華と夢6
朝、清爛と吏志が翠明の部屋に行くと、翠明はもうすでに着替えを済ませ玉連と二人で部屋にいた。
翠明と玉連は、清爛を見て頭を下げた。
「玉連、今日から翠明に仕事を手伝ってもらおうと思うが、食事と身の回りの世話は引き続き頼む。」
「承知いたしました。」
清爛は翠明をじっと見つめ、翠明もまた清爛をじっと見つめた。
「では、翠明、ついて来てくれ。」
そう言って清爛は身をひるがえす。玉連が翠明について行くように促し、翠明は清爛と吏志の後をついて歩いた。
清爛の書斎には翠明の机も置かれていた。
まず翠明に与えられた仕事の内容は文の仕分けだった。宛名ごとに分け、皇族以下の身分の人間に当てられた文の全てに目を通し、害をもたらす様な内容がないかを判断させた。
翠明は丁寧にすべての文に目を通し、不明な内容は逐一孫文である清爛に尋ねた。
清爛と翠明が共に仕事をするようになって数日が経過した。
生活は玉連が面倒を見ているおかげで痩せていた容姿に幾分か女性らしさが戻って来た。それはますます翠明の容姿を目立たせた。
仕事面でも翠明は実に勤勉だった。
誰に言われることなく起き、朝のうちに部屋の掃除を済ませ、廊下や書斎の壁や飾り格子を掃除した。それは玉連が止めても日課のように行っていた。
翠明にとって、これらの事は下女として働いていた時より当たり前にやっていたっこと。しなくていいと言われても長年身についてしまっている習慣を急に辞める事の方が気分が悪かった。
玉連もまた、そんな翠明の心のうちを察し、無理にやめさせるようなことはしなかった。
相変わらず感情表現の乏しい翠明だが玉連には感情を表にする事もあった。
玉連は、そんな翠明の感情を尊重した。そして、知り得たことは吏志に伝えていた。
吏志は玉連から聞いた内容は、自身の中のみで留めていた。
翠明が入ったことで清爛の仕事量はぐっと減った。時に処理しきれなく溜まっていた文や書類は、その日のうちに処理できるようになった。これは吏志にとっても非常にありがたい事だった。
「お茶にしましょう。」
吏志が声をかけ、清爛が顔を上げて、手を止めた。
翠明にはそのことは伝わっておらず、未だ文に目を通していた。
清爛は席を離れ、翠明が目を落としている文の上にそっと手を差し置いた。それに気が付き翠明は顔を上げる。そこにはいつも微笑む清爛の顔があった。
翠明は文を読むのをやめて立ち上がると、吏志と三人で卓に向かった。
お茶の席は不思議な光景で、筆談と会話が混ざっていた。吏志も当然ながら文字の読み書きができるので、翠明との会話には困らなかった。
「翠明様も字がおきれいですね。」
翠明の書いた文字を見て吏志が清爛に話しかける。
「文章を書いてもらえるとありがたいんだが、文字を書いて説明したものを書かせるぐらいなら、俺が書いた方が早い気がしてね。」
「そうですね。」
清爛と吏志が微笑んでいる光景を、翠明は見ていた。翠明はそんな二人を見て、自分の事を言っているのだろうと察すると共に、あらかたの会話を把握していた。
翠明は唇を読むことが出来た。しかし、それは特に誰にも言っていなかった。あえて唇を読めば、知りたくないことを知ってしまう時もある。だからこそ、あえて何も言わなかった。
玉連はその事に気が付いているのではないかと翠明は思っていた。しかし、玉連もその事を言ってこない事を考えると、あえて言う必要もないのだろうと思っていた。
翠明は未だ、孫文と呼ばれる男が何故こんなにも自分に良くしてくれるのかがわからなかった。
「そういえば、紫陽花と茉莉花の準備が出来たようですよ。」
「水仙はどうだ?」
「水仙の球根は秋だそうです。」
「そうか、ならまだ先だな。」
そう言うと、清爛は筆を執った。
【明日、紫陽花と茉莉花を植えよう】
翠明は字を見つめる。
