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0. 世界が変わった日


西暦2024年、6月15日、土曜日。

その日は、ありふれた週末になるはずだった。


陸上自衛隊、第一普通科連隊に所属する一等陸尉、佐藤健司さとう けんじにとって、それは東富士演習場での大規模な机上演習の最終日を意味していた。彼は今年で32歳。防衛大学校を卒業後、順調にキャリアを重ね、現在は中隊長を任されている。部下からの信頼も厚く、上官からの評価も高い、絵に描いたようなエリート自衛官だった。


「中隊長、こちら第2小隊。全想定状況の入力を完了しました」


「こちら中隊本部、了解。状況終了まで待機せよ」


健司はヘッドセットのマイクに短く応えると、背後の椅子に深くもたれかかった。冷房が効いているはずのテント内は、集まった隊員たちの熱気と無数の電子機器が発する熱で蒸し暑い。モニターの光が、迷彩服に身を包んだ男たちの真剣な顔を青白く照らし出していた。


今回の演習は、仮想敵国による離島侵攻を想定したものだ。情報の収集、分析、判断、そして命令。その全てがコンピュータ上でシミュレートされる。血の流れない、しかし極度の緊張感を伴う戦争。健司の仕事は、刻々と変化する戦況の中で、最適と思われる判断を下し、中隊という駒を動かすことだ。


「……終わったな」


隣で補佐をしていた曹長、田中が安堵のため息を漏らした。

「ええ。あとは結果を待つだけです。今回もうちの若いのはよくやってくれました」


健司は小さく頷く。彼の部下たちは優秀だ。厳しい訓練にも音を上げず、常に向上心を持っている。彼らと共にいられることを、健司は誇りに思っていた。


演習終了のブザーが鳴り響き、テント内に弛緩した空気が流れる。隊員たちが互いの労をねぎらい、安堵の表情を浮かべる中、健司はふと、言いようのない違和感に襲われた。


ぐらり、と。


地震か?いや、違う。揺れではない。もっと根源的な、世界の座標がずれるような奇妙な感覚。めまいにも似ているが、意識ははっきりしている。


「ん……?なんだ、今のは……」

田中曹長も眉をひそめている。他の隊員たちも、何人かがきょろきょろと周りを見渡していた。


その瞬間だった。


全てのモニターが一斉に砂嵐になり、けたたましいノイズを発した。照明が激しく点滅し、次の瞬間、完全に消灯する。


「なっ、停電か!?」

「総員、落ち着け!非常用電源に切り替えろ!」


健司の怒号が飛ぶ。しかし、彼の声は耳をつんざくような轟音にかき消された。それは雷鳴でも、爆発音でもない。空間そのものが引き裂かれるような、冒涜的な音。


そして、光。


テントの布地を透かして、世界が真っ白に染め上げられるほどの閃光が溢れた。隊員たちは悲鳴を上げ、目を覆う。健司も強烈な光と音、そして全身を襲う圧迫感に意識を失いかけた。


どれくらいの時間が経ったのか。

永遠にも、一瞬にも感じられた時間が過ぎ去り、轟音と光が嘘のように消え去った。


しん、と静まり返ったテントの中で、最初に動いたのは健司だった。


「……全員、無事か!状況を報告しろ!」


彼の声は、自分でも驚くほどかすれていた。

「……だ、大丈夫です!」

「こちら第1小隊、全員無事!」

「第3小隊も問題ありません!」


部下たちの声が次々と上がり、健司はひとまず胸をなでおろす。だが、状況は全く楽観できなかった。非常用電源も作動しない。外部との通信は完全に途絶。GPSも衛星回線も、うんともすんとも言わない。


「一体、何が起こったんだ……」


誰かが呟いたその言葉は、その場にいた全員の疑問だった。健司は懐中電灯を取り出し、テントの入り口へと向かう。外の状況を確認しなければならない。


彼が重い幕を押し開けた瞬間、息を呑んだ。


そして、その場にいた全ての自衛官が、生涯忘れることのない光景を目撃することになる。


見知らぬ空

「……なんだ、これは……」


健司の口から、呆然とした声が漏れた。

目の前に広がる光景は、あまりにも非現実的だった。


さっきまでそこにあったはずの富士の雄大な山容が、どこにも見当たらない。代わりに、見たこともない、鬱蒼とした巨大な樹木が天を突くように生い茂る、原始の森が広がっていた。空気は濃く、むせ返るような植物の匂いが鼻をつく。


