✂ 第1章 ✂ 人生の転機(1)
もし、髪が黒かったら、人生は変わるだろうか?
わたしは染毛剤の広告を見ていた。
いや、目が離せなかった。
この髪をなんとかしたかったのだ。
家系のせいだと思うが、典型的な若白髪で、20代後半から白髪が目立ち始め、30代半ばには半分以上が白髪になってしまった。そして、40歳になった今、黒い髪はほとんど残っていない。
仕事で初対面の人と名刺交換をすると、相手は必ず頭に視線を向ける。
遠慮がちではあるが、この白髪だらけの頭を見ずにはいられないようだ。
〈この人、何歳くらいだろう?〉と思っているに違いない。
訊いたことがないのではっきりしたことはわからないが、多分10歳ほどは老けて見られていると思う。
ということは、50歳くらいが〈見た目年齢〉ということになる。
加えて、ネコ毛というか髪に腰がない。
その上、おでこが広い。
若白髪でネコ毛でおでこが広いのだ。
自分では三重苦だと思っている。
モテないのはそのせいだと決めつけてさえいる。
だから、わたしは独身である。
40歳で独身。
女性にモテたことがない。
なんとかしたいが、なんともならない。
ネコ毛を剛毛にはできないし、おでこを狭くすることもできない。
若白髪も代々遺伝しているようなので、諦めている。
しかし、偶然か必然かわからないが、雑誌で染毛剤の広告を見て、希望の光が灯った。
だから目が離せないでいるのだ。
もしこれを買ったら、と思うと、真っ黒な髪になった頭が浮かび上がってきた。
それは夢にまで見た髪だった。
今より10歳は若く見える髪だった。
でも、使用方法の写真を見て、気持ちが萎えた。
そこには上半身裸になった胸板の厚い男性が写っていた。
その写真を見ながら自分の胸に手を当てると、あばらが触れた。
胸に筋肉はついていなかった。
それに、不器用なわたしがうまく染められるのか心配になった。
すると、まだらになった髪が頭に浮かんだ。
典型的な失敗例として紹介されるみっともない姿だった。
無理だ!
一気に熱が冷めた。
自分で染めるのは諦めた。
では、どうする?
美容室へ行って染めるか?
想像しようとしたが、何も思い浮かばなかった。
今まで一度も美容室に行ったことがないからだ。
髪を切るのはいつも理容室で、月に一度同じ店に行き、同じ髪型に整えてもらう。
社会人になってから18年間、同じ店で同じ髪型だ。
それは、〈自分を変えるための一歩を踏み出せない生き方そのもの〉と言っても違いなかった。
もちろん、行きつけの理容室で染めるという選択肢もあるが、それはしたくなかった。
年配の店主に笑われるのが見えているからだ。
「急に色気づいて」とからかわれるのがオチなのだ。
それがわかっているのに頼むわけにはいかない。
それやこれや色々考えながら1週間ほど過ごしたが、でも、諦めるという考えにも至らなかった。
その週末、勇気を出して、何軒か美容室を覗いてみた。
もちろん、店の外からである。
当然のことながらどこも女性の客ばかりだった。
入ることはできなかった。
それでも、髪が黒くなった自分が出社する姿は毎日想像していた。
突然、真っ黒になった髪を見て、同僚はどんな反応を示すだろうか?
とても驚くだろうか?
それとも気づかないふりをするだろうか?
女性社員の見る目が変わるだろうか?
素敵と思ってくれるだろうか?
それとも無視されるだろうか?
そんなことを想像するだけでワクワクすると共にドキドキしてくる。
でも、その想像の最後はいつも決まっていた。
「いい歳して何やってんの?」と笑われる姿しか思い浮かばないのだ。
昨日まで髪が真っ白だった人間が今日は真っ黒になっている、なんてあり得ないのだ。
この会社にいる限り、髪を黒くすることはできない。
少なくともわたしはそうとしか思えなかった。