本と猫
玄関を開けると、途端に舞い込む蒸し暑い湿気に、綾子は顔をしかめた。
まだ朝の8時半だというのに、爽快感はない。
夕べ一晩中降り続いた雨のせいで、道路も玄関先もまだ濡れていた。
空は黒く分厚い梅雨の雲で覆われていたが、所々の切れ間から、まぶしい太陽光が地面を照らしている。
日焼けしそうで嫌だなと、綾子はもう一度顔をしかめた。
綾子はゆっくりとした動作で自転車のカバーをはずしながら、ふと昨晩読んだ本のことを思い出した。
よい本だった。
地元の図書館で半年以上順番を待って、ようやく借りることができた本だ。
一年ほど前にベストセラーになりかけた推理小説で、東北の貧しい農村出身の東大生が、格差社会に疑問を感じ、東京オリンピックの妨害を企てるという話だった。
青年は華やかな東京の象徴であるオリンピックを壊すことで、貧困層を切り捨ててきた都会の連中に復讐しようする。
青年がその考えに至るまでの経過が、丁寧に書かれてあった。
東大生でありながら、成功者側に立てない主人公も魅力的だったが、綾子が最も惹かれたのは、青年に荷担する初老のスリの男である。
偶然出会った同郷の男は、金の為おもしろ半分に青年に手を貸す。
だが本当の理由はそうではない。
二人の間には信頼が生まれ、そこには年長者が未来ある若者を慈しむ慈愛があると、綾子は思った。
おもしろくて、あと少しだけあと少しだけと読み進めている内に、結局最後まで読んでしまった。
気付けば深夜2時を回っていた。
おかげで寝不足だ。
会社へ行くのが益々湯鬱になる。
綾子は自転車のペダルに足を掛けた。
そこで初めて目が合った。
猫だ。
綾子から2メートルほど離れた所に、一匹の猫がいる。
白地に茶色や灰色の斑模様のその猫は、全体的に薄汚れ、痩せていて、一目見て野良だとわかった。
人間を怖がる様子を全く見せず、悠々と綾子の前を横切り、すぐそばの塀にひょいと飛び乗った。
するともう一匹、猫が現れた。
今度は全身が茶色い縞模様の猫で、こちらも野良だとすぐわかる。
縞猫はしっぽをピンと立てて、幾分綾子を警戒しているようだ。
先の斑猫は綾子と縞猫に後ろ姿を見せたまま、塀の上で止まったままでいる。
縞猫は塀に近付くと、高い場所に揺れるしっぽを見上げた。
野良友達かい…?
綾子は微笑んだ。
縞猫はしゃがみこむように後ろ足を踏ん張ると、力を込めて斑猫のすぐそばに飛び乗った。
二匹の猫が塀に立ち並ぶ。
綾子は口元をほころばせたまま、自転車のハンドルを前に押し出そうとした。
そして三匹目の猫に気付いた。
また猫だ、と綾子と思った。
だが三匹目は、前の二匹とは比べ物にならないほど美しい猫だった。
ブルーグレーの細かな縞模様に包まれた引き締まった躯に、あつらえた様な青い首輪がとてもよく似合い、まるで白人の赤ん坊を思わせる可愛らしさだ。
毛並みの美しさは、触らなくとも十分見て取れた。
しっぽを立て少し顔を上げ、遠くを見るようなその青い目の先には、塀の上の二匹の猫がいる。
美しい猫は動かなかった。
動かないのに、躯は塀に引き寄せられている様に、綾子には見えた。
一緒に行きたいんだね。
美しい猫は動かない。
綾子の胸を少しだけ何かが締め付けた。
行っちゃいけない。
向こうには何にもありはしない。
綺麗なしっぽが汚れちゃうよ。
君には濡れた道路すら似合わないんだから。
視線の先の二匹の猫は後ろを振り返ることなく、塀をつたい行ってしまった。
綾子が見返すと、そこにはもう美しい猫の姿はなかった。
向こうには行けないんだよ。
綾子はそうつぶやいた。
声に出したかどうかは、自分でもわからなかった。
湿気を含んだ重い空気がズシリと肩を押さえつけ、綾子はしばらく立ちすくんでいた。