そして、空。


空を見上げた健司は、再び言葉を失った。

空の色が、違う。日本のそれよりも、どこか紫がかった深い青色をしている。そして何よりも奇妙なのは、そこに浮かぶ二つの月だった。一つは地球で見るのと同じ、白銀の月。しかし、その隣には、不気味なほど赤い、一回り小さな月が並んで浮かんでいたのだ。


「中隊長……これは……」

後ろからついてきた田中曹長の声も震えている。


「……夢、じゃないんですよね?」

若い隊員の一人が、か細い声で尋ねた。誰もが同じことを考えていた。これは集団幻覚か、あるいは大規模なVR訓練の一環なのではないかと。


健司は自分の頬を強くつねった。鈍い痛みが走り、これが紛れもない現実であることを告げる。


「全部隊に告ぐ!現地点をもって防御態勢を構築!周囲を警戒せよ!」


健司は我に返り、即座に命令を下した。彼の声には、混乱を押し殺した鋼のような響きがあった。自衛官としての訓練が、彼の精神をぎりぎりのところで支えていた。


「第1小隊は演習場外周、西側!第2小隊は東側!第3小隊は予備として中央で待機!重火器の準備を急げ!」


隊員たちは、健司の命令に弾かれたように動き出す。混乱している場合ではない。何が起きたかは分からないが、ここは明らかに日本ではない。未知の環境では、何が脅威になるか分からない。生き残るためには、組織として動くしかない。


「通信はどうか?」

「ダメです!本部、他部隊、民間回線、全て不通!完全に孤立しています!」

通信班からの絶望的な報告に、健司は唇を噛む。


演習場には、健司の中隊以外にも、複数の部隊が集結していた。戦車教導隊の最新鋭10式戦車、特科教導隊の99式自走155mmりゅう弾砲、そして普通科部隊が装備する89式小銃や01式軽対戦車誘導弾。装備だけ見れば、一個旅団にも匹敵する戦力がここにはある。


しかし、その戦力も、補給と情報がなければただの鉄の塊だ。


「偵察班を出せ。最低限の人数で、周囲の状況を探れ。ただし、深入りは絶対に禁じる。30分で必ず帰投しろ」

「はっ!」


数名の隊員が、音を立てずに森の中へと消えていく。彼らの背中を見送りながら、健司は空に浮かぶ二つの月を睨みつけた。


一体、何が起きたのか。

考えられる可能性はあまりにも突飛だった。

地球外生命体による拉致?それとも、異次元への転移?

SF小説やアニメでしか見たことのないような荒唐無稽な仮説が、脳裏をよぎっては消えていく。


やがて、世界中から断片的な情報が入り始めた。アマチュア無線家たちが、奇跡的に繋がった回線で、パニックに満ちた情報を交換していたのだ。


『こちらブラジル、サンパウロ!アマゾンが目の前まで迫っている!』

『ロンドンだ!空にドラゴンみたいなのが飛んでるぞ!冗談じゃない!』

『ニューヨーク!自由の女神が半分、森に埋まってる!助けてくれ!』


それは、悪夢のような報告だった。

一つの結論が、健司の中で形になりつつあった。


これは、日本だけの問題ではない。

演習場だけが飛ばされたのでもない。


地球そのものが、丸ごと、未知の世界に転移させられたのだ。


最初の戦闘

「―――!!」


静寂を破ったのは、人間のものではない甲高い咆哮だった。

それは森の奥深くから響いてきた。空気がビリビリと震え、本能的な恐怖を呼び覚ます声。


「敵襲!西方向、距離800!」

警戒網に配置されていた隊員からの報告が、無線を駆け巡る。


健司は双眼鏡を手に取り、報告があった方向を睨んだ。鬱蒼とした木々の間を、何かが高速で動いている。大きい。全長は5メートル以上はあるだろう。


「……グリフォンか?」


田中曹長が、信じられないといった口調で呟いた。

双眼鏡のレンズが捉えたのは、まさしく神話上の生き物だった。鷲の頭と翼、そしてライオンの胴体を持つ、雄々しい幻獣。それが、土煙を上げながら、一直線にこちらへ向かってきている。


