華と夢7
その日は朝霧が出ていた。
いつもより少し早めに目が覚めた清爛は茶でも飲もうかと寝間着のまま外に出た。だんだんと陽の昇りが早くなってきている、もうじき暑い季節がやって来るのだろうと感じていた。
湯を沸かすためにふたを開けて中の水を見ると、かなり少なくなっていた。このままではきっと玉連が朝食の準備の時に水を運ぶだろうと思った清爛は水をくむために桶を持って井戸に向かった。
屋敷の脇を歩いて裏庭に出て井戸が視界に入った時、清爛は足を止めた。まだ薄暗いその庭には、先客がいた。その先客はもうすでに服を着替えており、植えた縁の前に身をかがめていた。
翠明だった。
翠明は植えられている茉莉花の前にかがみ時折手を伸ばしては、何かを見つめている様だった。清爛は桶を井戸の蓋の上に置き、どうやって翠明に近づくべきか考えてみた。こんな早朝にまさか人がいるとは思ってもいないだろう翠明に、真後ろから接近すればかなり強く驚かせてしまうに違いないと思った。清爛はあえて、翠明の視界に入るような位置からゆっくりと近づいてみた。できるだけゆっくり、驚かさない様に。
当の翠明はそんな清爛に気付いていなかった。翠明は茉莉花の日々の変化に夢中だった。うっすらと明るくなったそんな朝陽に輝く朝露、その美しさに目を細めていた。
そんな翠明の表情は柔らかく、美しいと清爛は思った。自分は一度も見たことのない表情だと、そんな翠明の横顔を見て思った。痩せこけてボロボロだった容姿はもうすでにその面影を失いつつあり、長い髪は艶を取り戻しているようにさえ見えた。
思わず足を止めて見入る清爛に、翠明は気が付いた。少し驚いたような表情で清爛を見て、立ち上がり姿勢を正し、頭を下げた。
清爛はそんな翠明を見て我に返り、翠明の横に歩み寄る。
翠明はそんな清爛を見て一歩避けた。
二人は黙って並んで立った。
清爛は会話をしたいと思ったが、まさか翠明がいるとは思っておらず紙も筆も持ってはいなかった。次回からは携帯できる何かを準備しようと思った。
翠明は、清爛をじっと見つめた。何かを言いたいのだろうが伝える手段がないのだろうと察する。自分は対して苦にならない沈黙ではあるが、普段からよく言葉を発しているこの孫文と言う男には耐えられない事なのかもしれないと考えた。
翠明はかがんで、そっと茉莉花に手を伸ばした。
そんな翠明の行動に、清爛もつられるようにかがんでみる。
「あっ、」
翠明の手の先には、小さなまだ硬そうな蕾があった。
清爛は思わず翠明の方を見た。翠明もまた、清爛の方を見て、優しく微笑んだ。
仕事中の翠明はピクリとも表情を動かさなかった。清爛は時折手を止めて翠明を見たが、表情はいつも通りだった。今朝自分が見た翠明は夢だったのだろうかとさえ考えてみる。
吏志はそんな清爛を見て、心がここにない事に気が付いていた。こうなってしまってはもう今日は仕事を片付けることは無理だろうと諦めるしかない。清爛の視線と同じように、吏志も翠明の方を見てみるが、翠明に変わった様子は全くなかった。
「孫文様、翠明様の方が手が早い様ですよ?」
「えっ、わかった・・・」
清爛は自分の行動を見られていたことに羞恥を覚え、再び筆を動かす。
そしてやっとその日の仕事が終わり、片づけを行っていた。
吏志がまとめた書物を持って部屋を出て行くと清爛は大きく伸びをして、大きく息を吐いた。
翠明はそんな清爛を見て筆を執り、紙に文字を書く。そしてどこか上の空でぼーっとしている清爛の前に立ち、書いた紙を見せた。
【本日夜、少しお時間を頂けませんか】
その文に清爛の意識はあっという間に戻り、翠明を見上げた。
翠明は頭を下げて願い出ていた。
【何か話でもあるのか】
【はい】
【わかった、遅くならないうちに行こう】
翠明は頭を下げて、部屋を出て行った。
清爛はとにかく驚いていた。翠明が自分から声をかけてきたことは今まで一度もなかったからだ。どこか嬉しく思うものの、それと同時に何を言われるのか少し不安でもあった。清爛は精一杯平静を装って、陽が落ちるのを待った。
夕食後、翠明は玉連に問いかけた。
【今宵孫文様をお呼びしました、お茶菓子はありませんか】
その文字に玉連は微笑む。
「何をお話しされるのですか?」
【庭のお礼をちゃんとしていなかったので】
「そうですか、では胡麻菓子をお持ちしましょう。」
翠明は玉連に頭を下げた。
玉連は、翠明の心が少しずつ動いている気がしていた。それはやっとこの環境に慣れたのかもしれないし、身の安全を実感できているからなのかもしれないとも思った。翠明の身元については吏志も裏で調べているだろうと玉連は思う、清爛の身分を考えればそれは当然の事だし止むを得ないと思っていた。しかし玉連にはどうしても翠明に悪意があるとは思えなかった。ゆえに玉連は、翠明が自身の口から自身の事を清爛に話してほしいと願っていた。
