第22話
一人の女性、年老いた女性である。椅子に座り、思案顔を作っているようだ。
「さて、本田君だったわね。楽しみにしているわ。まさか、世界の運命が自らの手にと、握られているとは、想像も出来ないでしょうね」
飛び出した言葉、これを当の本人が聞いたら、卒倒するかもしれない。このような独り言は、人類が誕生してからは、初めての事であろう。
そして、これが最後の独り言である事も。
「そうですか、わかりました。彼は決心したのですね。これで、私の役目の終わるというものです。帰る時も、早くに訪れるかもしれませんね」
これは、誰かと会話をしているようだが、その話し相手が見つからない。相手は一体、誰なのか。それは、釈迦と呼ばれる、この女性が知るのみだ。
人間界では、和泉とその名を呼ばれている。
その部屋には『理事長室』と書いたプレートがあった。
そして、ドアが軽くノックされる。
「どうぞ、鍵は開いていますよ。遠慮はいりません」
ドアが開く。入って来たのは、三人の男と二人の女性。その中の一人の男の名は、本田隼人である。
そして、その彼が言葉を発した。
「和泉先生、ゼミのテーマが決まりました」
隼人は独り、雲を目で追っていたが、その次には行動に移った。禁忌とも言われるかもしれない、それを自らの手で行なう事を。
実験棟の屋上から、研究室へ戻ろうとしていた、その時だ。現れやがったぞ、貧乏神の奴が。
「旦那、決心したようでやんすね」
どこかに隠れていたのであろうか。貧乏神が、す~っと、その姿を彼の目の前へと、いやに嬉しそうな表情である。
「おい、お前、隠れていやがったな、貧乏神」
「まあ、そうでやんす。旦那の事が心配の事でですぜ」
「何を考えている。いや、何を企んでいる、と言った方が正しいか」
「旦那、邪推はいけやせんぜ。あっしは、旦那の幸せだけを、それだけを望んでいやすぜ」
「好きにすると良い、俺は自分のやる事をするだけだ」
「旦那、待っておくんなせい」
貧乏神の声を背中に受け、俺は屋上から出て、階段を目指した。エレベーターがあるのだが、今はそれを使う気にはなれなかった。まだ、考えたかったのもある。
ゼミの皆に何と説明したらいいのだろう。麻友は、皆は、俺の考えに賛同してくれるのだろうか。それ程に、ある意味では、危険なテーマであり、実験をしなければならない。
覚悟も必要である。この覚悟とは、人間の侵してはいけない、神の領分を侵す、その覚悟だ。それを、一介の学生達が納得し、実行する事が出来るのであろうか。
階段に靴音が響く。一段ずつであるが、俺はその歩みを止めなかった。いや、止める事が出来ない。止めてはいけない、それくらいはわかっている。
背後に気配を感じる。言うまでもない、貧乏神の奴だ。どうやら、話しかける隙を狙っているらしい。
「旦那、聞いて下さいな」
「何だ」
振り返るのも面倒なので、階段を降りながら、返答した。貧乏神、奴は何かを隠していやがる。これは、俺の勘だが確信がある。
「いえね、旦那の考え、決断は、間違っていやせんぜ。絶対でやんす。これは天界の神々に誓っても良いですぜ」
「お前、これが始めからの狙いだろう?」
貧乏神の反応を確かめたかった。
「違いますぜ。あっしの目的は、最初に言った通りでさぁ」
「世界一不幸な人間を幸せにする事か」
「へい、その通りでやんす」
奴の腹が読めない。絶対に何か隠していやがる。
「聞きたいのだが」
「へい、何でございやしょう」
「俺は、まだ世界一不幸な人間なのか? 俺には、その実感が無い。麻友とも、知っているだろう?」
「そうでやんす。旦那は、まだまだ世界一不幸な人間でやんす。あっしに言わせればの事ですぜ。人間って、存在は、そうでやんすね。本当の幸せを知らない、そういう存在でやんす。それが故に、自分が本当に不幸だとは、他人に言われるまで、気付きはしやせん。理由は簡単でさぁ。人間には、未来というものを知る事が出来やせんから」
まるで、俺の未来を予知しているような、貧乏神の言葉。その俺を幸せにする、これが自分の役目だと。
「そうか、お前はわかるのだな」
「へい、あっしは人間ではありやせん。それ故に、人間の未来が、そうでやんすね。永くに人間を見てきやした。答えになりやせんか、旦那」
「未来は自分の手で、それを作るものだと、そう思っていたのだがな」
「その通りでやんす。それが出来る、旦那ですぜ。それが世界一不幸な人間の証でやんす」
「わかるような、わからないような。もう、気にしても仕方なさそうだな。俺は自分に出来る事をやるだけだ」
「それでこそ、旦那でやんす。期待していやすぜ」
貧乏神の『期待』という、言葉が気になったが、考えても答えは出まい。実行するのみだ。