「……撃ち方、待て」

健司は冷静に命令を下す。まだ有効射程ではない。そして何より、相手に敵意があるかどうかが不明だった。もし知性があり、対話が可能なら、無用な争いは避けるべきだ。


しかし、その甘い期待はすぐに裏切られた。

グリフォンは速度を緩めることなく、その鉤爪をむき出しにして突進してくる。その目に宿るのは、紛れもない殺意と飢えの色だった。


「……目標、敵性生物と判断。交戦を許可する」

健司の声が、非情なほど冷静に響いた。


「5.56mm、撃て!」


命令と同時に、第1小隊が陣取るラインから火線が迸る。

ダダダダダッ!

89式小銃が火を噴き、毎分850発の弾丸がグリフォンに襲いかかった。現代兵器の洗礼。いかなる猛獣であろうと、この弾幕を浴びて無事でいられるはずがない。


しかし。


カキン!カキン!

信じられないことに、弾丸がグリフォンの体表で火花を散らし、弾かれていた。羽毛のように見えた部分は、鋼鉄のように硬い鱗で覆われていたのだ。


「なっ!?弾が効かないぞ!」

隊員たちに動揺が走る。


グリフォンは弾幕をものともせず、さらに加速する。その距離、400。


MINIMIミニミ、制圧射撃!足止めしろ!」

健"

健司はさらに命令を重ねる。分隊支援火器である5.56mm機関銃MINIMIが、より激しい弾幕を形成する。


ガガガガガッ!

さすがのグリフォンも、集中砲火には足を止めざるを得ない。しかし、致命傷には至っていないようだった。


「くそっ、化け物が!」


その時、グリフォンが大きく翼を広げた。

次の瞬間、その口から灼熱のブレスが放射された。


ゴオオオッ!

一直線に伸びた炎が、自衛隊の陣地の手前にあった土嚢を焼き尽くす。熱波がここまで届き、肌が焦げるようだ。


「……魔法、だと?」

健司は自分の目を疑った。これは物理法則を無視した現象だ。科学の世界に生きてきた彼の常識が、根底から覆される。


「対戦車班!01マルヒトを使え!」

健司は叫んだ。小銃弾が効かないのなら、より強力な火器を使うまで。01式軽対戦車誘導弾、通称「マルヒト」。歩兵が携行できる最強の火力の一つだ。赤外線画像による誘導で、戦車の装甲さえ貫く威力を持つ。


「目標、ロックオン!」

「撃て!」


発射手がトリガーを引くと、シュッという音と共にミサイルが射出され、白い煙の尾を引きながらグリフォンへと飛翔していく。必中。誰もがそう確信した。


だが、グリフォンは再び信じられない行動に出た。

ミサイルが命中する直前、その全身が淡い光に包まれたのだ。風が渦を巻き、グリフォンの周囲に目に見えない障壁のようなものが形成される。


ドガアアァァン!

ミサイルは障壁に激突し、凄まじい爆発を起こした。土砂が舞い上がり、爆風が周囲の木々を薙ぎ倒す。


「やったか!?」


しかし、煙が晴れた先に見えたのは、ほとんど無傷で佇むグリフォンの姿だった。魔法の障壁が、ミサイルの爆発エネルギーの大半を相殺してしまったのだ。


「……冗談だろ」

隊員たちの顔に、絶望の色が浮かぶ。

科学の粋を集めた現代兵器が、たった一匹の怪物に通用しない。この事実は、彼らの自信と士気を打ち砕くのに十分だった。


グリフォンは勝利を確信したかのように、再び咆哮を上げた。

その時だった。


「――中隊長!奴の翼の付け根!ブレスを吐いた後、一瞬だけ鱗が開きます!」

双眼鏡で観察を続けていた田中曹長が叫んだ。


健司は即座に双眼鏡を奪い、目標を確認する。確かに、田中曹長の言う通り、炎を吐き出した直後のわずかな時間、翼の付け根部分の鱗が呼吸するように開き、その下の柔らかそうな皮膚が露出している。


