと今日のノルマが終わらないじゃない。
抜いていた雑草を握ったまま、かったるそうに立ち上がっただけのルシアを、馬車の護衛たちが頬を染めながら、一挙手一投足を見守るように見つめている。
薄幸どころか、ルシアはとてもパワフルかつハッピーに生きているというのに……いや、後から思えば少なくともこの時までは幸せだった。
仕方なくルシアがしばらく待っていると、馬車からえっちらおっちらと灰色の髪をした小太りの男が降りてきた。
初めは二十代後半くらいに思えたが、よく見ると実際はもっと若いかもしれない。
どこかの令息に決まっているが、数段降りただけで息が上がっている。
やがて男はお腹をぽよんぽよんさせながら踏ん反り返ると、畑より少し高台になっている道端からルシアを見下ろしてきた。
なんだ、コイツ……。
つい胡散臭い者を見る目になってしまったルシアだったが、お世辞にもイケメンとは言えないぽっちゃり男は偉そうに話し始めた。
「俺の名はコール・アーデン。あのアーデン子爵家の跡取りである」
「はぁ」
「俺には親に決められた婚約者がいるが、お前くらい見栄えのいい女なら愛人の一人に加えてやらないこともない。光栄に思え」
「……はぁ」
「なんだ嬉しさのあまり言葉も出ないのか? 可愛い奴だな。まあ、女は貞淑で男に尽くすものだと決まっているのだから当然の反応だが」
「…………はぁ?」
このお坊ちゃんはさっきから何を言っているんでしょうねぇ?
異世界とはいえ、想像を軽く超える頓珍漢な主張と価値観の相違のせいで、私としたことがまだ『はぁ』しか言ってないじゃない。
しかも、まだ若いのに生活習慣病まっしぐらなこの体型……ないわぁ。
親の身分を笠に着ちゃってるこの感じ……嫌いだわぁ。
衝撃で言葉を失っていたルシアに、「俺の家は金持ちで、国王から目をかけられている」だの、「この服は王都で買った流行のもの」だのと一方的に話していたコールだったが、ふとルシアの名前をまだ訊いていないことに気付いたらしい。
「そうだ、お前の名は? まあ、しがない農民だろうが名くらいは訊いておいてやろう」
特に興味も無さそうに尋ねてきた。
そんな適当に名を尋ねられてもねぇ。
「え? 別に言いたくないし、覚えてもらわなくて結構……フガッフガガッ」
ようやく無駄な時間を終わらせる時が来たと、意気揚々と口を開いたルシアだったが、傍で同じく雑草を抜いていた侍女のサニーが、慌ててルシアの口を塞いできた。
見た目は美少女マジックで大人しく見えていても、そんなものは所詮まやかしに過ぎないのだ。
さすがに口を開けばルシアのふてぶてしい本性もバレてしまう。
サニーったらいきなり何するのよ。
手が雑草で青臭いし、絶対草の汁が顔に付いちゃってるって。
うへぇ、青髭っぽくなってたら嫌だな。
モゴモゴ言いながら目で抗議すると、サニーがそっと手をどけてくれた。
「お嬢様、まずいですって! アーデン子爵家を敵に回したら旦那様が泣きます」
「いいじゃない、お父様なんて泣かせておけば。どうせいつも泣いてるんだし。それよりあのいけ好かない男……フゴッ」
「男爵家がなくなったら私が路頭に迷うじゃないですか!」
サニーは侍女兼洗濯メイド兼キッチンメイド兼その他もろもろ――つまりはフォルス男爵家唯一の女性使用人なのだが、フォルス家の現状を良く知る彼女はルシアの不敬を察知して再び口を押えた。
賢明な判断だと言えよう。
ルシアの父、ファルス男爵は人柄だけはいいのだが気が弱く、領主としてのセンスが全くといっていいほどなかった。
アーデン子爵が気まぐれに援助をしてくれているおかげで、領民の生活が何とか成り立っているといっても過言ではない。
その援助もいつかファルス領を乗っ取る為の布石だろうことは容易に想像できたが、子爵家の跡取りに無礼を働き、もし援助を打ち切られでもしたら……
確かにお父様は大泣きするでしょうねぇ。
泣かれることには慣れているけれど、確かに池に身でも投げられたら面倒だわ。
父のことはそれなりに愛しているものの、そのポンコツっぷりにはルシアも困り果てていた。
父がアーデン子爵に利用されていることもわかっているが、かと言って娘のルシアに出来ることなど限られている。
チッと静かに舌打ちをしたルシアは、渋々挨拶をすることにした。
小さい頃に母に教わったカーテシーを披露しながら、「ルシア・フォルスでございます」と神妙に名乗る。
詳しくは知らないのだが、亡くなった母は名家の出身だったらしい。
豊かな実家を捨て、身一つで父の元に嫁いできたのだとか。
おかげで子供の頃に母に教えられた初歩的なマナーだけは、今でもルシアの身体に染みついていた。
「なんだ、お前はフォルス男爵家の娘だったのか。こんな薄汚い令嬢がいるとは思わないから気付かなかったぞ。でも好都合だ。父上は以前からフォルス領を手に入れたいとおっしゃっていたから、お前を俺の愛人に加えればさぞお喜びになられることだろう! こうしてはいられない。おいお前たち、一度帰るぞ!」
どこかへ向かう途中だったコールは機嫌が良さそうに一方的に告げると、数名の使用人の手を借りながら馬車に乗りこみ、慌ただしく帰って行った。
さりげなくルシアをディスり、父親である子爵の思惑をあっさりバラしながら……。
これが二人の最悪の出会いだったのだが、それからコールは度々ルシアの前に顔を出すようになった。
子爵もルシアを愛人として迎えることに乗り気だそうで、すぐにでも子爵家の別邸に引っ越してくるように言われる始末――
恐ろしいことに、別邸には既に愛人が何人も住んでいるらしい。
いーやーだー!
