華と夢12
翠明がいつも通り書斎に行くとそこには吏志しかいなかった。
翠明は吏志を見上げて挨拶をする、吏志も挨拶を返すが、その表情はどこか冴えない。翠明は首を傾げ、席に着いた。
書類を持ってきた吏志は翠明の前に立ち、ふぅと息を吐いた。
「すみません翠明様、孫文様は今日はおられません。」
翠明は首をかしげる。
吏志は再びふぅと息を吐いた。
「たぶん、町に出て行ってしまったと思うんですが・・・どこにいるのか。」
その言葉を読んで、翠明は納得した。そして筆を執る。
【かまいません、仕事を進めましょう】
「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
【残りは孫文様が片づければ良いのですから】
その言葉に吏志は翠明の気の強さを感じ、苦笑した。
夕方には清爛は帰って来た。何事もないかのように竈にやってきて水を飲む。そして大きく伸びをして何事もないかのように部屋へと戻った。
部屋には吏志がいて、呆れた顔をしていた。
「・・・今夜は徹夜されますか?」
「・・・悪かった。」
「久々に出し抜かれた気分です。」
「悪かったってば。」
そう言う清爛の表情はどこか明るくて、絶対に悪いとは思っていないと吏志は思った。吏志はため息をついた。
「今度は何ですか?」
「ちょっと、探し物をしてるんだ。」
そう言う吏志に、清爛は笑う。
この言葉で吏志は、清爛の脱走がしばらく続くことを理解し、諦めた。
清爛はちょこちょこと仕事場を抜け出すようになった。
それは朝からだったり午後からだったり、だいたい半日程度だった。
その日の清爛はどうやら午後からいないらしい、翠明も清爛の脱走に慣れ始め、吏志にその理由を問わなくなった。時間通りに翠明は仕事を終え、清爛の机を文の山にして書斎を出た。
書斎を出てすぐに翠明は廊下でばったりと清爛に会った。翠明は何事もなかったかのように頭を下げて自分の部屋へと戻ろうとする。清爛はそんな翠明の手を掴んだ。
「・・・?」
翠明は清爛を見て、首をかしげる。清爛はにこにことしながら翠明を再び書斎に連れ込んだ。
翠明は意味が分からないものの、されるがまま書斎に入る。
清爛は意味の分かっていない翠明を見ながら、相変わらず機嫌が良さそうだった。
「翠明、」
「?」
「一緒に町に出ないか?」
【なぜですか】
「久しぶりに出たくないか?」
【いいえ】
簡潔に済んでしまった会話に清爛は頭を抱えそうになった。
むすっとして机に肘を付く清爛を見て、翠明は筆を動かす。
【どこに出かけたいのですか】
「見せたいものがあるんだ。」
そう言うと清爛はどこかいじけたような、でも恥ずかしそうに目を逸らした。
翠明は首を傾げ、しばし悩むと、再び筆を動かす。
【吏志様の許可が下りたのなら、良いですよ】
「吏志の!?」
【吏志様にご迷惑が掛かりますから】
翠明はそう言って、目を細めて清爛をたしなめる様に見つめた。
清爛は渋々と言う表情で、ため息交じりで了解の意を翠明に伝えた。
翌朝、いつも通り吏志は清爛の部屋に行く。
「おはようございます。」
「あぁ、おはよう。」
清爛はもう着替えていて髪を整えていた。
「吏志、頼みがある。」
「はい、何でしょう。」
「翠明と、町に行きたい。」
「翠明様と?」
吏志は今日の清爛はおかしなことを言うと思った。町に行くことに許可を求めた事は吏志が記憶する限り一度もなかったからだった。不思議な顔をしている吏志に、清爛はため息をついた。
「翠明が、お前がいいと言ったなら行くと言うんだ・・・」
「なるほど。」
吏志は、さすが翠明だと思った。完全に清爛を手玉に取っていると思った。
「いいですけど、いつですか?」
「できるだけ早い方が良いんだ。」
「どこに行かれるんです?」
「ちょっと、見せたいものがあるんだ・・・」
照れくさそうにプイっと顔を背ける清爛、相変わらずの幼さに吏志はため息をついた。
「わかりました、今日と言う訳にはいきませんので明日にしてください。」
「わかった。」
