(5)
遂にその日がやってきた。
わたしは緊張しながら、教授が教室に入ってくるのを待った。
時間通りに現れた教授は厳しい表情を浮かべていた。
机の前で立ち止まると、資料をそこに置き、ゆっくりと教室全体を見渡した。
「今日は何も言わない。誰も指名しない」
そして、教壇の上を歩きながら、「発言する人は必ず挙手をするように。一番早く手を挙げた人は立って自分の意見を述べなさい。もし誰も発言しなければ……沈黙の90分になる」と何故か笑みを浮かべた。
受講生はそれぞれ周りを見回していたが、手を上げる人の姿は確認できなかった。
わたしを含めて真っ先に挙手する勇気のある人はいないようだった。
それでも、譲り合うムードの中、手を上げる者が現れた。
神山だった。
「私はコンサルタントの仕事をしていました。多くの企業分析をし、経営指導をしてきました。そこで気づいたことがあります。経営成績の良い企業とそうでない企業の違いです。その違いは独自価値の有無です」
えっ、独自価値?
えっ⁉
言おうとしていたことを先に言われてしまった。
どうする?
動揺してしまったが、そんな心の内を知るはずもなく、神山は話を続けた。
「他社にはない独自価値を持つ企業は価格競争に巻き込まれることなく自らの土俵で相撲を取ることができます。逆に独自価値を持たない企業は他社と血みどろの戦いを強いられます。言い換えると、独自価値を持つ企業はブルー・オーシャンを悠々と泳いで行けますが、持たない企業はレッド・オーシャンで血みどろの殴り合いをしながら泳がざるを得ないのです」
すると、オ~、という感嘆の声が教室のあちらこちらから漏れた。
さすがプロのコンサルタントは言うことが違う。
教授も大きく頷いている。
それで一気に手が上がるかと思ったが、神山が座ると、また沈黙の時間が訪れた。
それはそうだ、最初からあんなレベルの高いことを言われたら誰だって躊躇するに決まっている。
周りの受講生はうつむいたり目を閉じたりしているだけで、重苦しい時間が過ぎていった。
最年長のわたしがそれを打破しなければいけないと思った。
思ったが、独自価値という武器を失ったわたしに挙手をする術はなかった。
口に手を当ててじっとしているしかなかった。
惨めな時間を甘受するしかなかった。
俯いて耐えるしかなかった。
それは他の人も同じようで、このまま沈黙の時間が続くのではないかと思った時、「はい」という甲高い声が聞こえた。
目をやると、西園寺が手を上げていた。
「独自価値という視点はとても重要だと思います」
神山の意見に同感の意を表してから話を続けた。
「私は建設会社に勤めています。業界で大手の会社です。弊社を含めた大手5社の売上規模はほぼ同じです。今は東京オリンピック関連の受注が好調で5社共に増収増益を続けていますが、オリンピックが終われば受注が減るのではないかという懸念が強まっています」
それは新聞やテレビでも報道されていた。
オリンピック特需の反動が懸念されていたのだ。
「もし、その懸念が当たって案件が減ってくると、受注競争が激化します。そうなるとほとんど利益の出ない案件でも取りに行く可能性が出てきます。場合によっては赤字覚悟で受注することがあるかも知れません。正にレッド・オーシャンです」
神山に続いてレッド・オーシャンという言葉が飛び出した。
2人はそれが鍵になる言葉だと考えているようだった。
「しかし、レッド・オーシャンに身を投じることは現に慎まなければなりません。まったく価値を生まないからです。それどころか、身を亡ぼす行為でさえあるからです。ですので、どんな状況になろうとも適正な利益をもたらすブルー・オーシャンを目指さなければならないのです」
それが独自価値であり、それを磨くために研究開発費を大幅に増やしていると言って、席に座った。
その途端、宮国が手を挙げて、立ち上がった。
「私が勤める製薬会社でも独自価値の重要性は高まっています。というより、独自価値を持たなければ生き残りは困難です。昔は皆保険制度と薬価制度に守られていたので、他社と同じような薬を発売しても利益を出すことが可能でした。しかし、国民医療費の増大が国家予算を圧迫するようになると、10兆円規模になった薬剤費に厳しい目が向けられるようになり、大幅な薬価改正や後発品の使用促進が声高に叫ばれるようになりました。その結果、横並びの成長は終わりを迎えたのです」
そこで話を切って、左手を口に当てた。
次に言おうとすることを確認しているかのように見えたが、それが長く続くことはなかった。
「ファースト・イン・クラスという言葉があります。日本語では画期的医薬品と言われています。これは新規性や有効性が高く、従来の治療体系を大幅に変える可能性のある医薬品のことです。この新薬の開発に成功すれば患者様に大きな貢献をするのはもちろんのこと、自社の経営にも大きなプラスの影響をもたらします。薬価に大きな加算がつくのです。正に独自価値と言えます」
同じ製薬業界に勤めていたわたしは彼の言うことがよく理解できた。
だから一言も聞き漏らさないように耳をそばだてた。
「更に、ファースト・イン・クラスの新薬には世界の大手製薬会社から提携依頼が殺到します。何故なら、対象疾患にもよりますが、全世界で数千億円規模、中には1兆円を超える売上になることも珍しいことではないからです。つまり、独自価値が売上と利益を極大化させるのです」
その通りだった。
この前まで勤めていた会社が認知症治療薬に10年の歳月と1,000億円の研究費を注ぎ込んだのはそのためだった。
「ただ、その開発は容易ではありません。長い期間と莫大な費用が掛かります。ですから、製薬会社の研究開発費比率は全産業の中で群を抜いています。売上の10パーセントは当たり前。20パーセントを超える企業も1社や2社ではありません。正に、身を削って研究開発に投資しているのです。しかし、その開発が成功する確率はとても低く、新薬として発売できるのはごくわずかでしかありません。それでも研究開発に投資を続けるしかありません。独自価値を生み出せなければ存在価値が無くなってしまうからです」
正にその通りだった。
独自価値を持つことができなければ退場するしかないのだ。
それほど製薬業界はリスキーな世界なのだ。
辞めたとはいえ18年間身を置いた会社の将来が案じられたが、宮国が話し終わって席に座ると、その思いも消えた。
その後、数人が自らの属している会社や業界の話をしてディスカッションは終わったが、黙って聞いていた教授が最後に口を開いた。
「素晴らしいディスカッションだったね。このままで終わらせるのはもったいないから来週この続きをやろう。新たな切り口を歓迎する」
そして、満足したような表情になって教室を出て行った。
対して、手を挙げることができなかったわたしは惨めな思いに苛まれていた。