なんとか愛人計画を阻止しないと。
でもどうやって?
そもそもアーデン子爵家のほうが爵位が上で、昔からフォルス領で作られた農作物を買い取ってもらっているという恩がある。
ぼったくられていることにも気付いてはいるが、助けられてきた面も多少はある為、父にはこちらから断るのは難しいと言われてしまった。
長いものに巻かれるタイプの父には最初から期待などしていなかったが、亡くなった母は一体父の何が良くて、なかば駆け落ちのように辺鄙なこの土地までやってきたのだろうか。
謎である。
資金面で自立することができれば愛人話も断れると考えたルシアは、一応足掻いてみることにした。
転生チートを活用してお菓子や調味料を生み出すという小説を前世で読んだことを思い出し、ケチャップを開発してみたのだ。
その結果、ケチャップの売れ行きは上々、『これは一獲千金も夢ではないのでは?』などと、一時は期待に胸を弾ませたのだが……。
結局はアーデン家の支配から逃れることなど夢のまた夢、気付けばケチャップの製造所を権利ごとコールの父親に安値で買収されていた。
やはりこの世は金、資金力が物を言うのだ。
その後もなんとかのらりくらりと答えを引き延ばし、コールから逃げ続けていたルシアだったが、さすがにこれ以上の時間稼ぎは無理そうだ。
最近はコールの目が血走っているし、業を煮やした彼が、いよいよ実力行使に出そうな気配すら感じる。怖い。
詰んだ……。
悪って滅びるはずなのに、むしろ滅びるどころか隆盛を誇ってるよね?
なんなのよ、あいつは藤原道長かよ……いや、息子だから頼通だった。
どうでもいいけどこっちが瀕死だっつーの。
こうなったら残るは神頼みしかないわね。
……と、熱心に泉へと足を運んでいたわけなのだが。
「ルシア、こんなところにいたのか。途中で見失ったではないか」
「コ、コール……様」
ルシアが振り返ると、泉の入口にコールが胸を反らして立っていた。
どうやら尾行されていたようだ。
「聞いて驚け。今日は父上のところに王太子殿下が視察にいらっしゃっているのだ。我がアーデン子爵家もそろそろ伯爵に陞爵されるに違いない」
「そうですか」
「嬉しくないのか? ああ、こんな人気のない場所に俺を連れ込んで、そんなに二人きりになりたかったのだな。それなら早く言えばいいものを。随分焦らされたしな。望み通りここで可愛がってやろう」
「は? 違いますけど。というか、私に近付かないで!」
「恥ずかしがることはない。今すぐ俺のものにしてやる!」
身構えるが、にたにた笑うコールがすごい勢いでルシアに向かってきている。
馬車の乗り降りにもあんなにもたついていたというのに、猪の如く突進してくるコールはもはやホラーでしかない。
まずいわ。
あの脂肪の塊相手に敵うはずがないじゃない。
え、これって貞操のピンチ?
焦ったルシアは、迫りくるコールをとりあえず直前で躱すことに成功した。
泉の傍で膝を突いていた体勢から慌てて立ち上がり、ひょいと大きく右に飛べば、コールは泉に向かってそのままの速度で突き進み――見事泉に落ちた。
バッシャーーーーン
大きな水音が聞こえ、慌てて振り返ったルシアの目に映ったのは、切羽詰まった様子のコールだった。
「な、なにをしている……ゴホッ……早く助け……ゴフッ」
「コール様!」
バシャバシャと水の中でもがいているコールは、どうやら泳げないようだ。
迷うことなく手を差し伸べたルシアだったが、コールの短い腕には全然届かない。
人を呼ぶにしてもこの辺りに民家はなく、ルシアは長い枝でも落ちていないかと周囲を見渡したが、その間にもコールはどんどん沈んでいき――やがて水音が止んで、コールの姿は見えなくなった。
「……コール様! コール様!!」
嘘でしょ?