吏志が何らかの事実を掴んでくる前に、自身の口から。その上で、清爛が決めるべきだと思っていた。
清爛には二人の妃候補がいる。清爛がその女性達の所に通いたがらず、逃げ回っていることを玉連は知っていた。そんな清爛が自分から興味を持った女性、翠明との距離を通じてもう少し大人になってほしいと玉連は思った。
「圧倒的に、翠明様の方が大人ですからねぇ・・・。」
玉連はため息交じりにつぶやき、翠明は首を傾げた。
夜、少し緊張した面持ちで清爛は翠明の部屋の前に立っていた。服も寝間着ではなくきちんとしたまま。一つ大きく息をついて、戸を開けた。
翠明は卓の横に立っていて、開いた戸に気が付くと頭を下げる。そして椅子に座る様に促し、清爛が座ったことを確認すると胡麻菓子と冷茶を差し出し向かいに座った。
そして翠明は筆を執り、文字を書き始めた。
【お呼びだて致しまして申し訳ございません、きちんとお庭のお礼を申し上げていませんでした。ありがとうございました】
そう書いて見せ、翠明は頭を下げました。
そんな翠明を見て、清爛は翠明の手から筆を受け取ろうと手を伸ばす。しかし、翠明は筆を渡さずに首を左右に振った。清爛は意味が分からず手を止めて、翠明を見つめた。
【一般的な会話でしたら口を読むことが出来ます、お話しください】
「えっ?」
翠明の思いもよらない言葉に、清爛は改めて翠明を見上げた。
【玉連様は早々にお気づきになられましたので、そのようにして会話をしております】
清爛はふと、翠明がやって来た時の事を思い出した。
確かに玉連は翠明に文字ではなく、言葉で挨拶をした。今思えばその口調はいつもよりもゆっくりで、はっきりとしていたと思った。
【普段は孫文様や吏志様の口を読む事は致しません、読むには比較的集中力を要します。会話をするときのみ読ませていただき、私は文字でお返しをします】
「そう、なのか。」
清爛の言葉に、翠明はうなずいた。
【玉連様が、もっと孫文様に伝えるべきだとおっしゃいました】
「玉連が?」
【はい。もっと、孫文様に自分の事を話すべきだと】
清爛は黙った。
玉連のその言葉が何を意味しているのか、なんとなく察しがついたからだった。
玉連は間違いなく、翠明に自ら身分を明かすべきだと念を押したのだろうと思った。それは清爛自身が翠明に対し、自ら身辺等を聞くことが出来ないだろう事を察したが故の言葉だろうと思った。
翠明は立ち上がり清爛の横の椅子を引き、一礼して座った。今まで丸い卓に向かい合って座っていたが、翠明は横の椅子に座り、今まで通りに粗悪な半紙と水で、文字を書き始めた。
向かい合っていたときと違い、横で見る翠明の文字は今までよりもより読みやすく、何よりその手の動きは目を引くほど美しく思えた。
【変化と言うものはある日突然訪れるものなのだと、あの日、庭を見て思いました】
「庭を?」
翠明はうなずき、文字を続ける。
【妓女として生まれ、耳は聞こえませんでしたが不自由なく暮らしていました。自分も当然妓女として生きるのだろうと思っていました。しかし、ある時母はいなくなり、私は花街に売られました。明るく華やかな生活は一変し、文字も学べず、本も読めず、姉たちの美しい姿や踊りを見る事も出来なくなりました。花街で身を売ることを拒んだ私は下女として生きる事となりました。そしてそんな生活を十年以上していたある日、私はあなたに買われ、ここにいます】
翠明は筆を止め、清爛を見る。清爛が自身の書いている言葉の内容を理解している事を確認し、再び言葉を紡ぎ始めた。
【ここに来た時、また環境が変わっただけだと思っていました。ただ環境と仕事が変わっただけ、そう思っていました。しかし、あの庭に木が植えられ、毎日何らかの変化を遂げる花を見て、与えられた新しい環境に適応し美しく花を咲かせようとしているその姿を見て、私にも与えられたこの環境で出来る何かがあるのではないかと思う様になりました。それが何なのかはまだよくわかりません。孫文様のお仕事を手伝う事なのか、それとも他にあるのか。私にできる事などたかが知れてはおりますが、それでも、与えられたこの場所で、今を生きようと思いました】
翠明が書いて行く文字はその横からどんどんと乾き、消えてなくなっていった。それは紙に書いた文字であるはずなのにまるで話している様だと清爛は思った。口から出て行く言葉は音だけでその形はない。それと同じように翠明の言葉は、音はないが形はある、しかし儚く消えていく。これは間違いなく、言葉のやり取りだと清爛は思った。
「母の記憶はあるのか?」
【美しく教養のある人でした】
「名前は?」
【璃林と名乗っていましたが、本名かはわかりません】
「なぜ?」