【好きなように植えたらいい】
翠明は頭を下げた。
書斎で、ただ黙って文に目を通す翠明を清爛はじっと見ていた。
相変わらず表情が薄く自ら何かを発しようとしない翠明、そんな翠明をどうしたら幼い頃のように表情のある姿に戻してあげられるだろうかと考えていた。
漆黒の髪に漆黒のまつげ、文に目を落としているため墨で線を引いたような目元。その容姿だけを見れば気の強さを感じた。
吏志もまた、そんな翠明を見ていた。この女が何者なのか、身元を明らかにすべきだろうと思っていた。
ここに来てから不審な動きはなかったと吏志は思う、清爛を誘惑するわけでも城の中を歩き回るわけでもなく実におとなしいと思っていた。しっかりと躾けられた所作、美しい文字、何より町娘とは容姿が違う様に思えていた。妓女とはここまで高い教育を受けるのだろうかと不思議に思っていた。
そしてまた、清爛の翠明を見る眼差しも気になっていた。清爛は明らかに翠明を特別な目で見ていた。
清爛の事を全て任されている吏志、それは王位継承者である清爛を命がけで守らなければならないと言う事でもあった。
吏志はもう少し、二人を傍観することにした。
夜、翠明は窓から外を見ていた。
殺風景なこの庭に、明日花を植える。どこにどう植えたら美しく見えるだろうかと考えていた。
日当たりの悪い庭でもうまく花が咲くだろうか、咲いたらどう見えるだろうか、茉莉花や桂花は香るだろうか、そんなことを思っていた。
不意に風が流れた。その風の流れは初めてここに来たと起きと同じ流れで、翠明は戸の方に顔を向けた。戸は開いていて、そこには清爛が立っていた。
翠明は清爛の方に向き頭を下げる。清爛は戸を閉めると翠明の横に歩み寄った。真っ暗い庭は目が慣れてこないと何も見えない、清爛は翠明同様黙って庭を見た。
翠明は横に立つ清爛の顔を見た。目をこすりながら必死で凝らし、庭を見ようとしている清爛の表情に幼さを感じ、翠明は思わず笑った。
声なく笑う翠明に清爛は気が付かない、翠明はその場を離れ、お茶を準備した。
湯飲みが机の上に置かれる音で清爛は振り返る。翠明は椅子の横で立って、清爛を待っていた。位の高い清爛が先に椅子に掛けてから翠明が座るのが礼儀である、清爛は窓から離れ椅子に座った。
清爛は筆を執った。
【どう植えるか決まったか】
【いいえ】
【明日庭師と相談したらいい】
【そう致します】
翠明は頭を下げた。
【仕事には慣れたか】
【はい】
【よく働いてくれている、感謝する】
翠明は再び頭を下げた。
清爛はもっと翠明と話がしたかった。どんな事でもいい、たわいのない話で良かった。清爛からしたら、やっと手に入れる事の出来た、探し続けていた者、興味がないはずがなかった。
しかし翠明は長年の生活から感情を動かし意思疎通を取ると言う事をやめてしまっている。清爛の想いとは裏腹に、会話は長くは続かなかった。
【もう少し慣れてきたら、いくつかの文を代筆してもらいたい】
【わかりました】
しばし、無言の時間が流れた。翠明は清爛の言葉を待つ。
清爛は話したい事がたくさんあるのに、何を書いていいのかわからなかった。
【花は好きか】
【好きです】
【何が一番好きだ】
【これと言ってありません】
端的に終わる会話に清爛は頭を抱えそうになった。そんな清爛を見て、翠明はフッと息を吐き、筆を走らせる。
【百日紅が美しいと思います】
清爛は首を傾げた。
【幼き頃を過ごしていた所に、白い百日紅が植わっていました。華奢な木ではありましたが花が美しかったのを覚えています】
【百日紅か、準備させることは出来る、植えるか】
【百日紅は日当たりのいい場所を好む花です、この庭では花が付きません】
清爛は唸った。
出来る事なら翠明の言う百日紅を用意してやりたいと思った。しかし、清爛がイメージしている百日紅は赤いものだった。白い百日紅など見たことがないと思った。
