華と夢21
吏志が翠明の調査に足を踏み込めないでいる中、事は起きてしまった。
その日、清爛は書斎にはおらず、翠明と吏志は二人で仕事をしていた。翠明は筆を動かし、吏志がそれらを捌いていた。そんな最中、吏志は廊下から聞こえる力強い足音に気が付いた。その足音が清爛のものではないことに気が付いた吏志は、なんとなくいい予感がせず、手に持っていた書類を机の上に置きドアの方に体を向けた。
「孫文殿!いるかな!?」
大きな声で勢いよく扉を開けて来たのは軍人だった。吏志はぎょっとして、身を固めた。
「これは、雅陵様・・・」
吏志は咄嗟に翠明を見た、幸い翠明は文字を書くことに集中していて気が付く様子がなかった。
「吏志殿、孫文殿はおらぬのか?」
「えぇ、今は席を外しておられますが、何様ですか?」
吏志は何となく、翠明を隠すように立っていた。
「すぐに戻って来るか?」
「さぁ、どうでしょう・・・」
「相変わらず自由な奴だ・・・ん?」
雅陵は吏志の背後で筆を動かしている翠明に気が付いた。
「吏志殿、あの者は?」
雅陵がふと問いただすような視線を吏志に向けた。この視線を向けられては、吏志に反抗することは許されない。
「翠明様です・・・」
「翠明!?」
雅陵が声を上げた。
翠明はちょうど書を書き終えて筆を置いた。そして顔を上げ、視界に吏志ともう一人見知らぬ男がいることに気が付いた。翠明はその見たことのない男と目が合った事に気が付くとゆっくりと立ち上がり、その男に深く頭を下げた。
「吏志、あの者は本当に翠明か・・・?」
「はい、そうです・・・」
「本当に、あの、翠明なのか・・・」
「・・・はい・・・」
「まさか、女だったとは・・・」
吏志は目を閉じ、頭を落とした。そして再び顔を上げ、雅陵に声をかける。
「雅陵様、ここではなんですので孫文様のお部屋でお待ちいただけませんか?」
「いいだろう、すぐに来い。」
「かしこまりました・・・」
雅陵は身をひるがえし書斎を出て行った。吏志は深く息を吐き、いつも通りの表情で翠明に向き直した。翠明は首をかしげている。
「孫文様のご友人です、少しお相手をしてきますから、そのまま続けてください。」
翠明は頷いた。
吏志はすぐさま清爛の部屋に行く。部屋の奥には雅陵が座っていて、吏志を待っていた。
「お待たせいたしました、高蓬様・・・」
雅陵は高蓬が軍人として動くときの名前だった。高蓬の時は軍を率いる司令官として、雅陵の時は一般兵として軍に紛れていた。
「まさか、翠明が女だとは夢にも思わなかった。」
吏志は黙った。
隠していたわけではなかったが、あまり知られたくない事実だった。
「あの女はいつからあそこにいる。」
「一年ほど前です。」
「どこの出の者だ。」
高蓬は長椅子に身を投げて吏志を見つめる。吏志は必死に言葉を選んだ。
「清爛様がご自身でお連れになりました。細かい素性は存じ上げません。」
「お前はよく、そんな女を清爛の元に置いているな。」
吏志は黙った。
高蓬が言うことは正しい、皇族である清爛の元に素性のしれない女など普通に考えてありえない話だ。そしてそんな事が起こらない様に監視し調整するのが自分の仕事であると吏志は十分心得ていた。
「まぁいい・・・」
高蓬は悩ましい顔をして腕を組んだ。
「どんな理由であれ、自分の命を捨てる覚悟で清爛の身代わりを買って出た女だ、その点については感謝しかない。しかしそこに裏があるとするならば話は別だ。」
「高蓬様、翠明様はそんな方ではありません。」
「素性も知らぬ女だ、信じられる訳がなかろう。」
冷たい軍人の視線、吏志はただ黙って高蓬の言葉を聞くしかなかった。