事故とはいえ、子爵令息が無事に戻らなかったら………私、子爵に消されるよね!?
あーもうっ、太っている人は水に浮きやすいって前世では言っていたはずなのに。
泉の前でルシアが顔色を失くしていると、どこからかコポコポコポという音が聞こえてきた。
不思議なことに泉の中からのようで、『もしかしてコールでは?』と、ルシアが期待を込めてじっと水面を見つめていると、やがて大きな水しぶきと共に何かが水中から現れた。
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン!」
「コール様!? …………じゃないよね、どう見ても」
なぜかコールとは似ても似つかない美しい女性が、泉の水面ギリギリに浮かぶように立っていた。
とても人間業とは思えない。つまり人間ではないということだろう。
年は二十代に見えるが、まるでギリシャ神話に出てくる女神様のようないでたちをしている。
白いノースリーブの長いワンピースに、マントのようなヒラヒラが背中についているあのお馴染みの服である。
胸元の切り替えの部分にひも状の飾りが巻いてあり、二の腕には腕輪が輝いている。
銀の髪飾りを着けた波打つ金髪を一度手で払うと、女性はルシアに向かって妖艶に微笑んだ。
……美人さんだけど誰?
全く呼んだ覚えはないけれど、もしかしてコールのことを何か知ってたりするとか?
「ええと、あなたは一体……」
おずおずとルシアが尋ねると。
「私? 私はいわゆる神様ってやつよ。泉の女神って呼ばれているわ。あらやだ、そんなに緊張しないでいいってば。ほら、リラックス~」
「……はぁ」
ルシアは緊張していたわけではなく、単に呆気にとられていただけなのだが、それにしてもノリの軽い女神である。
「じゃあ私の自己紹介も終わったことだし、いつものヤツいってみよう! そこのお嬢さん、あなたが泉に落としたのは……ジャジャーン、この『金の王子様』ですか?」
「うわっ、ここはセール川……ではないな? どこだ?」
泉から何かを引っ張るような動作をする女神を不思議そうに見ていたら、ザバンという水音と同時に、女神は自分の傍らに若い男性を連れていた。
泉からもう一人出てきた!
『いつものヤツ』が何を指しているのかわからないけれど、確かに『金の王子様』っていう呼び名にふさわしい見た目の金髪美青年だわ。
うん、文句なしのイケメン。
現れた男性は、女神と同じ明るい金色の髪を短く整え、まるで上級の騎士のような服を着ている。
何が起きているのかわかっていない表情でキョロキョロ辺りを見回しているが、その顔には確かに王子様のような気品が感じられ、イケメンそのものである。
やがてルシアに気付いた男性は、驚いたように目を見開いた後、ニコッと優雅に微笑んで見せた。
うわわ、きっとこれがロイヤルスマイルってやつなのね!
社交界デビューすらしていない私じゃ本物の王子様かどうか判別できないけれど、こんなイケメンはなかなかお目にかかれないわ。
苦労する未来しか見えないから結婚相手にはお断りだけど、今のうちに目の保養、目の保養……って、待てよ?
この展開ってどこかで見たような。
ここでルシアはようやく思い至った。
今の状況が前世で有名だった『金の斧銀の斧』の物語にとてもよく似ていることに――。
本来は泉の女神が「あなたが落としたのは……」と、有名なフレーズを口にした時点で気付くべきだったのかもしれない。
だって、どう考えてもこれは『金の斧銀の斧』の再現である。
しかも、女神は金髪の男性を『金の王子様』と呼んで、泉から引っ張ってきたのだ。
『金の斧』の代わりとして女神が『金の王子様』を準備したのなら、この後は銀のホニャララが出てくる可能性が高い。
ひえー、どうして木こりでもない私がイソップ物語の再現をしているわけ?
その割には斧じゃなくて人だし、色々と違う部分はあるのだけど。
でもこれってもしかして、正直に答えればコールが戻ってくるってことなのでは?
ルシアの記憶に残っている物語では、泉に斧を落としてしまった木こりは、女神に正直に話したことで最終的に三つの斧を手にしていたはずだ。
金の斧と銀の斧、そして自分が落とした鉄の斧である。
つまり、ルシアが嘘さえつかなければ鉄の斧――じゃなかった、コールは無事に帰ってくるということになる。
コールは大嫌いだが、死なれるのは非常に困る。
自分が避けたせいで死んだとなっては、寝覚めも悪いし、犯罪者にはなりたくない。
命を狙われるのも遠慮したい。
ここは物語にならって、金の王子様は落としていないと答えるのが正解だろう。
「さあ、答えは決まったかしら?」
女神がワクワクした顔で再度訊いてくる。
楽しくて仕方なさそうだ。
「女神様、私が落としたのはそちらの金髪の王子様ではありません」
「え、本当にそれでいいの? せっかくの王子様よ? 真面目でイケメンだし、性格だっていいんだから。後悔しない?」
「……はい。王子様は落としていません」
「あら~、王子様ってばフラれちゃったわね~」
見れば、金髪の王子様は「そうみたいですね」と女神に答えながらクスクスと面白そうに笑っていた。
さきほどのいかにも王子様な笑顔ではなく、本心から笑っているようなクシャっとした笑い顔が素敵だ。
一瞬勿体ない気がしてしまったルシアだったが、物語通りにいけば最終的にはすべてが手に入ることを思い出す。
うまくいったら王子様が私のものに?
