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「心配なことがあるのですけど」
神山の会社から帰ったわたしを待っていた夢丘が不安そうな声を出した。
「何?」
「実は、言いにくいんですけど、英語がちょっとダメなので……」
新しい美容室では外国の女性ミュージシャンのヘアメイクがルーチン業務になっているが、通訳がいないとコミュニケーションが難しいという。
「前回は神山さんが通訳を付けていただいたのでなんとかなりましたが、開業したら自分でやらなければならないと思うと気が重くなって……」
確かにその通りだった。女性ミュージシャンだけでなく、裕福な外国人観光客も来るだろうし、その対応を考えておかなければならなかった。
「そうか~、困ったね~」
富士澤さんも英語は苦手らしいし、採用が内定した美容師にメールで確認したが、英会話が得意な人はいないという。
もちろん、わたしも自信がない。大学院時代にアメリカの文献を読んだが、辞書を引きまくってなんとか理解できた程度で、コミュニケーションが取れるレベルではない。
「通訳を何人も雇うわけにはいかないしね~」
「そうですよね~」
それで会話が止まったが、その時、大変なことに気がついた。
予約での対応だ。準備中のホームページは英語対応になっていないのだ。裕福な外国人観光客を見込んでいるのに、これでは門戸を閉ざしていることになる。
「大変だ!」
わたしは慌てて東京美容支援開発の担当者に電話を入れた。
*
「わかりました」
彼の声は落ち着いていた。
「早速、英語対応の追加に取り掛かります」
依頼しているシステム会社は外資系なので、英語対応はお手の物だという。
更に、AIによる自動変換を使えば、高い精度で日本語に変換して表示できるという。
「わ~、ありがとうございます。助かります」
これでホームページの予約システムの問題は解決した。
あとは、外国の人から電話があった時の対応と来店時の対応だ。
「予約はネット限定にされたらどうですか? そうすれば電話がかかってきた時に慌てなくて済みますから」
「あっ、そうですね。そうします、そうします。ありがとうございます」
次々に解決策を出してくれる担当者が頼もしく感じられて思わず顔が綻びそうになったが、最後に残った課題が頭に浮かぶと、その高揚感は消えた。
「お客様との直接の会話を支援してくれるようなものは……」
ないですよね? と言ってしまうと話が終わってしまいそうなので口の中にとどめたが、〈あります〉という答えは返ってこなかった。
「こればっかりはどうしようもありませんね」
かなり精度の高い翻訳機はあるが、接客時に使うのは難しいという。
「実際の場面では、美容師は両手で施術しながら会話をするわけですから、翻訳機を手に持って使うわけにはいきませんので、ちょっと難しいと思います」
その通りだった。カットもカラーリングもパーマもトリートメントもブローもすべて両手を使うのだ。翻訳機を持ちながら施術ができるわけはない。
「そうですよね。会話の度にいちいち施術を止めるわけにもいかないし……」
「ですよね。こればっかりは人が対応しないと無理だと思います」
通訳を雇うしか方法がなさそうだった。
「どこか良いところがあれば紹介いただきたいのですが」
「いや、それはちょっと難しいですね。今までそういうご依頼をいただいたことがありませんから」
会社の取引先に通訳の派遣会社はないという。
「わかりました。他を当たってみます」
「お役に立てなくて申し訳ありません」
「とんでもないです。ホームページの英語対応やネット限定予約など多くのお知恵をお借りでき、とても助かりました。本当にありがとうございました」
*
丁寧に礼を言って会社を辞したが、心は軽くなかった。
根本的な問題が解決していないからだ。
家に帰って、すぐにネットで調べたが、どこに連絡を取ればいいのか、さっぱりわからなかった。
そもそも、美容業界の専門用語に対応できる通訳なんているのだろうか?
根本的な疑問が浮かんでくると、スマホを操る指が止まった。
いるわけはないのだ。
そんなことは聞いたことがない。
施術している美容師の横に立って通訳する姿は想像すらできなかった。
無理だよな~、
それ以上検索しても意味がないと思うと、一気に気が重くなった。
スマホの画面を閉じて、机の上に置いた。
*
その夜に見た夢は悲惨なものだった。
追い詰められていた。
目の前にはナイフを持った男、後ろは崖だった。
逃げ場は完全に塞がれていた。
やられる覚悟で男に向かっていくか、海に身を投げるかしかなかった。
男がにじり寄ってきた。
わたしは後ずさった。
すると、何かが落ちた。
小石かもしれなかった。
崖を伝わって落ちたのだろうか、途中から音が消えた。
もう一歩も下がれそうになかった。
でも、その時、男が更ににじり寄ってきた。
もう一刻の猶予もなかった。
飛びかかるか、身を投げるか、決断を迫られた。
男が更に一歩踏み出した。
反射的に後ずさりしてしまった。
その途端、体が揺れた。
あっ、と思った時には宙に浮いていた。
ウヮ~、
両手をばたつかせたが、なんの意味もなかった。
真っ逆さまに海に落ちると、いきなり口の中に海水が入ってきた。
息ができなくなった。
もがくしかなかったが、海面はどんどん遠ざかっていった。
ワ~!
叫んだ瞬間、目が覚めた。
全身に汗をかいていた。
上半身だけでなく、トランクスもびしょ濡れだった。
慌てて飛び起きて、すぐに着替えたが、荒い息はなかなか収まらなかった。
心の重荷が夢になったのだと思った。
外国人女性客への英語対応と速攻カットへの支援依頼。
どちらも解はなかった。
崖っぷちではないにしても、追い詰められたような感じになっていた。
着替えたばかりだったが、シャワーをすることにした。
中年臭とは思いたくないが、嫌な臭いがまとわりついていた。
スッキリ洗い流して、気分を変えることにした。