清爛は再び唸る。
それを見て、翠明は再び息を吐き、筆を執った。
【紫陽花と茉莉花で十分です】
清爛は翠明が差し出してきた紙を見て、我に返る。
【明日は仕事はいい、花の準備が出来たら声をかける】
そう書くと清爛は立ち上がった。
「白い百日紅か・・・」
清爛が呟いていることが翠明にはわかる。百日紅を置いてほしいなどと頼んでいないのに、おかしな人だと翠明は呆れ気味に思った。
清爛はそのまま翠明の部屋を出て行った。
翌朝、いつも通り玉連が朝食を準備した。
いつも通り二人で食べて、いつも通り玉連は片づけを行い、いつも通りお茶を準備した。
今日の朝はいつもよりゆっくりで、翠明は清爛が呼びに来るのを待つ事になっていた。
玉連もそんな一日を把握しており、いつもよりゆっくりとお茶の時間を取っていた。
翠明がふと窓の方に目をやり、その外側を見つめた。しばらくじっと外を見つめる翠明、ひとしきり思いをはせた後に顔を戻すと、正面にいる玉連が笑顔で語りかけて来た。
「今日は庭仕事をするのですね。」
そんな玉連の口を読み、翠明は筆を執ると募る疑問を玉連に問いかけた。
【玉連様、なぜあの方は私を構うのでしょう】
その文字を見て、玉連は微笑む。
「ご本人に聞きましたか?」
【仕事を手伝ってほしいと】
「それ以外は?」
【字が、美しいと】
翠明はそれ以外言われた覚えがないと思った。ここに来た日も、今までも、それ以外の事を聞いた事がない。自分の事を知っている様な感じだが、それを言われた事もないとも思った。
玉連は筆を執り、文字を書き始めた。
【確かに、翠明様の字はとても美しいと思います。識字率の低いこの国で、翠明様の様に字を自在に扱える者は非常に少ないでしょう。翠明様の様に万人が見ても美しいと思う様な字が書け、文章を紡ぐことが出来るとあれば、孫文様にとっては願った人物だったと思います】
【私は花街の下女です、孫文様とお会いしたことは二度程あるだけです。それなのになぜあの方は私に大金を払ってまで見受けをしたのでしょう】
【孫文様は身分にこだわらず、能力を評価される方です。翠明様の生まれなどは気にしていないと思いますよ】
以前孫文がそんなことを言っていたような気がすると翠明は思った。
玉連は筆を走らせ続ける。
【私は翠明様に初めてお会いした時、他の者とは違う品の良さを感じました。何と申しましょうか、それはまるで位の高い者の様でした。私は孫文様を幼き頃より見ております。あの方はお優しい方です。きっと、あなたの知的な美しさとは似合わない痩せた容姿に心を動かされた事でしょう】
【私は妓女の娘です、言われるようなものは持ち得ていません】
【あなたの表情も孫文様が気になられた事の一つだと思います】
翠明は、言われている事が分からなかった。そんな翠明を見て、玉連は哀れに思った。きっと、失っている事にすら気が付いていないのだろうと思った。
それはあまりに長い事、自分という者を失った生き方をしてきた証だった。
【翠明様は、表情を失ってしまっています。それは見様によっては知的に見えますが、きっと長い事虐げられた生活の中でいつの間にか誇りや尊厳を失ってしまったのでしょう。さぞ辛い事がおありだったでしょう。今回のお見受けは、翠明様の笑った顔が見たい、そんな孫文様のいたずら心もあったのかもしれませんね】
玉連のそんな言葉に、孫文という男はつくづく変わっていると翠明は思った。
そんな翠明の表情を見て、玉連は笑う。
【翠明様は、諦める事、身を引く事が習慣化されてしまっています。もう少し坊ちゃんと話をしてみたらいかがでしょう。翠明様の口からご自身の事をお話しされるべきです。そうすれば少しは、翠明様の心も動くと思いますよ?】
