68話 失うモノ
その夜の事だった。
一向に帰って来ない歩夢を心配して家の中をウロ
ウロとしている郁也達の元へ警察から電話があっ
たのは……。
通行人の証言では何やら口論をしていて川に突き
落とされたのだという。
今病院へ運ばれて行ったと連絡があったのだった。
持ち物から名前と番号を知ったという。
本人からではない事が気になったが、慌てて家族
揃って病院へと向かったのだった。
病院に着くとすぐに病室へと案内された。
先ほど目が覚めたばかりだと言う。
「歩夢っ!」
「歩夢くん!」
「お兄ちゃん!」
順番に声をかけるがそれに反応するかのようにこ
ちらを向いただけだった。
「歩夢……聞こえてるんだよな?」
郁也が近付くもすぐに視線を逸らした。
「歩夢、ちゃんと答えなさいっ、郁也くんは心配
してたんだぞ?」
父親の言葉に困ったような表情を浮かべたのだっ
た。
そして口を開くも、何も言わずただ黙ってしまっ
た。
ただ黙っただけだと思ったのか、幸樹は反抗的な
息子に手を挙げていた。
病室でのいきなりのビンタに、看護師や、医師が
すぐに止めに入ったのだった。
睨みつける歩夢の顔を見て、初めて叩いたのだと
気づく。
幸樹は父親らしいことは何もできていなかった。
いつも、家事やら家の事を任せっきりでおとなし
く素直な息子だと思っていた。
だから反抗的な態度など見た事がなかった。
郁也の手前、しっかりせねばと怒っては見たものの、
手を挙げて後悔した。
理由も聞かず、叩くのはよくなかった……と。
「悪かった、叩いたのは謝る、だから事情を説明し
てくれよ……歩夢。」
「………」
なおも何かいいかけるが、何も言わず口をつぐんで
しまった。
幸樹が口を出す前に、郁也が歩夢のそばに行った。
「歩夢、頼むから何か言ってくれよ。罵ってもいい
から、俺のせいなのか?」
郁也の言葉にまどかさんと父親の幸樹が驚いたよう
だがそんな事はどうでもいい。
今は歩夢のことが大事だった。
俯くのを無理矢理自分の方を向かせる。
「歩夢、答えてくれ……ちゃんと言ってくれないと
わからないだろう?」
「………」
口を開くも、何か言っているようには見えるのに、
声が聞こえなかった。
そこで医師から呼ばれると別室で診察結果を説明
されたのだった。
寝ているうちに検査した結果には異常はないとい
う。
ただ、声が出なくなっていたという事実だけが、
今歩夢に起きている状態だった。
「身体には異常はないようですね。ただ……声が
ですね…」
医師によると、一過性のものらしい。
何かのショックで出るようになるかもしれないし、
このまま出ないままかもしれない。
どちらにしても、暫くは話す事ができないという。
歩夢を突き落とした犯人は綺麗な人で男性かも女
性かも分からないという証言が出たのだった。
「ねぇ、お兄ちゃん……これから話せないの?」
美咲の言葉にまどかさんも、父親も何も言えなか
った。
言葉を話せないなど、デメリットしかない。
今更手話というわけにはいかず。
声が聞こえているのだから、伝える手段が必要だ
った。
そんなおり、大学の合否の通知が来たのだった。
本当なら本人が開けるのが妥当だが、今はこんな
状態なのだからと、家族が開けたのだった。
「合格か……歩夢はやっぱり賢い子だな………」
幸樹の言葉に、郁也も頷く。
ただ、今のままでは不安な事ばかりだった。
あそこには郁也の為のファンクラブが存在する。
親衛隊とも言える組織だ。
彼らにはしっかり弟の事を言っておかねばならな
いだろう。
そして、今の彼の状況も……。
部屋の前に来ると、ノックを2回。
返事もないので勝手に入ると、ただ横になってい
るのか静かだった。
「歩夢?起きてるのか?」
「……」
身動きもしないので、余計に心配になる。
「話さなくていい。ただ俺の声が聞こえるなら…
それでいい」
『聞こえるか?聞こえるならこっちを向いて欲し
い。頼むから俺の方を見てくれ……歩夢』
少し身動きするとチラッと郁也を見て耳を塞いだ。
聞きたくないとでも言うような仕草だった。
聞こえてはいる。
それだけで、少し嬉しかった。
それならそれでいい。
毎日話しかければいいのだから。
無理矢理自分の方を向かせると、突然のことで
混乱する歩夢を押さえつけると無理矢理唇に噛
み付いた。
「……!?」
声が出ないので静かな抵抗をして来る。
それでもいい。
『俺を見てくれ。好きだ、歩夢。お前が居ないと
俺が困るんだ』
「………」
『俺のそばにいてくれ。俺は歩夢が欲しい。歩夢
が側にいるだけでいい。だから……愛している
んだ、一番大事なんだよ……』
語りかけるは心の声で、声に出さなくても伝わっ
ているのがよくわかる。
真っ赤にして反抗するのが、答えなのだと。
『頼むよ、俺を好きになってくれ……』
何度も唇を吸い上げると、深く口付けをする。
両手を捕まえたままなので身動きが取れない。
そっと力が抜けると、されるがままに舌を絡める
と、ただおとなしく従ってきたように思えた。
「歩夢……」
声に出して呼ぶと、いきなり股関に膝が当たる。
「ひぎゃっ……!」
一瞬何が起きたか分からないくらいに痛みが走った。
今にも泣きなそうな顔なのに、怒っているような、
それでいて切ないような、そんな表情を浮かべて
いたのだった。
思いっきり股関を蹴り上げられたせいか郁也はその
場から暫く動けなくなったのだった。