そう言うと清爛は部屋を出て書斎に向かう。吏志はやれやれと呟きながらその後を追った。
「翠明、ちゃんと吏志に許可を取ったぞ。」
仕事合間のお茶のひと時、清爛はちょっと照れくさそうに翠明に言った。
翠明は吏志を見て、吏志はうなずいた。
「だから、明日行くぞ。」
嬉しそうにそう言う清爛に、翠明は立ち上がり紙と筆を持ってきて、冷静に字を書いた。
【服がありません】
その言葉に清爛と吏志が止まる。
【この服で構いませんか】
そうだったと、清爛と吏志は思った。
翠明がここに来た時、その姿は古びた下女の服と数少ない持ち物だけだった。吏志が清爛を見下ろすようにじっと見つめ、清爛が両手で顔を覆った。
「吏志・・・」
「はい。」
「着物屋を呼んでくれ。」
「かまいませんが今日の事にはならないですよ?」
「あさって、町に行く事にした・・・」
「かしこまりました。」
そう言うと吏志は翠明に一礼して部屋を出て行った。
翠明はお茶を飲み終えて、仕事に戻った。
仕事後の翠明は、城に出入りしている着物屋に服を見繕われていた。その場には玉連がいて、部屋の外にはなぜか清爛がうろうろしていた。
玉連は三着ほど購入する予定だった。一着は町に出るための町人用の服、あと二着は城勤めの身分の女性が着る様な少し良い服だった。
「翠明様はやはりこのお色がお似合いですね。」
そう言って玉連が着せた服は淡い翡翠色の服だった。
翠明は言われるままにいろんな服に袖を通した。どれが良いかと問われても皆目見当がつかないので、すべて玉連に任せることにした。玉連は楽しそうに翠明の服を選んでいる。
「男児の世話ばかりして参りましたから、女性の服を選ぶのは気分が違いますね。」
楽し気な玉連を見て、翠明もまた気持ちが明るくなる気がした。
部屋の前をうろうろしている清爛を見かけた吏志は深い溜息をついた。
「何をされているのですか?」
吏志の問いかけに肩を跳ねさせて驚く清爛。
「お声を掛けたらいいじゃないですか。」
そう言うと吏志はうろたえる清爛を差し置いて戸の中に声をかけた。
「お決まりですか?」
「吏志様、そこに孫文様はおられますか?」
「えぇ、おります。」
そう言うと吏志は横にいる清爛に目を向ける。
「町に出る服装はどの様なものが良いか見て頂けますか?」
「かしこまりました、お開けしてもよろしいですか?」
「えぇ、どうぞ。」
「失礼いたします。」
玉連に着飾られた翠明は、淡い翡翠色の上着に長い裾の腰巻、帯を胸下で結っていた。普段は濃い臙脂色の服を着ていたためだいぶ印象が違うと清爛と吏志は思った。
「町に出るには少々派手でしょうか?」
「孫文様、いつもはどのようなお姿で町を歩かれていますか?」
「日銭を稼いで暮らすぐらいの平民だなぁ。」
「じゃぁこの格好じゃちょと身分が高いですねぇ。」
「では生地を変えましょう。」
そう言うと玉連は男二人を手早く部屋から追い出し翠明を着換えさせる。
翠明は足元に置かれた、自分にあてがわれると思われる服を見た。どれも色は淡くとても良い物なのだろうと思う、幼き頃に見た妓女達や遊女達が着ていた服の色に近いと思った。しかし妓女や遊女達が肌の露出が多く薄い布なのに対し、ここの服は生地もしっかりしており、一度に何枚も着込むと言う事を知った。翠明はこれらの服を一体いつ着るのだろうと客観的に見ていた。
では、と言って玉連は清爛と吏志に頭を下げた。去り行こうとする玉連に、清爛が躊躇いがちに声をかける。
「玉連、」
「はい、何でしょう。」
「さっきの翡翠色の服、あれ・・・も、買っていい・・・。」
「はい、かしこまりました。」
照れながら目を合せずに言う清爛に、吏志と玉連が目を合わせ、息を吐いて笑った。
翌日、清爛と翠明が仕事をしている最中に服は仕上がり、翠明はその服を着て町へと降りる事となった。
吏志に町に下りる許可をもらっているため、清爛は城の中で町民の格好に着替え、堂々と裏口から翠明を連れて出て行った。
吏志はそんな二人を見送ると書斎に戻った。
城の裏手から町に下りる。翠明にとってこの道は城に連れて来られたあの日以来だった。清爛は翠明の手をしっかりと握り獣道を下る。その足取りはとても慣れている様だった。