玉連の坊ちゃんという言葉に、翠明は首を傾げた。
「筆談もよいですが、口が読めるのであれば、それもお伝えしてはいかがですか?坊ちゃんはちょっと世間知らずですが、悪い方ではないですよ?」
世間知らずという言葉に翠明はそうなのかもしれないと思った。
翠明は書官という立場がどういうものかは知らなかった。この城の中でどの程度の立場で、どんな生活を送って来たのか知らなかった。内宮が皇族だけの生活空間と言う事は知っていたが今まで興味関心を持ったことがなかったため、そのこと自体もここに来た時に玉連から教わった。自分たちのいる外宮は国に関わる仕事をする人間がいるところと言う事も改めて教わった。
翠明は、清爛に違和感を覚えていた。
この孫文と言う書官はもしかしたらかなり位が高いのではないかと感じていた。
それは、常に吏志が付いている事や玉連を自分のために呼び寄せて世話をさせている事などから察していた。場内で何人かの役人を見たが、付き人を連れている者は孫文以外にいなかったと翠明は思っていた。
しかしそんな事は翠明には興味のない事だった。玉連に問いかけるつもりもないし、本人に聞くつもりもなかった。聞いたところで自分の何かが変わるとは思えなかったからだ。
何かを考えている様な翠明の表情を見て、玉連は翠明なりに想う事があるのだろうと感じていた。
耳が聞こえず口がきけない、筆がなければ想いを伝える事すらできない翠明はきっと、我々よりも敏感にいろんなことを感じているのだろうと思っていた。感じていても、気が付いていても何も聞いてこないのは、興味がないのか聞きにくいのか、どちらなのだろうかと思っていた。
散々わがままを言ってくる皇族や妃たちの相手をしてきた玉連にとって、翠明は新しい難題だった。
朝から落ち着かない清爛を見て、吏志はもうすでに何度溜息をこぼしているだろうかと思った。
その姿は、待ち望んでいたおもちゃが届くのを今か今かと待ちわびている子供のようであり、今の清爛が待ちわびているのは昼前に庭師が持ち込むであろう苗木であることは明らかだった。
「孫文様、今日は翠明様にお暇をお渡ししているのですから、早く片付けないと知りませんよ?」
「わかっている。」
そう言いながらも筆の進みは悪かった。
こんな事なら翠明がいた方がよっぽど仕事が早く片付くと吏志は思った。
「翠明様をお呼びしましょうか?」
吏志の言葉に清爛は顔を上げた。
「いや、今日は一人でやる。」
吏志には清爛の気持ちが今一わからない。
清爛は膨れたような顔をしながら筆を進めた。
「時間を気にしないで、一人で草木をいじる時間があってもいい・・・」
やれやれと吏志は思った。
清爛なりの気遣いなのだろう思うも、結局背後の翠明が気になって仕事は手に付かなくなるだろう事は予想が付いた。文や訴状の到着など、送り主も受け取る側もいつの事になるのかわからないのだから、数日遅れてもいいのかもしれないと吏志は思った。しかし、たまに紛れている国同士の文などは一刻を争う事もある。また、その文を待ちわびている者もいるので、清爛の気分で留めておく事は良くないとも思う。
「わかりました。」
吏志はそう言うと、清爛の前に今日処理すべき書類を積んだ。
「どうせ始まったら気になって今よりもっと遅くなるんですから、それまでにこれを処理しちゃってください。そうしたらその後はご自由です。」
「いや!そう言う事じゃない!」
清爛が相変わらず狼狽えるが、吏志はもう見慣れている。
「逆を言えば、これを処理しなければ自由にはなれません。文が手元に届くのを待ちわびている者もいるのですから。どちらがいいかはご自身でご判断下さい。」
清爛は慌てて筆を動かした。
庭師は昼前にはやって来た、当然清爛は仕事が片付いていない。
清爛はふくれ面で書類に目を通していた。
