1. 官邸地下危機管理センタ
富士の演習場で佐藤健司たちが死闘を繰り広げていた、その同じ時刻。
日本の心臓部、永田町。総理大臣官邸の地下深くに設置された危機管理センターは、完全な混乱の坩堝と化していた。
「総理!全国のライフライン、8割以上が沈黙!原因不明!」
「通信が回復しません!衛星、地上回線、すべてダメです!」
「アメリカ第七艦隊と連絡が取れない!?横須賀基地はどうなっている!」
「羽田、成田、完全に機能停止!レーダーに何も映りません!空に『何か』がいるとの未確認情報多数!」
怒号と悲鳴にも似た報告が、巨大なメインスクリーンを取り囲むスタッフたちから次々と飛び交う。スクリーンには、日本列島の地図が映し出されているが、その大半が赤く点滅する『通信途絶』『情報なし』の警告で埋め尽くされていた。
中央の席で、内閣総理大臣、高坂純一郎は固く唇を結び、その惨状を見つめていた。齢六十を過ぎた彼の顔には、普段の温和な表情はなく、極度の緊張と疲労が深く刻まれている。
「高坂総理……これは、もはや単なる大規模災害やテロではありません」
隣に立つ防衛大臣、桐生が、絞り出すような声で言った。彼の顔もまた、血の気を失っている。
「分かっている」
高坂は短く応じた。
最初に奇妙な振動と閃光が日本全土を襲ったのは、わずか一時間前のことだ。それからの時間は、地獄のようだった。最初は大規模な太陽フレアか、あるいは新型の電磁パルス攻撃を疑った。だが、断片的に入ってくる情報が、そのどちらでもないことを示していた。
『北海道、日高山脈が原生林に飲み込まれた』
『大阪湾に、見たこともない巨大な海竜が出現』
『四国、剣山の上空に浮遊する島が…』
そして、最も衝撃的だったのは、ある天文学者からの半狂乱の報告だった。
『月が……月が二つあります!赤い月が!ありえない!』
非科学的。非現実的。馬鹿げている。
だが、メインスクリーンに繋がれた数少ない観測カメラが映し出す夜空には、確かに白銀の月と、不気味な紅の月が並んで浮かんでいた。
「……桐生大臣。自衛隊を動かせ」
高坂は、重い決断を下した。
「全国の駐屯地、基地に防衛出動命令を発令。目的は、国民の生命と財産の保護、および情報収集。攻撃を受けた場合に限り、自衛戦闘を許可する」
「はっ!直ちに!」
桐生は敬礼し、すぐさま部下に指示を飛ばす。
防衛出動。自衛隊の歴史上、数えるほどしか発令されたことのない、最後の切り札。だが、もはや躊躇している時間はない。国が、いや、世界がどうなったのかも分からないのだ。秩序を維持し、国民を守ることが最優先だった。
渋谷スクランブル交差点 ..
世界で最も有名な交差点、渋谷スクランブル。
数分前まで、週末を楽しむ若者や観光客で溢れかえっていたその場所は、今、不気味な静寂に包まれていた。
すべての大型ビジョンは砂嵐を映し出し、信号機は消え、ネオンサインの光も失われている。人々は、突然世界から音が消えたかのような静けさの中で、立ち尽くしていた。スマートフォンはただの文鎮と化し、誰とも連絡が取れない。
空を見上げた人々は、息を呑んだ。
高層ビルの隙間から覗く空は、見たこともない紫色をしていた。そして、二つの月。その非現実的な光景に、誰もが言葉を失う。
「……ねえ、あれ……」
一人の少女が、震える指でQFRONTビルの屋上を指さした。
人々の視線が、一斉にそちらへ向く。
ビルの縁に、何かがいた。
蔓のような植物が、建物の壁を覆い尽くすように生い茂っている。それは、地球のどんな植物とも似ていなかった。脈打つように淡く発光し、ゆっくりと蠢いている。そして、その植物の合間から、巨大な昆虫のような生物が顔を覗かせていた。カマキリに似ているが、その大きさは乗用車ほどもあり、金属光沢を放つ外骨格と、無数の複眼が不気味にきらめいていた。
「ひっ……!」
誰かの短い悲鳴が、静寂を破った。
それを合図にしたかのように、人々はパニックに陥った。我先にと逃げ出そうとする群衆が、狭い通りになだれ込む。怒声、泣き声、悲鳴が入り乱れ、渋谷の街は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと変わった。
その混乱の只中、ハチ公前の広場に、轟音と共に数台の緑色の車両が到着した。
陸上自衛隊、第一普通科連隊の軽装甲機動車だ。
「全員、車から降りろ!市民の避難誘導を最優先!パニックを抑えろ!」
車から飛び出した迷彩服の隊員たちが、拡声器を手に叫ぶ。彼らは都心でのテロ対処訓練を受けていた部隊だった。しかし、彼らが今対峙しているのは、テロリストではない。常識の埒外にいる、未知の怪物だった。
ビル屋上の怪物は、下の騒ぎに気づいたのか、鎌のような前脚を振り上げた。
次の瞬間、風を切る音と共に、見えない刃が飛来した。
ザンッ!