……って、ダメダメ。
王子様もどきが私のものになっても困るだけだって。
こういうのは観賞用に限るんだから、調子に乗ってうっかり手を伸ばしてはダメよ、ルシア。
世の中、ほどほどが一番なんだから。
ルシアがうんうんと一人で頷いていると、女神が気を取り直したように明るく言った。
「じゃあ次にいっちゃいましょ~。あなたが落としたのは……ジャジャーン、この『銀の宰相候補』ですか?」
再びザバンと音がし、王子もどきの隣に二人目の男性が現れた。
「ちょっ、引っ張らないでくださいよ。ん? ここはどこですか……って、殿下? 良かった! ご無事でしたか、シグルド殿下!」
「心配をかけたな、ヨハン。私なら問題ない」
ヨハンと呼ばれた青年は一人目の金の王子と知り合いのようで、彼を見るや否や泣きそうな顔で顔や体を点検するように覗き込んでいる。
ストレートの銀髪を緩く一つに結び、役人のような格好をしているが、眼鏡をかけたこちらも相当なイケメンだった。
おおーっ、『銀の斧』ならぬ『銀髪の宰相候補様』のご登場ですか。
そういえば、サニーがこの二人に似ている絵姿を見せに来たことがあったような。
シグルド殿下とその右腕の側近の絵だとか言って……あれ?
王子様も宰相候補様も、まさかの本物だったりする?
アワアワしながら二人を見れば、ルシアに目を留めたヨハンが口を開いた。
「あなたは?」
「わ、私はルシア・フォルスと申します」
「……もしかしてフォルス男爵の?」
「はい、娘です」
ルシアがいまだ慣れないカーテシーを披露してからゆっくり顔を上げると、シグルド王子が何かを思い出したように「ああ!」と手を叩いた。
「君がフォルス男爵令嬢か。ちょうどいい。ルシア嬢に確認したいことがあったのだ」
王子様が末端令嬢の私に確認したいこと?
ルシアは頭が真っ白になっていた。
私に?
王太子殿下自ら?
聞くのが怖い……。
「なんでしょう?」
恐る恐るルシアが顔を上げると、王子は予想外のことを尋ねてきた。
「ケチャップというものを知っているかい?」
「ケチャップ? はい、存じております」
この世界のケチャップはルシア発祥なのだから当然だ。
「作ったのはもしかして君ではないのかな?」
「はい。というか、私は作り方を教えただけで実際作っているのは別の者ですが」
ルシアの返答に、ヨハンが「やはりそうでしたか」と溜息を吐いた。
何のことだろうか。
ルシアが首を傾げていると、王子が説明してくれた。
「いや、アーデン子爵が王室に献上したケチャップが好評でね。王都でも『王室御用達』として手広く商売を始めたらしいのだが、子爵は自分の息子が発明したって主張しているんだ」
「あー、残念ながら製造所も権利も子爵に買収されてしまったので……仕方ないですね」
思わず俯いたルシアにヨハンが続ける。
「実はこの前、殿下宛に匿名の告発文が届いたのです。主にアーデン子爵が関わった不正の数々について書かれていたのですが、そこにケチャップを開発したのはルシア嬢であると記されていました。そして、アーデン子爵令息がルシア嬢を側室に迎えることで、実質的にフォルス領を支配しようとしていると」
「それって……」
誰がそんなことを?
まさか……
「うん。私たちもフォルス男爵からの告発だと考えている。アーデン子爵についてあそこまで調べられる者など限られているし、何よりルシア嬢を害するアーデン子爵親子への深い憎悪、嫌悪、執念を隠していなかったからね」
「ええ、匿名の意味がないほどでした」
「でもうちの父にそんな度胸や行動力があるとはとても思えないのですが」
ルシアは困惑を隠せなかった。
彼女の知っている父は、領民に慕われているものの気が弱く、娘に怒られるとすぐべそをかくような、どちらかというと情けない部類に入る大人なのだ。
格上の貴族の不正を明るみにしようと、王太子に直接訴えるような肝の座った性格ではない……はず。
「おやおや、ご謙遜を。フォルス男爵といえば、国有数の才媛であったあなたのお母上をそれはそれは鮮やかな手腕で手に入れられたとか。その切れ者ぶりや大胆なやり口は今でも王都の語り草になっていますよ?」
「家族との田舎暮らしが一番性に合っていると領地にこもって久しいが、男爵の手腕は今も衰えていないようだ」
ヨハンとシグルドの話すフォルス男爵とは、本当にルシアの父と同一人物なのだろうか。
人物像があまりにもかけ離れ過ぎていて、ルシアにはうまく話が入ってこない。
あのお父様に、やり手の仕事人の面があるとはとても思えないんだけど。
長いものには巻かれる主義で、すぐ泣くポンコツの父が本当に?