「あいつはこの国のために使う生き物だ、あの頭脳は実に有能であり代え難い。我が軍が無敗であるのもあいつの策があるからだ。すなわち、この国で最も使える人間だ。どんな理由であれその頭脳を脅かす者は排除する。あいつ意外にあの頭脳を使っていいのは、俺だけだからな。」
高蓬と清爛は見た目こそ信頼し合っている兄弟だった、しかし吏志は高蓬が清爛を利用している事を知っていた。
高蓬は清爛に皇位を譲るつもりは全くなかった。自身が皇帝になり、清爛を従えその頭脳を自分の為に使う、それが高蓬の狙いだった。
「あの容姿だからな、変な虫の十・二十付くだろう・・・吏志、翠明を調べろ。そして俺に報告するんだ。いいな。」
「・・・かしこまりました。」
「内容によっては、夜のうちにでも斬っておく。」
そう言って高蓬は立ち上がる。
「孫文殿に伝えてくれ、女好きの雅陵が来たとな。」
吏志は去り行く高蓬に頭を下げた。
一難去ってまた一難とはこの事だと吏志は思った。
吏志は今の事をどこまで清爛に伝えるか悩んだ。高蓬は翠明を狙っている。それがどんなにこの国のためであったとしても、清爛は受け入れる事が出来ないだろう。
現在傍目から見れば兄弟の関係は良好だ、その関係をあえて崩す必要はないだろうと思った。ここは、自分がどうにかすべきなのだろうと吏志は思った。
そのためには、本格的に翠明の事を調べなければならないと思った。この出来事は、翠明の調査を先延ばしにしていた自分への天罰だと吏志は思った。
町からご機嫌に帰って来た清爛はそのまま書斎に入った。そこには翠明しかおらず、吏志はいなかった。翠明は清爛に気が付いて頭を下げる。
「吏志はどうした?」
翠明は清爛に手を差し出す。それは手を出してと言う意味であり、分かっている清爛は翠明の手のひらに自身の手を重ねた。翠明は清爛の手のひらに文字を書く。
【客人と出て行った】
「客人?誰だろう。」
翠明は首をかしげる。
吏志が席をあけることはよくある事、官僚の誰かが呼びにでも来たのだろうかと思い清爛は特に何も気にすることなく座った。
ややあって吏志が戻って来た。清爛にはやけに吏志が疲れた顔をしている様に思った。
「どうした、吏志?」
清爛が帰って来ている事に気が付いた吏志は、そんな清爛の姿を見て深くため息をついた。
「孫文様、少しよろしいですか・・・?」
「あぁ・・・?」
清爛は翠明と目を合わせてから立ち上がり、吏志と部屋を去った。
吏志は黙ったまま、清爛を部屋へと連れて行き、しっかりと戸を閉めた。
その時、清爛は自分の部屋に違和感を覚えた。それは、誰かがここにいたような気配だった。
「どうした、吏志。客人が来たと聞いたが?」
「えぇ・・・雅陵様が」
「雅陵だって!?」
清爛が発狂した様に叫ぶ。
「えぇ、あなたに会いに来ました。」
「それで!翠明に会ったのか!?」
「えぇ、女性だとお気付きになられて・・・大層興味をお持ちでした。」
「なんてことだ・・・」
清爛が頭を抱えた。
「あなたがいないから悪いんですよ・・・」
高蓬は多くの妃を抱えていた。正妻を数名、側室と呼ばれる妃を数えたら何人いるかはわからなかった。輪をかけて軍人雅陵は非常に女遊びが派手で有名であり、遠征中に町娘にまで声をかけると言う噂が後を絶たなかった。
実際がどうかは清爛と吏志にはわからないが、噂を聞く限り思い当たる節があると思っていた。
「それで、お前に何を言ってきた。」
「翠明様の素性を調べる様に命を受けました。」
「なるほどな・・・」
吏志は、高蓬の本当の狙いを伝えなかった。
「命に背くわけにはいきません、しばらく席を外すことが多くなると思います。清爛様は出来るだけ、翠明様の側を離れない方が良いかと。」
「わかった・・・。」
吏志は、これは自分がうまくやるしかないと思った。兄弟と、翠明、この三角関係を崩さない様にうまくやるのが、自分の仕事だろうと吏志は腹をくくった。
