第15話
貧乏神の言葉を聞き、周りの乗客を見回してみる。誰がそうなんだ。俺には、普通の人間に見えるのだが、それを聞こうと思った、貧乏神はというと、電車の窓からその姿を消していた。
奴め、逃げやがったな 。
「この役立たずめ」と言いたかったが、肝心の貧乏神がいなくては、その意味もない。
「お隣り、宜しいですか?」
そう俺に話しかけて来たのは、貧乏神のはずがない。女性であるが、髪の毛に白い毛が混じっている、年配の女性だ。
もしかして、この女性が貧乏神が言う、お釈迦様なのだろうか。だが、世間でのお釈迦様といえば、男である。
「どうぞ」と返答し、少し様子を伺ってみる。空席が多いのだが、何故に俺の隣に座るのか。わからない事だらけだぞ、貧乏神め。
「少し、お話をしても宜しいですか? 見たところ、学生さんのようですが、私もこの先の駅の大学に用事があるものでしてね」
「別にかまいませんが、面白い話しは出来ませんがね」
「いえいえ、これは、貴方の存在が貴重なのです。気付いていないかもしれませんが、世界の運命は、いいえ、これは言ってはならぬ事でしたね。では、年寄りの話しにお付き合い下さいな」
「はい、俺で良ければですが」
「ありがとうね、学生さん。学生さんじゃ悪いわね。お名前を聞いても宜しいですか? まず、私が先に名乗るのが礼儀ですね。私の名前は、和泉です」
物腰の落ち着いた話し方に、その持つ雰囲気。この女性がお釈迦様であろう。貧乏神に出会う前の俺では気付かなかったと、そう思う。だが、今の俺には何故かであるが、それがわかるような気がする。
「本田隼人と言います。この先の大学に通っている学生で、今年度で卒業の予定です。本来ならばの話しですがね」
「おやおや、これは何かお困りのようですね。もしかすると、私が役に立てるかもしれません。隼人さんの通う大学は、高天原大学ではありませんか? 私は、塚原教授の後任になります」
何だって? 次は、お釈迦様が俺の大学の教授になるのか? 俺の通う大学って、一体どうなっているんだ。
これが、貧乏神が意味していたことか。それにしても、話しが出来過ぎているような、そんな気がするのは、俺の考え過ぎなのだろうか。
出て来い、貧乏神。この状況を説明しやがれ。そう思ったが、お釈迦様の前では口に出せるはずもない。
「その通りです。俺の通う大学は高天原大学で、専攻は遺伝子情報工学です。あの、ゼミのことなのですが、ご存知ですよね、事故の事を」
「はいはい、存じてますよ。漏電によるトラブルで、実験装置が全壊したことですね。その時に、塚原教授が巻き込まれ、怪我をされました。今は大学病院に入院中とのことです」
事故の原因は、漏電だったのか。俺、俺達にはそれが知らされていなかったので、これは初めて聞いた話だ。
「では、ゼミの存続はどうなるのか、ご存知ですよね」
「はい、私が引き継ぎます。ただ、塚原教授とは違った方針になりますが、これは私を信頼して下さいね」
そう来たか。人間の俺が、お釈迦様に逆らえるはずが無い。ここは、ゼミがどうなるのかを楽しみに、お手並み拝見といこう。
「安心しました。ゼミが無くなれば、卒論もまともに書けませんからね。ここは、宜しくお願いします」
「はい、楽しみにしていて下さいね。これでも、私の教え方は評判よ」
当たり前である。『釈迦に説法』という、ことわざがあるくらいなのだ。弁論で、お釈迦様と勝負をしようなどと思う気は、全く無い。
これで、留年の心配は消えたと思える。お釈迦様に教えを受けることになるのだからな。これは、ある意味で贅沢とも言える。俺は無宗教に近いが、仏教に関わる人々にしたら、どんな思いになるのか。これを知れば、世界中の信者が大学に集まってしまうだろう。
電車は進み、その度に人が出入りがある。次の駅で俺は降りなければならない。『高天原大学前』、これが次の駅名である。
もしかと思うが、念のために聞いておくか。
「次で降りますが、ご存知ですよね?」
「あら、本当だわ。どうもありがとうね。私、地理に疎いものですから。初日から遅刻するところでしたよ」
「危なかったですね」
そう言った、俺の頬が少し引きつっているのを誰が知ろうか。「お釈迦様、お願いしますよ」俺は心の中で、そう祈った。
車内アナウンスが流れる。
「次は、高天原大学前~。高天原大学へは、次でお降り下さい。次は、高天原大学前~」
麻友を待たせているかもしれない。それが気になったが、お釈迦様もまた、ある意味で気になる。
「あら、本当。危なかったわ」
これが、お釈迦様の台詞で、本当に良いのだろうか。
身体に少しであるが圧力を感じる。電車がブレーキをかけたからだ。ゆっくりであるが、減速していくのがわかる。電車が停止したので、俺は、お釈迦様と一緒に降りることになった。
気になることが、そうだ、貧乏神がいやがらない。奴はどこへ行ったのだ。それ程までに、お釈迦様が怖いのか。「臆病者め」と心の中で奴を罵った。
改札を抜けると、予想通りであるが、麻友が待っていた。
「すみません、俺、待ち合わせがあるので、ここまでです」
「はい、ありがとうね。ここまで来れば、私一人でも大丈夫ですよ。地図も持っていますから。ここを真っ直ぐね」
「おい、それは逆方向だぞ」と言えるはずもなく、「その反対ですよ」と、恐る恐るであるが、言うはめになった。神も仏も万能ではないのだな、これが最初の教えである。