「……あそこが弱点か!」

チャンスは一瞬。


「第2小隊!12.7mmヒトニーナナ!目標、敵の翼の付け根!俺が合図する!」

健司は無線で、反対側に陣取る第2小隊に命令を下す。12.7mm重機関銃。装甲の薄い車両なら蜂の巣にできる、強力な火器だ。


グリフォンが、再びブレスの予備動作に入る。大きく息を吸い込み、喉元が赤く輝き始めた。


「……今だ!撃てぇぇぇっ!!」


健司の絶叫と同時に、重機関銃が咆哮を上げた。

ドッドッドッドッ!

小銃とは比較にならない重い発射音が、森にこだまする。曳光弾が赤い筋を描きながら、寸分の狂いもなくグリフォンの弱点へと吸い込まれていった。


ギャアアアアァァァッ!

今度こそ、グリフォンの絶叫が響き渡った。12.7mm弾は魔法の鱗をも貫通し、その下の肉を無慈悲に引き裂いたのだ。片翼を破壊されたグリフォンはバランスを崩し、巨体を地面に叩きつけられる。


だが、まだ死んではいない。

傷つき、怒り狂った幻獣は、最後の力を振り絞って自衛隊の陣地へと突進してこようとする。


「とどめだ!全火器、弱点に集中砲火!」


健司の号令一下、ありったけの弾丸が、もがき苦しむグリフォンの傷口へと撃ち込まれた。数秒後、巨体は完全に動きを止め、静寂が戦場に戻ってきた。


「……終わった、のか?」


誰かの呟きが、現実感を呼び戻した。

隊員たちは、呆然と目の前の光景を見つめている。神話の怪物の亡骸。焦げ付いた地面。そして、鼻をつく硝煙と血の匂い。これが、この新しい世界での、人類初の戦闘だった。


健司は、震える手でタバコに火をつけた。深く紫煙を吸い込むと、ようやく強張っていた全身の力が抜けていくのを感じた。


勝った。しかし、それは薄氷の勝利だった。

もし、田中曹長の鋭い観察眼がなければ。もし、12.7mm重機関銃が配備されていなければ。結果は全く違っていただろう。


「被害状況を報告しろ」

「はっ!負傷者3名!いずれもブレスによる火傷で軽傷です!死者はありません!」

「そうか……」


不幸中の幸いだった。だが、健司の心は晴れない。

今日、彼らが倒したのは、おそらくこの世界の生態系の、ほんの一部に過ぎない。もっと強い個体が、あるいは群れで襲ってきたらどうなる?


そして、この世界には人間、あるいはそれに類する知的生命体はいるのだろうか。もしいるとして、彼らは友好的か、それとも敵対的か。


分からないことだらけだ。

日本は、いや、地球人類は、赤子のまま猛獣の檻に放り込まれたようなものだ。


健司は、二つの月が浮かぶ異世界の空を仰いだ。

これから、どうなるのか。故郷に帰ることはできるのか。


答えは、誰にも分からない。

ただ一つ確かなことは、彼らの、そして人類の、生存を賭けた戦いは、今まさに始まったばかりだということだった。


佐藤健司一等陸尉は、静かに決意を固めた。

何としてでも、部下たちを生きて日本に、家族の元へ帰す。

そのためなら、悪魔にでも、神にでもなってやる。


彼の背後では、隊員たちが黙々と怪物の死体を処理し、陣地を再構築していた。彼らの顔には、もはや学生のような甘さはない。未知の世界で最初の戦火を潜り抜けた、戦士の顔つきになっていた。


世界が変わった日。

それは、彼らがただの自衛官から、人類の存亡を背負う兵士へと変わった日でもあった。

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