「まぁ、今後のお二人の関係を思えば、翠明様の素性ははっきりしておいた方が良いのは事実です。いい機会です、調べてしまいましょう。」
「二人?俺と兄貴の?」
事の重要さを理解できていない清爛に、吏志は思わず怒鳴りそうになるのを飲み込んだ。
「・・・あなたと、翠明様でしょ・・・!!!!」
「あっ・・・。」
清爛は顔を赤くして頬を掻いた。
翠明は清爛の部屋を自由に出入りしていた。
その日も清爛の部屋に入り、水瓶を変えた時、正面に男が立っている事に気が付いた。翠明は首をかしげながらも頭を下げる。男は雅陵に化けた高蓬だった。
雅陵はじっと自分を見つめる翠明を見て、清爛の部屋に自由に出入りできる関係なのだと言う事を知った。自分に首をかしげながらも頭を下げる翠明に、雅陵は目を細め無精髭を触りながら翠明に詰め寄る。
翠明はそんな雅陵に圧倒される様に数歩下がり、壁に背が当たった。一瞬背側に顔を向け振り向くと、かなり近い距離に雅陵の顔があった。翠明は驚き、固まった。
「お前が翠明か・・・?」
低い声は翠明には聞こえない、翠明は真正面にある男の表情と唇を読むことで、何を言われているかを察した。
上から下までじろじろと自分を見る男の目に、翠明は見定められている気分になった。それは女郎として扱われた経験を持つ翠明にとって決していいものではなかった。
「この部屋は孫文殿の部屋だぞ?なぜお前がここにいる?」
「・・・・・・」
「どうやって孫文殿に近づいた?ここで何をしている。」
この男が自分の存在を不快に思っている事に翠明は気が付いた。そして自分は疑われているのだろう事にもまた気が付く。事を説明したい気持ちはあったがこの男が何者かを知らない翠明にとって、自分が事の次第を伝える事は最善ではないと思った。翠明は黙ったままやり過ごすことを決めた。
「お前は何者だ?」
書斎から部屋に戻って来た清爛が見た光景は最悪だった。
雅陵である兄が翠明を壁に追いやっていた。高蓬が何を話しかけているかわからない清爛にとって、その光景は悪夢にしか思えなかった。
「人の部屋に勝手に入り込んだ挙句、人の部下に手を出すとは何を考えておいでですか?雅陵殿。」
苛立った清爛の声に高蓬は振り向いた。
滅多に見ないような不機嫌そうな顔をしている清爛を見て、高蓬はおどけて見せた。
「おぉ、孫文殿。探していたよ。」
「私を探すなら書斎に来ればよいでしょう。彼女から離れていただきたい。」
「気分を害したのなら失礼。」
高蓬が体をどかし、翠明はその向こうに清爛の姿を見た。ふぅと息を吐き方の力が抜ける翠明。そして翠明はこの後どうしていいかわからず清爛を見つめた。
「翠明、こっちに。」
翠明は高蓬の横をすり抜ける様に清爛の元へと足早に向かう。
「書斎に戻っていてくれ、話があるようだから、済ませたら戻る。」
翠明は頭を下げて逃げる様に部屋を出て行った。
じっと高蓬を見つめる清爛、そんな清爛を見て高蓬は笑う。
「そんな目をしなくてもいいだろ、手を出したわけじゃない。」
「私には最悪な光景に見えましたが?」
『高蓬』と『清爛』の立場である時、兄である高蓬の方が位は上であり権力がある。しかし『雅陵』と『孫文』となると孫文の方が位は上になる。この場合、二人は対等に話しをしていた。
「で、何しに来られたんですか?」
「相当久しぶりなんだ、孫文に会いに来てもいいだろう?」
「孫文にも清爛にも散々会ってたじゃないですか。」
「それは高蓬としてだ、雅陵としては会っていない。」
「同じです。」
清爛は呆れ切ったように腕を組んだ。
「前回来た時にいい女がいた、だから再び見に来た。それだけだ。」
「ご存知の通り、彼女は耳が聞こえません。あまり脅かさないでもらいたい。」
「まさか女だったとは思わなかったよ、翠明と言う者がな。」
