第13話
時を少し遡る。
「こんなことで、大丈夫なのかしら?」
「でも、今の私達にはこれしかないからね。あの赤い羽根は、1000年に1羽出るかどうかの特別な羽根だから」
「全ては、ルシファー様のため。頑張りましょう」
そして、現れた。
その男が言った台詞は、こんな感じである。
「募金をしたいのですが、良いですか?」
「はい、ありがとうございます」
「では、これを全部でお願いします」
その男は、有り金全てを募金箱へと入れた。
これが、ルシファー様の見込んだ男か。どこにでもいそうな大学生に見えるが、悪い印象は一切ない。
「こんなに沢山、本当にありがとうございます。では、この羽根をお持ち下さい。そうですね、ジャケットに着けると、お似合いだと思いますよ」
「そうさせてもらうよ。じゃあ、頑張ってね」
その男は、そう言って去って行った。
「大丈夫かな」
「大丈夫に決まっているでしょう、ルシファー様を信じましょう」
「そうね、ルシファー様、早くの天界への復帰をお待ちしています」
頭が痛い。二日酔いだと思うが、ここはどこだ? 浜屋の馬車に乗り込んだまでは覚えている。だが、ここは俺の部屋とは違う。漂って来るのは、味噌の匂いに、貧乏神の奴が宙を漂っていやがる。
「おい、貧乏神」っと、言った時に声が聞こえた。勿論、貧乏神とは違う。
「おはよう、隼人」
麻友である。ということは、ここは麻友のアパートで、彼女の部屋だと推測できる。
「もう少し待っててね。朝御飯が出来るから。私、こう見えても、少しは料理の腕に自信があるんだ」
「ああ、ありがとう。楽しみにしてるよ」
麻友は大学に入学した時に一人暮らしを、このアパートでしていると聞いたことがある。一人暮らしなら、料理が上手くなって当たり前か、と思ったが、俺は料理が苦手だ。苦手なのではない。『上手くない』がこの場合は正しいであろう。一人暮らしを始めた頃に色々と料理にはチャレンジした。だが、それはお世辞にも料理と言える代物にはならなかった。
キッチンから嬉しそうな鼻歌が聴こえる。それと同じくらいに俺の腹の虫も歌いそうだ。今は、麻友の朝御飯を楽しみに待つことにしよう。
それと、忘れていた。貧乏神は何をしているのだろうか。宙に浮いているのだが、目を閉じて、瞑想でもしているかのようだ。こいつ、もしかして、呪詛でも唱えているのかと思ったが、どうやら違うらしい。
「おい、聞こえるか、貧乏神」
「何でやんす、旦那」
「何だ、起きていたのか。いやに真剣な顔をしていたな、お前。俺はてっきり、怪しげな呪詛でも唱えているかと思ったぞ」
「旦那、とんでもありやせんぜ。そりゃあね、呪詛の一つや二つは簡単でさぁ。それを今のあっしがするとでも、お思いですかい?」
「確かにそうだな。お前が天界へ戻る条件は、俺を、いや、世界一不幸な人間を幸せにすることだ」
「へい、その通りでやんす」
俺は、こいつに確認しなければいけない事がある。理由だ。俺が世界一不幸だという、それを。どう考えても、それはおかしい。世界中を探せば、俺より不幸な人間は、ごまんといるだろう。
「貧乏神、聞きたい事がある」
「何でやんす」
「俺は自分を不幸だとは、特に思っていない。しかし、お前は俺を世界一不幸な人間だと言う。その理由が知りたい」
「それでやんすか。旦那、それだけはダメですぜ。それを言っちゃあ、仕舞いでさぁ」
「何故だ」
「それは、旦那が自分で、その事の重大さに気づいていないからでやんす」
「そんなに俺は不幸なのか」
「へい、その不幸はこの世を、おっと、いけねぇ。危うく口を滑らせるところでしたぜ」
「何か隠していやがるな」
「何の事でやんすかねぇ。あっしは、ただ旦那を幸せにして、天界へ帰りたいだけでやんす」
「まあ、いい。その内、その首根っこを絞ってでも、事の真相を聞きだしてやるからな。覚悟しておけ」
「おっかないことを言わないで下さいな、旦那。あっしに全てをお任せ下せぇ。さすれば、鬼に金棒というものですぜ」
キッチンから声が聞こえる。麻友の楽しげな声だ。今の俺を幸せと言わずに、何と言うのだろうか、そう考えたが、これは麻友の朝御飯を食べたら、検討の対象にしておこう。
「お待たせ、隼人。たくさん食べてね。少し作り過ぎちゃったかな」
「いや、実に美味そうだ。美味しく食べさせてもらうよ。麻友の手作りだからな。食えと言われれば、皿まで食ってみせるぞ」
「もう、それは褒め言葉と受け取っていいのかしら。どうぞ、召し上がれ」
「では、いただきます」
「はい」
酒を飲んだ翌日の味噌汁。これを美味いと思えるのは、日本人の幸せだ。炊きたての白米のご飯と味噌汁、出し巻き、それに漬物。豪勢とは言えるはずもないが、これはある意味で、理想的、贅沢とも言える。それに味が良ければ、尚の事だ。
味噌汁を、ずずず~っと、啜ってみる。
麻友の視線が俺の顔に集中する。
美味い!
「そんなに見詰められたら、食べにくいのだが。それとも、俺の顔に何かついているのか」
視線が合うと、麻友は下を向いてしまった。
「どうかなぁ、っと思ってね。だって、一生懸命に作ったから」
「聞きたい?」
「う、うん」
「じゃあ、言うぞ」
「うん」
「美味い、美味過ぎるぞ、麻友。これなら、料亭で出されても、誰も文句は言わないと思う」
「良かったぁ。それに、嬉しいわ」
嬉しそうな、彼女の顔を見ると、俺まで嬉しくなって来る。これは、本当のことだからな。味だけではなく、麻友の愛情が調味料として入っている。
「麻友も食べてみるといい」
「うん、私もお腹ぺこぺこ~。こうしてると、何だか、ううん、何でもないよ」
言わなくてもわかる。俺もそう感じていたからな、麻友。奴がいなければ、尚更だが。そう簡単に行かないのが、人生というものか。
貧乏神は、興味深そうに俺達を見ていやがる。奴のことだ、麻友との関係が進むことを期待しているのだろう。いくら俺でもな、朝から、いや、改めて麻友を見ると、その瞳に吸い込まれそうだ。
「美味しいね、隼人。ん、どうかした? 私の顔に何かついているのかな?」
「いや、別に何も」と言いかけたところで、麻友の唇が迫って来た。不意打ちだったからな。言い訳じゃないぞ、これは。俺は麻友の求めに応じた。断る理由もないし、ここで断っては、男が廃る。柔らかい感触と、甘い匂い。
「麻友、俺でいいのかい?」
「うん、隼人じゃないとダメ」
これ以上の言葉は必要なかった。
こうして、俺と麻友は、男女の関係になった。
その間、貧乏神の奴は、ウインクしてみせ、窓の外へと出て行ってくれたのは、奴の気遣いだろう。
俺はまだ世界一不幸な人間なのか、貧乏神。そう問いただしてやりたかったが、奴に聞いても、答えてくれないのが、何となくであるがわかる。