何かの間違いではないかと訝しむルシアに、能天気な女神が焦れたように話しかけた。
「ねえねえ、お取込み中悪いんだけど、そろそろ私の存在を思い出してもらってもいいかしら〜? 放っておかれっぱなしは寂しいじゃない」
そうだった。
女神の質問に答えるのをすっかり忘れていた。
むしろこの女神がよく今まで大人しく待っていてくれたものだと感心してしまう。
「私の質問、ちゃ~んと覚えているわよね? 仕方ないからテイクツーね。お嬢さん、あなたが落としたのはこの『銀の宰相候補』ですか?」
女神にグイっと引き寄せられたヨハンが、「だからそう引っ張らないでください。それにしても落としたとは一体? 我々はセール川に視察に向かったはずですが」とブツブツ文句を言っているが、もちろんルシアの答えは決まっている。
「女神様、私が落としたのはそちらの銀髪の宰相候補様ではありません」
「え~っ? この子ってばイケメンで秀才で、一見堅物に見えるかもしれないけれど、でも実は好きになった女性には甘えたがる可愛いところもあるのよ~。 本当に後悔しない?」
「ぶはっ。いえ、何でもありません。……はい、宰相候補様は落としていません」
「あら~、インテリ宰相候補様もフラれちゃったわね~」
ヨハンが赤い顔をしてそっぽを向いているところを見ると、好きになった女性に甘えたがるというのは事実なのかもしれない。
シグルドがお腹を抱えて笑っている。
またしても少し勿体ないと思ってしまったルシアだったが、こんなインテリに自分が釣り合うわけがないし、物語を正しく進める為にもこれでいいのだと思い直した。
それに、世の中はほどほどが――以下略。
泉の女神による三度目の問いかけが始まろうとしていた。
いよいよ物語のクライマックスである。
「じゃあこれがラストの質問よ。お嬢さん、あなたが落としたのは……ジャジャーン、この『鉄……っぽい髪色のへっぽこ男』ですか?」
「俺様を気安く引っ張るな! 無礼な奴め……って、お前色っぽくていい女じゃないか。俺の名はコール・アーデン。お前を俺の愛人に加えてやろう」
三人目に現れたのは予想通りのコールだった。
すこぶる元気そうだ。
生きていてくれたことは良かったけれど、やっぱりアイツ嫌いだわぁ。
女神様も、コールを灰色の髪だけで『鉄の斧』に見立てるのはちょっと強引なんじゃないかな。
それを言ったら、三人とも髪色だけで決められた配役なのかもしれないけれど。
死にかけていたことも忘れているのか、早速女神を愛人に誘うコールのブレなささにルシアが引いていると、シグルドとヨハンの二人も彼が噂のアーデン子爵令息だと気付いたのか、冷たい視線でコールを観察していた。
「うわぁ~、なんなのこの男。キモッ! ルシアちゃんが嫌がるはずよ~。煩わしいことはさっさと終わらせるに限るわね。お嬢さん、あなたが落としたのは……こいつ?」
大事な局面にも関わらず、女神は面倒臭くなってしまったらしい。
コールの扱いが極めて雑だが、彼と関わりたくない気持ちはとてもよく理解できるので、ルシアもすぐに返事をしようと口を開いた――のだが。
「女神様、私が落としたのはそちらのコール様で」
「やはりお前が俺を突き落としたのか! 恐ろしい女だな。これだから顔だけの女は……。父上に言って厳罰に処してもらうから覚悟しろ!」
「は?」
「コール様です」と答えるつもりだったルシアの言葉は、コール自身の声によってかき消された。
しかも、ルシアに殺人未遂の罪まで着せてきたではないか。
そっちこそ不同意わいせつ未遂じゃないかと声を大にして言いたい。
「違います。私はコール様を突き落としてなんていません!」
「だって今、俺を落としたって言おうとしていたではないか!」
「それは言葉の綾というか、物語を正しい流れに導く為に敢えてそう言ったというか……。とにかく、コール様は勝手に落ちたのであって、私が泉に突き落としたわけじゃありません!」
もう、どうして私が悪者になるのよ。
まだ「コール様で」しか言ってないんだから、「コール様ではありません」の可能性だって残っていたはずなのに。
……まあ、「コール様です」って答えるつもりだったけれど。
でも仕方がないじゃない、私が関わったのは三人の中ではコールだけなんだよ?