玉連に呼ばれて翠明は裏庭に出た、そこにはたくさんの苗木が置かれていて、中年の庭師と十代後半ぐらいの青年が立っていた。
男二人は翠明と玉連に気が付くと頭を下げ、それを見て二人も頭を下げた。
中年の男は一歩前に出て再び頭を下げた。
「庭師の陏宇です、こちらは息子の仔空でございます。」
「こちらは翠明様です、私は玉連と申します。この度はありがとうございました。」
玉連が頭を下げるのを見て、翠明も頭を下げる。
「紫陽花と茉莉花と伺っておりますがどちらにどのくらいお植え致しましょう。」
玉連は懐から紙を出し、陏宇と仔空に見せた。それは図面であり、どこに何を植えるかが書いてあった。
これは玉連の機転だった。
翠明が細かなことを問われても答えられないことを察した玉連は、紙に図面を書き、翠明の意向をあらかじめ聞いていたのだった。
「なるほど、わかりました。」
そう言うと陏宇は数本の紫陽花を足元に並べた。
「紫陽花にも種類がございます。こちらは額紫陽花、こちらは珠紫陽花でございます。こちらは山紫陽花でして背丈が高くなります。」
玉連は翠明を見た。翠明もその違いが判らずにいる。
「それはどのように違うのですか?」
「はい。珠紫陽花は華が毬のように集まり大きな見栄えのする姿です。額紫陽花は外側に大きな花がありまして中心に小さな花がありまして、山紫陽花は・・・・」
玉連と翠明には庭師が言っている紫陽花の姿が想像できなかった。想像がつかなければ何を植えていいかもわからない。二人は少々困り、顔を見合わせた。
そんな庭師の声は開いている窓から清爛にも聞こえていた。そして吏志にも聞こえていた。
清爛の耳が完全に庭の方に向いてしまっていることに吏志は気付いていた。そして、すぐに窓に飛びつくであろうことを察し、そっと周囲を片付け始める。
「どうしましょうかねぇ・・・」
玉連が翠明に声をかけた、その時。清爛は立ち上がり、窓から顔を覗かせた。
「おい、仔空と言ったな。」
玉連と翠明の背後から清爛の声がした。四人がその方向を見ると、窓から清爛が顔を出してこちらに声をかけていた。吏志はそっと机の文を片付け始める。
「これは孫文様。」
玉連が頭を下げると、翠明が頭を下げ、陏宇と仔空が膝をついた。
「仔空、お前は絵が描けるか?」
「・・・えっ、あっ、はい。」
「墨と紙をやる、その紫陽花を絵にかいて説明してやってくれないか。」
「・・・えっ、はい。」
驚いた顔の仔空、清爛は紙と筆、墨壺を持って部屋を飛び出す。その姿を見て吏志はため息をついてから後を追った。
「これはこれは、孫文様。」
父の陏宇が膝をついて頭を下げ、同じように仔空も深く頭を下げた。
「そんなことしなくていい、それよりその花の違いを教えてくれないか?私も知りたい。」
翠明を見てどうだと言いたげににこりと笑う清爛、そんな清爛を見て意味が分からないと言わん気に小さく首をかしげる翠明。
そんな二人を見て、明らかに幼い清爛の一方通行な想いなのだと吏志と玉連は思った。
清爛は井戸の蓋の上に紙と墨を置いて仔空を呼ぶ。
呼ばれてやって来る仔空、それに残りの大人たちが付いて来た。
仔空は清爛に筆を渡され、一度その顔を見上げる。清爛が微笑み書くように促すと、仔空はするすると筆を動かし始める。そして一枚の紙には幾種もの紫陽花が見事に咲き誇った。
「すごい、上手いじゃないか。」
「上手ですね。」
清爛が驚き、吏志も声を上げた。
「これが額紫陽花で、これが珠紫陽花、こっちが山紫陽花です。」
「翠明、好きなのを選んだらいい。」
翠明は額紫陽花を選んだ。
陏宇と仔空は指定された場所に紫陽花と茉莉花を植える。土を耕し、翠明のイメージに近くなるように本数や形を整えて植えて行った。満足げに眺める清爛と、相変わらず淡々とした表情で作業を見つめる翠明。