軽装甲機動車のすぐ横のアスファルトが、バターのように一直線に切り裂かれる。もし着弾がわずかにずれていれば、隊員の一人は真っ二つになっていただろう。
「う、撃て!威嚇射撃!」
小隊長らしき隊員が叫ぶ。
数丁の小銃が火を噴き、ビルの屋上に向けて弾丸を撃ち込む。しかし、富士の演習場でのグリフォンとの戦闘と同じく、硬い外骨格に阻まれ、弾丸は甲高い音を立てて弾かれた。
怪物は怒ったように甲高い鳴き声を上げると、ビルの壁を駆け下り、群衆に向かって突進しようとした。
絶望が人々を支配しかけた、その時。
ゴオオオオオッ!
空気を切り裂く、ジェットエンジンの轟音。
次の瞬間、一機の戦闘機が、ビルとビルの間を猛スピードで駆け抜けた。航空自衛隊のF-35Aステルス戦闘機だ。
機体の下部から発射された25mm機関砲が、怪物に突き刺さる。
ガガガガガッ!
小銃弾とは威力が違う。劣化ウランを用いた徹甲弾が、怪物の硬い装甲を紙のように貫き、その巨体を内部から破壊した。怪物は断末魔の叫びを上げる間もなく、緑色の体液を撒き散らしながら爆散した。
戦闘機はあっという間に飛び去り、再び不気味な静寂が戻る。
呆然と空を見上げる人々。彼らを我に返らせたのは、自衛隊員の声だった。
「避難を続けてください!地下鉄の駅へ!急いで!」
人々は、弾かれたように再び走り出した。
近代兵器が魔法の産物に勝利した瞬間。それは、この新しい世界で人類が生き残るための、小さな、しかし確かな希望の光だった。
再び、官邸地下 (0)
「……市ヶ谷より入電!渋谷に出現した巨大生物、航空自衛隊のF-35Aが撃破に成功したとのこと!」
オペレーターからの報告に、司令部がわずかに沸いた。
「よくやった……!」
桐生防衛大臣が、拳を握りしめる。
だが、高坂総理の表情は依然として険しいままだった。
渋谷の一件は、あくまで一例に過ぎない。日本全土、いや世界中で、今この瞬間も、人類は未知の脅威に晒されている。
「総理、富士の東富士演習場と連絡が取れました!」
新たな報告が、高坂の注意を引いた。
「演習に参加していた第一普通科連隊長からです!彼らも、所属不明の敵性生物と交戦、これを撃破したとのこと!ただし……」
オペレーターは、信じがたいといった表情で言葉を続けた。
「……彼らの報告によると、演習場の周囲はすべて巨大な樹海に変わっており、空には月が二つ……我々が観測している状況と完全に一致します」
「……そうか」
高坂は静かに頷いた。
最前線からの報告が、この異常事態が紛れもない現実であることを裏付けた。
彼はゆっくりと立ち上がり、司令部のスタッフ全員に向かって言った。
その声は、マイクを通していないにもかかわらず、混乱した室内の隅々まで響き渡った。
「諸君、聞いてほしい。我々が直面している事態は、建国以来、いや、人類の歴史が始まって以来、最も深刻な国難だ。我々の知る世界は、終わったのかもしれない」
しん、と静まり返る司令部。誰もが、総理の次の言葉を待っていた。
「だが、我々はここにいる。日本国民も、ここにいる。我々には守るべきものがある。家族が、同胞が、そして我々が築き上げてきたこの国が」
高坂は、一度言葉を切り、全員の顔を見渡した。
「希望を捨てるな。我々人類には、知恵と勇気がある。そして、科学という力がある。必ず、この危機を乗り越える道はあるはずだ。これから、日本の、いや、地球人類の存亡を賭けた戦いが始まる。全員、覚悟を決めろ」
その言葉は、絶望の淵にいた人々の心に、小さな炎を灯した。
そうだ、まだ終わっていない。戦いは、始まったばかりなのだ。
高坂純一郎は、再び席に戻ると、メインスクリーンに映し出された二つの月を睨みつけた。
その瞳の奥には、一国の指導者としての、そしてこの星に生きる一人の人間としての、不退転の決意が燃えていた。
この日、人類は知った。
自分たちが、宇宙で唯一の知的生命体ではなかったことを。
そして、自分たちの常識が、いかに狭く、脆いものであったかを。
地球人類の、長くて困難なサバイバルが、静かに幕を開けた。