(13)
「んん、」
話すタイミングを計るように店長が喉を鳴らした。
「妻に反対されてね」
やっぱりそうだった。
「せっかく店長まで上り詰めたのに、今、こんなに安定した生活が送れているのに、それを捨てて、実績のない、これから立ち上げる美容室に移るなんて、私は反対。もし失業して働くところが見つからなかったらどうするの?」
奥さんはそう言って、お腹に手を当てたという。
2人目の子供が宿っていたのだ。
だから、家族が増えようとする時にリスクを負うのは賢明とは言えない、と釘を刺されたという。
「上の娘は幼稚園に入ったばかりでね。かわいい盛りなんだ。髪を切ってあげると、『私もパパみたいになる』と嬉しいことを言ってくれてね。そんなこともあって、将来は娘と2人で美容室をやれたらいいなと思うようになった。でも、そんな矢先に妊娠がわかって、責任が一気に増えた。すると、現実をもっと直視しないといけないと思うようになった。過当競争と過重労働の現実を考えると、美容師の道に進ませることが本当にいいことなのか迷いが生じた。自分にとっては天職だと思っているが、だからといって子供に押し付けることが正解だとは限らない。だから子供が大きくなってその適性があるかどうか判断できるまでは、その夢を胸の内にしまっておくことにした」
君たちも同業だからわかるよね、というふうに夢丘とわたしに目をやってから、その先を続けた。
「今の生活は妻が言う通り安定している。業界水準以上の給料を貰っているし、プライベートで大事な用事がある時は週末に休むこともできる。労働環境にはなんの問題もない。でも、店長とはいえ雇われには違いない。これ以上の出世はないんだ。それに、オーナーは堅実を旨としているので、支店を出すという計画もない。暖簾分けを期待することもできない」
それでいいのだろうかという思いが最近、頭をかすめるようになったという。
これからの人生を考えると、今の生活を何年も何十年も続けるのが正解なのかわからなくなったと顔をしかめるようにした。
「仕事は楽しいし、スタッフともうまくいっている。数多くのお客様から指名を頂いているから、なんの不満もない。でも、それが不安にさせる。今がピークなのではないかと。これから下っていくだけではないのかと」
家に帰って子供の寝顔を見ながら〈今日も充実していた〉と満足する一方で、何かが足りないと思う自分がいる。幸せなのに疑ってしまう自分がいる。そして漠然とした不安に苛まれるのだという。
「そんなことを考える原因がなんなのか、はっきりとはわからない。ただ、安定の副作用のような気がしている。マンネリに陥っているとは思ってないけど、でも、完全には否定できない。気づかないうちに侵食されている可能性がないとはいえない。サイレントキラーのように音もなく蝕んでくるものを防ぐことはできないからね」
そんなこともあって、人生とは? と考えるようになったという。
どういう理由で生を与えられたのか?
何を為すために生を与えられたのか?
そんなことに思いを巡らせるようになったという。
「考えてもわかるはずはないけど、そのことを考えない日はなくなった。多分、分岐点に差し掛かっているんだろうね。疑いもせず突き進んできたけど、立ち止まって冷静に考えなければならない時期に来たんだと思う。このままで本当にいいのか? とね」
わかるかな? というふうに見つめられた。
わたしは頷いた。
人生の転機を既に経験していたからだ。
「そんな時にあり得ない話を君たちから貰った。信じがたい話だった。あのヒヨッコだった愛乃が業務委託とはいえ自分の店を持つというだけでなく、日本一の高層ビルの最上階で腕を振るうという驚くべき話だった。正直、羨ましかった。いや、嫉妬した。なんで愛乃なんだと。なんで俺じゃないんだと。でも、それが人生なんだと言い聞かすしかなかった。人にはそれぞれ与えられた役割があって、それが生を受けた理由なんだと納得させるしかなかった。もちろん、先のことはわからない。俺にだって大きなチャンスが巡ってくるかもしれない」
そう思った時、もうしかしたら、それが今回の話ではないかと気づいたという。
これこそが大きなチャンスなんだと。
すると居ても立ってもいられなくなり、すぐにノートを広げて、考えられる限りのメリットとデメリットを書き込んだという。
「メリットとデメリットのどっちが大きいか、必死になって比較したよ」
特に、デメリットについて詳細に検討したという。
失うものの大きさを過小評価していないか、何度も検討したという。
その結果、失うものは少ないという結論に達したらしい。
「こんなことを言うのは縁起が悪いかもしれないけど、もし店が倒産したとしても、経営者ではない自分は職を失うだけで、借金を背負うわけでも資産を差し押さえられるわけでもない。それに、職を失ったとしても自分には腕がある。すぐにどこかの美容室で働ける自信がある。だから家族を路頭に迷わせることはない。そう確信したんだ」
それから必死になって奥さんを説得したという。
こんなチャンスは二度とないと口説きまくったという。
でも、奥さんは首を縦に振らなかったという。
家族が増えようという時に転職するのは無謀だと咎められたという。
「それが1週間前だったんだ。会うのをキャンセルした日。でも、諦めきれなかったから、もう1週間だけ時間をもらおうと思った」
それでもダメだったら、諦める覚悟だったという。
「どうやったら説得できるか考えて、考え抜いたんだけど、一昨日まではなんのアイディアも浮かんでこなかった。でも、その夜、眠れないまま考えていたら、ふと、〈百聞は一見に如かず〉という言葉が浮かんで来たんだ」
それで、昨日、早引きをして、奥さんと娘を現地に連れて行ったそうだ。
「残念ながら予約で満席でライヴレストランには入れなかったけど、待合スペースの窓から見える夜景に妻も娘も目を奪われていた。信じられないというような目をしていた。『凄いね~』という言葉を何度も口にした」
そのチャンスを逃さなかったという。
「もしここに美容室があって、そこでパパが働けたら、どう思う?」
すると、「カッコいい!」と娘が目を輝かせたという。
それを見た奥さんの口元が緩んだので、そのタイミングを逃さず、店長はキメの言葉を発したという。
「俺の最初のお客さんになってくれないかな」
「それで、どうなったんですか?」
たまらなくなったように夢丘が口を挟んだ。
奥さんの返事一つで夢丘の運命も決まってしまうのだ。
気が気ではないのは当然だった。
「約束よ、って言ってくれたよ」
「じゃあ」
わたしも前のめりになった声を出してしまったが、店長は落ち着いた声を返してくれた。
「うん。この話、受けさせてもらうよ」
「本当ですか?」
信じられないというふうに夢丘の目が大きく開いた。
「うん、本当だ。よろしく頼むね」
店長が笑みを返した。
「ありがとうございます」
夢丘が感極まった声を出した。
「なんと言ってお礼を言えばいいか……」
わたしも感情の高ぶりを抑えることができなかった。