ここでコールを選ばないとハッピーエンドで終われなくなって、全員また泉に戻されちゃうかもしれないんだから。
しかし、ここでルシアにある疑問が生まれてしまった。
正直であることの大切さを訴えていると思われる『金の斧銀の斧』の物語――
実際は泉に何も落としていないルシアが、『落としたのはコール』と答えることがはたして正直と言えるのだろうか。
でも「私は何も落としていません」って答えたら、女神様が「あ、そうなの? 落としてないなら今までのことは全部なしで~」とか言って、三人を泉に連れて帰ってしまう可能性だってあるよね?
王子様とヨハン様も本物みたいだし、いなくなったらそれこそ国の一大事じゃないの。
え、いよいよどうしたらいいのかわからなくなってきた……。
ルシアが必死に頭を回転させていると、何やら女神が自分の頭をちょいちょい指差している。
どうやらルシアに髪飾りを見せつけているらしい。
女神様、こんな時に髪飾りをアピールされても今はそれどころじゃないのですが。
確かに素敵なデザインだけど……あれ? 髪飾り?
ルシアの脳裏に過去の自分が浮かんだ。
それは十年以上前――母の形見を誤って泉に落とし、泣いている小さい頃のルシアの姿だった。
「女神様、私が落としたのは『母の形見の髪飾り』です!」
「ピンポンピンポーン!!」
嬉しそうに手を叩いた後、一度泉に潜った女神はすぐにニコニコ微笑みながら現れた。
ルシアが落とした懐かしい母の髪飾りを、両手で大切そうに包みながら。
「それ……お母様の髪飾り……」
「そうよ~。返すのが遅くなっちゃってごめんなさいね。でも正直に答えたルシアちゃんにはこの髪飾りのほかに……なんとこの三人もあげちゃいま~す!」
キターーーー!!
もらっても困っちゃうヤツーーーー!!
「いやいや多分そうなるかな~って予想はしていたんですけど、やっぱり『ありがとう!』とはならないというか……」
「ルシア、お前が俺にした仕打ち、今から父上に報告させてもらうからな! ちょうど王太子殿下が我が所領内のセール川を視察されている頃だ。俺がお前に殺されかけたと訴えれば、フォルス男爵家は断絶されるに違いない。ふはは、震えて待つがいい!」
ルシアが女神と話しているというのに、地面へと降りたコールはキッとルシアを睨み付け、一人で捲し立てた挙句にドタドタ走り去ってしまった。
うん、そうなると思ってた。
せっかく助けてあげたのに、恩を仇で返すとはまさにこういうことね。
どうしたものかとうんざりぎみのルシアのそばで、シグルドが笑いを零す。
「『王太子殿下』ならここに居るというのにな」
「ええ、彼はあんなに急いで、誰に何を訴えるつもりなのでしょうね」
肩を竦めたヨハンが胸元から笛のようなものを取り出し、息を吹きかけた。
音が鳴らないことを不思議がるルシアに、シグルドが教えてくれる。
「王家の影だけが聞こえる特殊な笛なんだ。すぐにこの場所を特定して迎えに来るだろう」
「あら~、じゃあ私はのんびりしていられないわね。ルシアちゃん、いつもお花のお世話をありがとう。困りごととお願い事はそこのお兄さんたちが解決してくれるから安心して。じゃあ、まったね~!」
「あ、女神様!」
ルシアが呼び止めたが、女神は吸い込まれるように泉へと姿を消していた。
出てくるときも突然だったけど、どうしてそんなにあっさり帰っちゃうのよ。
まだ髪飾りのお礼も言えてないのに。
ルシアはなんだか胸にぽっかりと穴があいた気分になってしまう。
「きっと泉の女神なりの君への感謝の気持ちだったのだろうな」
「そうですね。あなたの困りごととはコール殿のことで間違いないですか? でしたらもう心配はありませんよ。セール川の視察という名目で子爵領にお邪魔していましたが、国からの補助金が使われていないことは確認できましたし、屋敷からも他の不正の証拠が見つかっている頃でしょう。アーデン子爵家は爵位の返上、領地の没収が妥当でしょうね」
「……っていうことは、私はコール様の愛人にならなくて済むのですか!?」
「もちろん。ケチャップの権利も君に戻るように私が手配しよう」
「殿下、ヨハン様、ありがとうございます!!」
ルシアは飛び上がって喜ぶと、年甲斐もなく泉のまわりをクルクル踊り出す。
亡くなった母と女神が二人でルシアをコールから守ってくれたのだ。
今日だけは全身で嬉しさを表現しても許されるだろう。
「ところで……」
律儀にもルシアが踊り終わるのを待って、シグルドが声をかけてきた。
「困りごとは解決したとして、ルシア嬢のお願い事とはなんだい? 女神が言っていただろう?」
「ああ、それなら理想の結婚相手のことだと思います。私、いつも『まあまあの顔でそこそこの性格、ほどよい生活水準の男性が現れますように!』って、女神様に祈っていたので」
「まあまあの顔でそこそこの性格、ほどよい生活水準の男性……」