清爛は未だ疑いの眼差しを高蓬に向けていた。
頭のいい清爛を持っても、この雅陵となった兄が何をしにここに来たのかがわからなかった。
「部屋に自由に出入りをさせているんだ、よっぽど信頼をしているのだな。」
「あたりまえです、共に仕事をしているのですから。」
高蓬は目を細め、無精髭を触りながら清爛を見た。
「で、用事は何ですか?」
「もう済んだ、最近暇なんだ。また来るよ。」
「来ないでください。」
笑いながら去って行く高蓬に清爛は断りを入れる。
高蓬が部屋から出て行ったことを確認し、自身も部屋から出て、急いで書斎に向かった。
「翠明!?」
勢いよく書斎の戸を開け叫ぶ清爛、翠明は自身の机に向かって筆を動かしていた。その姿はいつも通りだった。
視界に清爛が入り筆を止める翠明、慌てている清爛とは対照的に、翠明はいつも通りだった。
清爛は翠明の机の前に立ち、両手を机に付き前のめりになる。翠明は少し身を引いた。
「大丈夫だったか?」
翠明はうなずいた。
「何も、されなかったか?」
翠明はうなずいた。
「何か、言われたか・・・?」
翠明は首を振った。実際にはいろいろ言われたと翠明は思った。しかしそれを清爛に言うべきではないと思っていた。あの男が何者かは知らないが、清爛の部屋に自由に出入りをしている以上、それなりの身分であり、それなりの関係なのだろうと翠明は察した。そうであれば、自分が何かを言うことで関係がこじれる可能性があるのならば避けるべきだと思っていた。実際、自分は怪しまれてもおかしくない存在だろうと翠明は思った。
「・・・そうか、」
清爛は勢いを落とした。
翠明は立ち上がり筆を持ち換えて、半紙に水で文字を書く。清爛はそんな翠明の隣に立ってその文字に目を落とす。
【あの男性はどなたですか】
「あの男は雅陵と言う、軍人だ。」
清爛は【雅陵】と書いて見せた。
【親しい方なのですか】
「あぁ・・・まぁ、」
清爛は返事に詰まった。
翠明はそんな清爛を見て、一筋縄ではいかないような関係なのだろうと思った。
「翠明、お前、今までにあの男に会ったことがあるか?」
清爛はじっと翠明を見て問いかけた。翠明はしばらく悩んだような顔をして、首を左右に振った。
翠明は、雅陵が高蓬だと気が付いていなかった。それを知って、清爛も安堵する。
「翠明、しばらく、俺の側を離れるな。」
翠明は首をかしげる。その表情はなぜかと問いかけていた。
「・・・えっと、」
清爛は言いにくそうに頭を掻いた。
「あいつは、異常な女好きなんだ・・・」
翠明は目を丸くした。
「また来るかもしれない、だから、一人で動くな。」
翠明はくすりと笑ってうなずいた。
清爛は毎晩、翠明の部屋へと通っていた。
毎日たわいもない会話をして、お茶を飲みながら共に時間を共有する。二人にとってはそんな時間だけで十分だった。
【吏志様はまたお忙しいのですか?】
ここ数日、吏志は書斎に顔を見せていなかった。過去にも吏志のいない日はあったが、ここまで連日いないことは久しぶりだと翠明は思った。
「あぁ、ちょっと別件でな。」
翠明は過去に、吏志には他にも仕事があると聞かされていた。なので清爛の答えにさほど疑問を抱かなかった。
清爛は、翠明が納得したような顔をしたことに安堵した。まさか自分の事を調べられているなど気付かせたくなかった。その事を知ったところで、翠明は何も言わないだろうと思うも、疑われていると言う想いを抱かせたくはなかった。翠明の素性がどうであれ、出生がどうであれ、清爛は翠明を手放すつもりはなかった。
しかしその一方で、吏志の調査能力が高い事も知っていた。吏志は仕事を完璧にこなす、だからこそ自分は吏志に仕事を任せていると思った。吏志がどんな結果を持って来るのか、清爛には少しばかり、気になる事ではあった。