それでも少しずつではあるが、小さな陽影の裏庭に緑が植わっていくのを見ているうちに翠明は自分の心が少しずつ明るくなる気がした。
翠明は何も言わず動き出す。
そんな翠明を三人が見つめた。
翠明は井戸のふたを開けて水をくみ出した。そして庭師が置いていたであろう井戸の横の桶に水を入れ始めた。
仔空がその音に気が付いて振り返ると翠明の所に走り寄って来た。
「すみません、ありがとうございます。」
翠明は首を左右に振り、そして、少しだけ微笑んだ。
仔空は水の入った桶を持って植えたばかりの植物の所へ行き、水を播き始めた。翠明は再び水を汲もうと井戸の中に桶を落とす。その姿を見て、吏志が変わろうと足を向けるよりも先に清爛は井戸に向かい、翠明から釣瓶を取った。
「変わろう。」
そう言って翠明に微笑む清爛、翠明は一歩下がった。
再び水を取りに来た仔空は水くみが清爛になっていることに驚き一瞬止まった。
仔空が恐る恐る置いた桶に清爛は水を入れて問いかける。
「あと何回水は必要だ?」
「あと、一回でいいと思います。」
「わかった、」
仔空は頭を下げて水を運んだ。
再び水がまかれ、庭仕事は終わった。
「水仙の球根は時期が来ましたらお持ちいたします。花の手入れが必要そうでしたらお声掛けください、すぐに参ります。」
「ありがとう、また声をかけるよ。」
清爛がそう答えると、庭師二人は頭を下げた。
「仔空、お前は字は書けるか?」
清爛に声を掛けられ、仔空は顔を上げる。
「いえ、字は・・・」
「この子は庭師としての教育はしておりますが、私が字が書けないものでこの子も書けないのです。」
「それはもったいないなぁ・・・」
清爛はフッと息を吐いた。
「とてもいい絵を描けている、字を学んで花の名や育て方などを書にしたらいいと思うのだが。仔空、お前は字を学んでみたいか?」
「はい、学びたいです!」
仔空は食いつくように清爛を見た。
「そうか、なら学べるように考えよう。」
「ありがとうございます、孫文様。」
陏宇と仔空が膝をついて頭を下げた。
庭師が片づけをはじめ、四人は部屋へと戻って行った。
玉連は食事の用意をはじめ、翠明は部屋の窓から庭を見ていた。
清爛は再び筆を執り、吏志は清爛が逃げ出さない様に書類を抱えて監視をした。
翠明はとても不思議な気分で庭を見ていた。
環境とは、こうも一瞬にして変わるものなのだと言う事を痛感していた。たった数時間で、薄暗く何もなかった庭に緑が増えて明るくなった気がした。
思い返せば自分の環境もそうだと思った。華やかな母や多くの姉達と共に不自由なく暮らしていた時間は、ある日一瞬にして変わった。着物も住む場所も変わり、優しかった姉たちはいなくなった。生きるために働き、誰も自分を気にする者はいなかった。
妓女の娘である誇りから遊女になる事だけは認められなかった。このままただひたすら時が流れ、いつかその時を終えるのだと思っていた。そう思っていたはずなのに、自分は今城に仕えている。孫文と言う書官に買われ、世話役までつけられて暮らしている。人生とはわからないものだと、翠明は庭を見て思っていた。
この日から翠明の仕事の中に、毎朝の庭木の管理が加わった。
誰に言われるわけでもなく、翠明は毎朝庭に出て、水をやり、葉に手をかけていた。音の聞こえない翠明にとって草木を眺め、その小さな変化や成長を見つける事は心を動かされることだった。
翠明の表情が少しずつ柔らかくなっていることに玉連は気が付いていた。草木に手をかけている時の翠明の表情はとても柔らかく、まるで愛しい者を見ている様だと玉連は思った。しかし、そんな変化に本人は気が付いていないのだろうとも玉連は思った。なぜならその場から離れてしまうとまたいつもの様になってしまうからだった。
なんとかそんな自身の変化に気が付かせてやりたいと、玉連は思っていた。