(2)
駅に着いた時、ハッとした。
経営大学院から駅までをどうやって歩いたのか、まったく覚えていなかった。
6車線の国道をまたぐ長い歩道橋を渡って、そのあと大きな交差点を二つ渡ったはずだが、まったく記憶にないのだ。
正常ではないことは間違いないので、ここから一人で帰るのは危ないと思った。
夢丘に電話して、「駅前のレストランに来てほしい」と伝えた。
*
「どうしたのですか? 何があったのですか?」
彼女は慌てて家を出てきた様子で、珍しく髪が乱れていた。
定休日で寛いでいたところ、電話の切羽詰まった声に驚いて、取る物も取り敢えず飛び出したのだという。
「うん。凄いことが起こった」
言ってから視線を落とすと、泡が消えたビールが見えた。
注文したあと、一口も飲んでいなかった。
「飲むのを忘れていたよ」
そう言って笑ったつもりだったが、うまく笑えなかった。
「で、なんなのですか?」
顔を近づけてきたので具体的に話そうとしたが、周りのテーブルに人がいるのに気づいて、すんでのところで止めた。
こんな話を他人に聞かれるわけにはいかない。
近くに人がいない隅の席に移動して、教授室でのあらましを小声で説明した。
「そんなこと……」
彼女は小さな声で大きく驚いた。
その後は黙って見つめ合ったが、突然、わたしのお腹が鳴った。
窓の外はもう暗くなっていた。
気が抜けたビールを前にして、わたしたちはずいぶんの間ボーっとしていたらしい。
するとまたお腹が鳴ったので、急に可笑しくなって笑いが込み上げてきた。
声を出さずに笑うと、またお腹が鳴った。
これ以上放置するわけにはいかないので、この店で食事をすることにした。
「今夜は少し贅沢をしてもいいよね」
彼女が頷いてくれたので、ドリンクメニューを開いて、シャンパンの文字を探した。
グラスとボトルが載っていた。
迷わずボトルを選んだ。
2万円を超えていたが、今日は特別な日なのだ。罰は当たらないと思った。フランスのシャンパーニュ地方で造られるものだけに許される特別な名称の発泡酒で乾杯することにした。
少しして、ソムリエがシルバーに輝くシャンパンクーラーを持って、席にやってきた。
一礼したあと、ラベルを見せながらシャンパーニュの説明をした。
その蘊蓄はまったく理解できなかったが、わからないという顔をするわけにもいかないので、適当に頷きながら聞き流した。
説明が終わると、ソムリエが厳かに栓を開けた。
見事な手つきだった。
厳かに注いだ。
上品な仕草だった。
スマートなグラスには見たこともないような繊細な泡が立ち上り、爽やかな酸味が香ってきた。
じっと見つめていると、ソムリエは氷の入ったシャンパンクーラーにシャンパーニュを入れ、「ごゆっくりお楽しみください」と言ったあと、一礼して背を向けた。
彼が去ると、緊張が解けた。
そのせいか、強ばって上がっていた肩を2人で同時にすとんと落とした。
声を出さずに笑い合った。
それが収まると、グラスを目の前に持ち上げ、「乾杯」と可能な限り厳かな声で言った。
料理も奮発した。
『モッツアレラチーズの完熟トマト添え』
『毛ガニとオマールエビのミルフィーユ仕立て、旬の野菜添え』
『鶏、豚、牛のミックスパテ、ベビーリーフ添え』
そして、メインは、
『赤身エイジングステーキを、塩コショウだけでシンプルに』
デザートは、
『パティシエお勧めの3種プチケーキ』
すべて食べ終わると、ペコペコだったお腹が満腹になり、栄養が行き渡ったせいか、脳が活性化し出した。
すると、大学院卒業後から考え続けていたことが明確な形になって脳裏に浮かんだ。
今までは単なる夢にしか過ぎなかったが、現実のものとして捉えることができた。
コーヒーを飲み終わったあと、彼女にそのことを伝えた。
美容室の全国チェーンについて熱く語った。