町に下りても清爛は翠明の手を離さなかった。手を取って歩くなど、親子がする事だと言うのに清爛は恥ずかし気もなく町を歩いた。
時折すれ違う人がこちらを見ている気がした。翠明が清爛を見上げると、清爛はそんな翠明に気が付いて話しかける。
「横にいなきゃ話ができないじゃないか、気にするな。」
確かにと翠明は思った。耳の聞こえない自分は孫文の口を見なければ何を言っているかわからない。一人で歩くならまだしも、二人が別々に歩いてしまい、自分が行先を知らないとなると万が一孫文を見失なっては致命的だろうと翠明は思った。翠明は一人では城にすら帰れなかった。
「以前、町を出歩いた事は?」
翠明は首を傾げ、ややあって左右に振った。
下女として生きていた時は町など出歩いた事はなかったと思いだした。賃金に余裕があったわけでもなく、何か買いたい物があったわけでもなかった。食べ物は花街を出入りるする行商から残り物を安く買う、そんな生活だったと思い出した。そしてそんな生活を続けていたときは、生きることに対して意味も希望もなかったと思った。
「ちょっと歩くけど大丈夫か?」
翠明はうなずき、清爛はそれを確認すると嬉しそうに歯を見せて笑った。
歩く道は石が敷かれてきちんと整えられており凹凸はない、綺麗に造られている物だと翠明は歩きながら思った。左右を見て見れば石造りの家に木製の家、様々だが自分が暮らしていた古びた長屋とは違い、とてもしっかりした造りだと思った。
清爛はきょろきょろしながら歩く翠明を見て、本当に何も知らないのだろうと思った。あんなにも華やかな世界の隣に住んでいながら、自身は何の色にも染まることなく、表を歩くことなく、裏でひっそりと生きていたのだろうと。
清爛は翠明にもう少しいい服を着せて歩かせればよかったと思った。きちんとした身なりで、ここにいる民達よりももっと明るい世界にいるのだと実感させてやればよかったと思った。あの翡翠色の服を着せて、髪飾りなどを付けさせたのならきっとどんなに着飾った遊女や妓女にも劣らないだろうと翠明を見て思った。
視界の隅に清爛の視線を感じて翠明は清爛を見つめた。
清爛は急に翠明と目が合って驚いた表情を見せるも、すぐに笑いかける。
「なかなかきれいにしているだろう?」
翠明はうなずいた。
「この国は資源が乏しいが、南には石山があり腕のいい職人がたくさんいる。道を整備したおかげで物流が良くなり異国から多くの物資が入るようになった。人が動くようになれば金が動く、そうすれば仕事が生まれ人々は働くようになる。働けば金が得られ、再び金が動く。この流れが続く限り人口は増え、国は栄えるんだ。」
翠明は再び、孫文の仕事は何なのだろうかと思う時があった。
城勤めの書官にしてはあまりにも全体が見えている気がした。しかし、毎日あれだけ多くの書に目を通し、返事を書き続けているからこそ知りえる事もあるのかもしれないとも思った。翠明は、自分は書官孫文以外についてあまり知るべきではないと思っていた。
しばらくは石作りの道と活気ある町を歩いていた。それがしばらくすると歩いている人の数が減り始め、静かになりはじめる。翠明には賑わいや音は聞こえないが、人々の表情が少し違う気がした。何と言うか、皆厳かだった。
清爛が角を曲がり、翠明もそれに伴って曲がる。そして翠明は驚いた。そこには丘に沿った階段があり、頂上には寺があった。
翠明は清爛を見るが、清爛はそのまま階段に向かい歩きだす。翠明は手を引かれるような形になりながら共に歩いた。すれ違う人は皆挨拶をした。その表情は穏やかで優しげだと翠明は思った。長い石階段を上がり、開けた正面は意外にも緑が多いいと翠明は思った。小さな池があり、そこには弧を描いた石の橋が架かっている。その奥にある建物は決して大きいものではないが白い壁に臙脂色の扉が開け放たれていた。
しばし状況を理解するのに時間がかかる翠明を他所に、清爛はどんどんと歩いて行く。そしてその建物の中に入った。その建物はひっそりとしていると言う方が正しいと翠明は思った。建物奥にはご本尊があり、木製の大きな仏像が穏やかな顔で立っていた。