ヨハンがシグルドと一度目を合わせると、ルシアに向かって爆弾発言をした。
「でしたら我々なんていかがですか? 婚約者もおりませんし、あなたには助けられた恩もあります。どちらでもお好きな方をお選びください」
「へ!? いやいや、むしろ私のせいでお二人は巻き込まれたのではないかと……」
「セール川に引きずり込まれるようにして落ちた記憶はあるのです。これは推測ですが、あなたの返答によっては我々は無事でいられなかった可能性もありますので」
うーん、女神様はインパクトのある「金髪」と「銀髪」を探していただけで、初めからすぐに帰してくれるつもりだったと思うけどなぁ。
あの女神様が人を傷付けるとは考えにくいし。
よし、とにかくここははっきりとお断りしておこう。
「お気持ちはありがたいのですけど、お二人は性格……は正直よくわかりませんが、顔と生活水準が全っ然ほどよくなさそうなのでお断りさせていただきます」
「え、私はともかく、殿下もあなたのお眼鏡にかなわないですか?」
「そうですね。私の求める『ほどほど』からかなーり逸脱しておられる方なので、手に余るといいますか。私は土にまみれて生きていきたいので」
「フフッ、アハハハハ!! まさか二度も我々がフラれるとはな。なんて愉快な日だ」
「あなたも十分逸脱した顔をしていると思いますけどね」と、ヨハンがルシアに対して不満げな表情をしている隣で、シグルドが大笑いしている。
やっぱり王子の自然な笑い顔はとてもいい。
「こちらにいらっしゃいましたか。お迎えに上がりました」
気付けば黒装束の男たちに囲まれていた。
王家の影と呼ばれる人たちに違いない。
「ルシア嬢、私の知り合いに長閑な土地で畑仕事に携わりたいと言っている、そこそこいい男がいるんだ。楽しみにしていてくれ」
「ああ、その男なら心当たりがありますね。王都の空気が肌に合わず、爵位や容姿にばかり興味を示す令嬢たちに辟易している男なのですよ。……おや、彼の好みそうなレアな令嬢がここに」
二人の意味の分からない言葉に、ルシアは首を傾げた。
「今はまだわからなくていいさ。ではルシア嬢、世話になった。また会おう」
「今日のところは失礼しますね」
まるで悪だくみをするような、いたずらっぽい笑顔を残して二人は去っていったのだった。
その日以来、ルシアは目まぐるしい日々を過ごしていた。
ケチャップの開発者として王家に正式に認められたことで、大量の注文が入るようになったのだ。
アーデン子爵家が没落したことで、買い叩かれていた作物も適正価格で各地へ流通するようになり、領内は活気づいている。
実は切れ者だったらしい父も、ルシアの前では相変わらずのヘタレ具合で、娘に叱られ泣きながらも楽しそうに働いていた。
そんなある日、元アーデン子爵領だった土地に新しい領主が決まった。
なんと、あの『銀の宰相候補』ヨハンの父であるハミルトン侯爵が、長年王家を支えてきた褒賞として領地を賜ることになったとかで、近々ヨハンの弟が領主代理としてこちらに赴任するという。
ヨハン様の弟さんならフォルス領を害することはなさそうね。
心配事もなくなったし、今度こそほどほどの結婚相手を見つけないと!
ルシアがインテリイケメンのヨハンの顔を思い浮かべながら呑気に考えていたら。
「君がルシア嬢? 僕も草取りを手伝ってもいいかな?」
またまた雑草を抜いている最中のルシアに声をかけてくる者がいた。
顔を上げれば、仕立てのいい外出着を身に着けた二十歳そこそこの爽やかな青年が、お供も連れずにキラキラとした目でルシアを見ている。
人懐っこそうな笑顔と太陽に反射する緋色の髪が眩しく、ルシアは一瞬目を細めた。
誰だか知らないけれど物好きな貴族もいたものね。
まあ、私も人のことは言えないけど。
こっちは猫の手も借りたいくらいだし、バンバン草を抜いてもらいましょうか。
「服が汚れてもかまわないならどうぞ」
「ありがとう! じゃあ、僕はそっちの列を担当しようかな」
「待って! せめてジャケットだけでも脱ぎましょう。土も草の汁もなかなか落ちないんですから気を付けないと」
つい偉そうに言ってしまったが、なぜか青年は楽しそうにはにかんでいる。
洗濯の大変さを知る侍女のサニーが、同意するように遠くでうんうんと頷いているのが見えた。
「今日は男爵への挨拶だけのつもりだったからこんな格好でごめん。でも君がここにいるって聞いてどうしても会ってみたくて」
「お父様に挨拶? それに私をご存じなんですか?」
青年はジャケットを脱ぎ捨て、シャツの袖を捲りながらルシアの側までやってきた。
近くで見ると端正な顔立ちをしており、身長もルシアより頭一つ分高く、シャツから覗く腕が思いのほか逞しい。
「もちろん知っているさ。僕の名はアーノルド。元子爵領を任されることになったんだ。殿下と兄上がルシア嬢によろしくって言っていたよ」
殿下と兄上がよろしく……?