【妓女はみな、芸名を使います】
「母はなぜいなくなった。」
【男と出て行ったと聞きました】
「見受けをされたのか?」
【わかりません】
「そうか・・・」
しばらく会話が止まった後、ややあってから翠明は筆を動かし始めた。
【見受けされたのであれば華やかな宴が開かれるはずですが、その様な記憶はありません】
花街でも妓楼でも、女の見受けをするとなるととんでもない大金が動く。そして女達が買われて出て行く時、店はとても派手な見送りをするもの。それは清爛も何度か見て来たし、実際にそんな大金で翠明を買った。翠明の時は唐突だったためにそんなことは起きなかったが、過去に見たものはそれは豪華なものだったと清爛は思い出した。しかし、翠明の母はそんな事はなかったと言う。となれば自分が翠明をさらったように、翠明の母にもまた同じようなことが起こったのだろうかと考えた。
「翠明、お前はこれからもここにいたいと思うか?」
清爛の問いに、翠明は少し考え、筆を走らせた。
【他に行きたい場所もありませんので、孫文様が必要だとおっしゃってくれるのであれば】
そう書いて、翠明は笑った。
翠明にとって不思議な夜だった。
花街に売られたときから自分の事などどうでもいいと思っていた翠明にとって、誰かに身の上など話した事もなかった。自分にここまでしてくれる孫文と言う男は、自分に何も聞いては来ない。それは、自分が話して来るのを待っているのではないかとどこかで感じていた。
「しかし、よくこれだけの字が書けるものだな。」
清爛は翠明の識字力に感嘆する。
「お前に字を教えた者はなぜそんなに高い教養を得ていたんだ?」
【妓女は皆文字も書けます、歌も踊りもできますし、碁や将棋も嗜みます。耳の聞こえない私に姉たちはいろんなことを教えてくれました。将来困らない様にと】
「大層な努力だなぁ。俺なら投げ出しているだろう。」
翠明がくすりと笑う。
【孫文様の方がよっぽど博識ですし達筆です、それこそよほど良い教師に恵まれ努力されたのでしょう】
「まぁなぁ・・・」
孫文は、まさか幼き日の翠明に触発されたとは言えず考えるような顔をして見せた。
【文字を覚えることはさほど大変ではありませんでした】
翠明もなぜか何かを考えるような顔をして筆を動かした。
【口を読む事を覚えるのはとても大変でした】
「そうだろう。」
清爛はそれこそ本当に大変だったろうと思った。
【幼き時、同じ年くらいの男児と出会いました】
その言葉に、清爛は思わず翠明を見る。
【その男児は、私が耳が聞こえない事に気が付かなかったのか、私に何かを話しかけていました。ですが、私にはそれが分からなかった。やがて男児は連れの人に連れて行かれたけれど、最後まで何かを叫んでいました。彼が何を言っていたのか、それが分からず、悲しかったのを覚えています】
清爛はそれが自分であると確信した。
幼き頃の出会いの中で、ほんのわずかな時の中で、運命が変わったのは自分だけだと清爛は思っていた。しかし翠明にとってもまた、その先の人生を変える出会いになっていた。それが何故か、清爛にとっては嬉しかった。
「・・・その男に、会ってみたいと思うか?」
翠明は清爛の言っている意味が今一よくわからなかった。しかし、しばらく考えて、そして答えた。
【あの時何を言っていたのか、聞いてみたい】
「そうか、会えるといいな。」
清爛は笑って茶を飲み干した。
「長居をした、帰ろう。」
清爛はそう言って、立ち上がる。それと同時に翠明も立ち上がり、一歩下がった。
「よく話してくれた、翠明。また幼き頃の話でもしよう。」
翠明は立ち上がり頭を下げた。
翌朝、吏志は奇妙な感覚に襲われていた。
それはわずかな違いの様で、大きく変わったような気がした。
翠明は相変わらず淡々と仕事をしている、清爛もまた、同じようにまじめに仕事をしていた。その清爛の姿が、吏志には違和感でしかなかった。
なぜか急に清爛が落ち着いた気がしていた。
吏志は首をかしげずにはいられなかった。
翠明が口が読める事は、朝のうちに清爛から吏志にも告げられた。その上で、細かい内容までは把握できない事、把握するつもりが翠明にもない事を告げられた。
それを聞き、吏志は会話に注意を払わなければならないことを察する。それと同時に今まで翠明の前で清爛の素性に関わるようなことを口にした事があっただろうかと思い返していた。
清爛の素性は、例え耳が聞こえず言葉を話すことが出来ない翠明であったとしても明かすことは出来ない。吏志は改めて、気を引き締める事となった。
しかしそのせいか、清爛から翠明に対しての指示は早くなった。
元々賢い翠明は覚えが良いため一度言われたことは確実にこなせるようになっていた。そんな翠明の存在は明らかに清爛の仕事効率を上げていた。