(17)
翌朝、熱を測ると、38.6度だった。
かなり下がったが、まだ安心できる状態ではなかった。
それでも、バナナを丸々1本食べたので、元気が戻る兆しが見えたようにも思えた。
わたしは精が付くものを買うために、9時過ぎに部屋を出た。
ネットで検索した情報に従って、昼食は鮭入りのパスタをメインにし、フルーツヨーグルトを添えることにした。
夕食は肉うどんをメインにし、野菜たっぷりスープを添えることにした。
*
食材を買って部屋に戻ると、ベッドの上で上半身を起こしていた。
寝てばかりいたので腰が痛いという。
「テレビでも見る?」
「ううん」
まだそんな気分ではないという。
本も読む気にならないし、音楽を聴く気にもならないので、何も必要ないという。
そう言われて、困った。
他に考えつくことはないし、といって、黙っているわけにもいかない。
健康な時だったら無言で見つめ合っても、それだけで幸せだが、病気の時は違う。なんとか彼女をリラックスさせてあげたいのだ。
そう思うと、何かをしなければならないと気が急いた。
そのせいか、意外なことが口から飛び出した。
「じゃあ、お話しでもしようか?」
「えっ、お話し?」
「うん。お話し」
何も頭に浮かんでいなかったが、辻褄を合わせるしかなかった。
「どんな?」
「う~ん、そうだな~」
糸口を探して頭の中をパトロールしていると、不意に「どんぶらこ」という言葉に行き当たった。桃が川を流れてくる音だった。おじいさんとおばあさんの顔が浮かぶと、それがわたしと彼女の顔に変わった。これだ! と思った瞬間、口から声が出ていた。
「昔々ある所に若白髪の男と髪結いの女が住んでいました。男は山に柴刈りに、女は川へ洗濯をしに出かけました。夕方になって男が薪になる小枝を持って帰ると、女は待ちかねるようにして、川で拾った大きな桃を男に見せました。すると、男のお腹が鳴りました。山の中を歩き回ってお腹がペコペコだったからです。すぐさま男は台所から包丁を持ってきて、桃を二つに割りました。するとどうでしょう、桃の中からかわいい赤ちゃんが出てきたのです。でも、その体は真っ黒でした。抱き上げた女は、それが汚れだと思ってすぐに体を洗いましたが、いくら洗っても白くなりませんでした。それで男に渡すと、顔が怖かったのか、いきなりビェ~っと泣き出しました。その瞬間、口から黒い液体が飛び出してきました。すると、赤ちゃんの体は白くなっていきましたが、男の頭は真っ黒になりました。男は驚いてすぐに頭を洗いましたが、いくら洗っても黒いものが取れることはありませんでした。それ以来、男の髪は死ぬまで黒いままだったとさ。めでたし、めでたし」
「なに、それ?」
「桃から生まれた黒太郎」
「変なの」
でも、くすっと笑って、他にもある? とせがまれた。
とっさに思い付いたことを口にした。
「昔々、ある所に髪結いの女が住んでいました。別のある所には若白髪の男が住んでいました。2人は仲の良い友達だったので、お互いの夢を語り合いました。そうするうちに、男は女の夢を聞くのが好きになりました。それだけでなく、自分の店を持ちたいという夢を叶えさせてあげたいと思うようになりました。だから、なんとか力になるために頑張っていましたが、ある日、突然、女が熱を出して倒れてしまいました。これは大変と、男は必死になって看病しました。寝る間を惜しんで看病しました。すると、新たな想いが浮かんできました。一緒に住んで今まで以上に応援したいなって。それを女に話すと、女は受け入れてくれました。一緒に住むようになった女と男は力を合わせて頑張りました。すると、小さいながらも自分たちの店を持つことができました。そして、お店はいつまでも繁盛しましたとさ。めでたし、めでたし」
話し終わって、恐る恐る彼女の方に顔を向けると、いつの間にか横になっていて、布団を頭まで被っていた。
それがどういう意味なのか、わからなかったが、〈目を合わせたくない〉という意思表示のように思えた。
一気に不安になった。
調子に乗って余計なことをしゃべってしまった自分に嫌悪を覚えた。
なかったことにしたかったが、話してしまったことを取り消すことはできない。
「ごめん」
とっさに謝った。
心の中には「なんてことをしてしまったんだ」という悔恨が渦巻いていた。
取り返しのつかない失敗をしでかした愚かさが胃液を口まで運んできた。
「ごめん」
それしか言えなかった。
ところが、
「ううん」
くぐもった声に耳を疑った。
でも、聞き間違いではなかった。
怒ってはいなかった。
否定されてもいなかった。
「それって……」
ドキドキしていると、布団の中で夢丘が動いた。
頭まで被ったままだったが、寝返りをするように、こちらを向いたようだった。
「うん」
その声は小さかったが、耳の中で何倍にも増幅し、頭の中を占領してしまった。
わたしは金縛りにあったように動けなくなった。
「うん」という声の鎖が何重にも巻き付いて、いつまでも私を束縛していた。