「もしかしてヨハン様の弟さん? 新しい領主様の?」
爽やか青年は、まさかのハミルトン侯爵令息だったらしい。
領主に草取りをさせていいものかとルシアは逡巡したが、アーノルドは鼻歌を歌いながら慣れた手付きで草を抜いている。
植物の種類も理解しているようで、不要な草だけを的確に抜いているあたり、ただものではなさそうだ。
さすがインテリ宰相候補の弟である――顔は似ていないが。
「僕はあくまで代理だけどね。ずっと王都から離れた土地で、人や土と触れ合う暮らしをしてみたかったんだ。学園でも農業を専攻していたし」
「なるほど、確かに納得の手付きですね。頼りになる仲間ができて嬉しいです! ……って、ごめんなさい。領主様には領主様のお仕事がありますよね。私ったら勝手に仲間意識を持ってしまって」
思わず興奮してしまったルシアだったが、冷静に考えると彼はルシアとは立場が大きく違う。
領主が土にまみれるなど常識で考えたらありえないことだ。
「ハハッ! やっぱり兄上たちが言っていたとおりだった。ルシア嬢はとてもいいな」
「兄上たちが言っていた?」
「ああ。見た目は儚い美少女なのに、口を開くととても面白いって」
「……褒めてませんよね?」
「褒めてるよ。僕の好きなケチャップの開発者だし、殿下と兄上を二度も振ったんだって?」
「振ってないです!」
その後も楽しそうに草を抜き、水を撒いたアーノルドは、「明日は作業用の服で来るよ!」と言って帰って行った。
『明日?』とルシアが不思議に思っていたら、アーノルドはそれから連日手伝いにやってきた。
ある日は珍しい野菜の種を持ってきたり、またある日は品種改良中のトマトをケチャップに使えないかと提案してきたり……。
「領主って暇なんですね」
「ひどいなぁ。僕、結構真面目に仕事してるんだよ? ルシアのことが好きだから頑張って通っているのに」
「はいはい、そういうのいいですから」
「本当なのに……。あ、今日もオムライス作ってくれる?」
「またですか? よく飽きませんね」
ルシアには最近、アーノルドが大型のワンコに見える時がある。
遠くから嬉しそうに走ってきたり、オムライスを作るルシアの隣で、何が楽しいのかずっと笑顔で見守るように立っていたりするのだ。
気を許してくれているのか、食べさせて欲しそうに口を開けて待っている姿になぜかキュンキュンしてしまい、ルシアもわざと怒った素振りをしながら、つい「あーん」と食べさせてしまったりする。
父が泣きながら「嫁になんてやらないからな!」とアーノルドに食って掛かる光景にも見慣れてきた。
ある日、二人で泉を訪れていると、アーノルドが真面目な口調で切り出した。
「ねえ、ルシア。ルシアは『ほどほど』の男と結婚したいって聞いたんだけど」
「そうですね。正確に言うと『まあまあの顔でそこそこの性格、ほどよい生活水準の男性』ですけど」
「それって僕じゃ駄目? ルシアのことが好きなんだ」
「好き? 私のことが?」
アーノルドの纏う空気がいつもと違う気がする。
「はいはい」と冗談では返せない熱を彼の琥珀色の瞳に感じた。
甘えられている自覚はあっても、まさか好意を持たれているとは思いもしなかったルシア。
しかし、そこでふと女神の言葉を思い出した。
それは確かヨハンに対して言っていたと記憶している。
『実は好きになった女性には甘えたがる可愛いところもあるのよー』
もしや、顔は似ていないのにそんなところに兄弟の共通点が?
ハミルトン家恐るべし!
確かにアーノルドも領主としての評判が良く、若いのに仕事に真面目で浮ついたところがないと言われているそうだ。
アーノルド様が私のことを……。
あれ? なんだか胸の鼓動が煩いような。
いやいや、私の理想はほどほどの男性であって、こんなハイスペックな人は求めていないはずで!
動揺するルシアの耳に、女神様の声が聞こえる。
『ルシアちゃん、正直におなりなさい。それと、落ちるなら泉より恋がオススメよ~』
思わず吹き出してしまった。
そうでした。
正直者が最後にすべてを手に入れられるんですよね、女神様?
だったら……
「アーノルド様、私もあなたが好きです!」
静かな泉の水面には、いつまでも抱き合う二人の姿が映っていたのだった。
お読みいただきありがとうございました!