第9話
病室のドアが軽くノックされると静かに開いた。入って来たのは、勿論、麻友だ。会計手続きだけなので、そうは時間を要しないだろう、との考えは正しかった。
そして、やはり、女性なのだと気づかされた。ベッドで寝ていた、麻友とは違い、今の彼女は、薄っすらであるが、メイクをしている。過剰なところは一切無く、むしろ、それが自然に見えたのは俺の贔屓目か? 肩の貧乏神に聞いてみたい衝動に駆られたが、そんな事は不可能なくらい、今の俺でも察している。
「お待たせ、隼人。私、お腹がぺこぺこよ。早く食べに行きたいな。それに、隼人のお勧めのお店で食べてみたいわ」
「おい、麻友、俺にそれを聞くのか」と言いたかったが、それを言えるはずもない。
洒落たイタリアンでもと思ったが、俺にそれを求めるのは無理無謀というものだ。考えた挙句に思いついたのは、定食屋だ。大学の近くにある、所謂、お袋さんの味が売りの定食屋。
昼は定食屋として営業しているのだが、夜になるとそれは変わる。居酒屋に近い小料理屋と言って良いだろう。仕事帰りのサラリーマンや近所の常連達で賑わう。
しかし、それが今の世知辛い世の中では、癒しに近い寛ぎの店として求められると思うからだ。
「本当に俺の選んだ店で良いのか? 麻友の方が色々と知っていそうな気がするのだがな」
「私、隼人のことをもっと知りたいの。大学での研究生ではなく、普段の隼人よ。だから、私は何でもそれを受け止めてみせるわ。それが、私の、もう、女の私に言わせないの」
「本当にそれでいいんだな。後悔しても遅いぞ。それなら、タクシーを使おう。病院前に客待ちで駐車しているからな。それに、そんなに遠くはない。まあ、味だけは俺が保証するよ」
「うん、楽しみにしてる。ドキドキだわ」
「俺もだよ。行こう」
ある意味でドキドキなのは、俺も同じだ。
そう会話を交わし、俺達は病院前で客待ちしている、タクシーを拾うことになった。
総合病院なので、院内は広い。事前にスタッフステーションで、タクシー乗り場への道を聞いておいたのは正解だった。
エレベーターに乗り、一階へと降りて先を目指す。二人で表示ランプを見ていたのだが、それが1階に点灯すると、ほっとした空気が流れた。やはり、エレベーターという密室が、乗る人に少なからずの緊張感をもたらすものだと思われる。
「もう少しだね。大丈夫かい?」
「うん、隼人と一緒なら、それだけで幸せだよ」
病院は通常営業を終えていたので、俺達は夜間外来へとその出口を目指した。
夜の病院とは、何となくであるが、こうも静かだと雰囲気が昼間のそれとは違う。何かが出そうだと思ったが、良く考えると、もう出ているではないか、貧乏神の奴が。お喋りな貧乏神は、静かに俺の肩の辺りを漂っている。これはこれで不気味だ。
色々と思案しながらではあるが、麻友とその歩みを進めた。出口だけにわかりやすく、案内板通りに出口を見付け外へ出る。
夜の新鮮な空気が美味しい。そして、タクシー乗り場を見つけ、二人して駐車しているタクシーへと乗り込んだ。