清爛がその正面で足を止めると、翠明も自動的に止まることになる。清爛はゆっくりと翠明から手を放し、ご本尊に手を合わせた。翠明もそんな清爛を見て、同じように頭を下げる。
目を開けて改めて周囲を見渡せば何人か人がいて、同じ様に頭を下げている人、香を備えている人、念仏を唱えている人など様々だった。香の煙は真っ直ぐに上へと伸び、空気は乱れておらず静かだった。
とても落ち着く建物だと翠明は思っていた。それと同時に、寺にきちんと参りに来た事が過去にあっただろうかと思いだしてみる。記憶を辿る限りないのではないかと翠明は思っていた。
清爛は隣にいる翠明を見た。目を細めて仏像を見上げる翠明、その姿はとても静かだと思った。清爛はそんな翠明の手を握って再び歩き出す。翠明はそんな清爛に引っ張られるようにして本堂から連れ出された。
楽しそうな清爛の表情、それはここが寺であることを思うと少々場違いにも感じられた。
二人は池を渡り寺を回って日当たりのいい一角へと出た。そこの縁は他よりも輝いていて、陽の光を強く浴びているのだろうと翠明は思った。きちんと手入れされている木々、美しく咲き誇る花々、飛び回る蝶の姿はまるで桃源郷のようだった。そんな庭の中を清爛は翠明の手を引いて歩いてゆく、その足はどこかを目指している様だった。
しばらくそんな木々の間を歩き、視界に入った光景に翠明は思わず足を止めた。それに気が付いた清爛もまた足を止めて、翠明を見る。
翠明は驚いたような表情で正面を見つめていた。
そこはちょうど庭の奥で、背景にはそびえる石の山。緑の葉を付けた木は真っ白い柔らかな花を付け、しなやかに揺れていた。それは純白の百日紅だった。
清爛は翠明の手を引いて歩くように促す、翠明はそんな手に引かれて木の元まで歩いた。
驚きの表情で清爛を見つめる翠明。清爛は誇らしげに笑った。
「やっと見つけたんだ、白い百日紅。」
嬉しそうに笑う清爛に、翠明はこの日までの逃走の理由を知った。そして、ため息をついて、笑った。
「住職に聞いたが、やっぱりこの木は日当たりが良くないとダメらしい。あの庭には植えられないな。」
まるで水墨画のようだと翠明は思った。青い空に背景の勇ましい山、天空の庭に柔らかく揺れる白い百日紅、今自分が見ている物を切り取って永遠に残しておくことが出来たのならどれほど美しいだろうと思った。
そして、この景色を駆け抜ける風の音を聞くことが出来たのならどんなにいいだろうかと翠明は思った。
翠明は清爛に頭を下げた。
「最近よくいらしてますね。」
背後らかかる声に清爛は振り向き、それを見た翠明も振り向いた。
そこには仏門に身を置いているだろう男性が立っていて、手を合わせて頭を下げた。清爛と翠明も同じように頭を下げる。
「ここの住職だよ。」
清爛は翠明にそう伝え、翠明は再び深く頭を下げた。
「この方がこの花を探していた理由ですね。」
「そうです、白い百日紅に特別な思いがある様だったので。」
清爛はニッと翠明を見て、翠明は小さく首をかしげる。
「住職、この花の枝をいくつか切ってもらえないか、持ち帰りたい。」
そんな清爛の言葉に、翠明は咄嗟に清爛の着物の袖を引いた。それに気が付いた清爛は翠明の顔を見る。翠明は首を横に振っていた。
「部屋に飾らないのか?」
翠明は首を振って、清爛の手に字を書いた。
【いりません】
「なぜだ?持ち帰ったら毎日見れるじゃないか。」
【この花は、ここで咲くから美しいのです】
清爛が首を傾げ、翠明は字を書き続けた。
【切った花はやがて枯れて朽ちます。しかしここで咲いていれば、いずれ実を付け次の世代につながるでしょう。根を張り生きているからこそ美しいのです】
「・・・そうか、」
二人のやり取りを見ていた住職は、翠明の耳が聞こえないことを悟る。そしてこの二人の高い教養と、その関係性を悟った。
「あなた方は身分の高い方なのですね。」
その言葉に清爛はハッとした顔をして住職を見る。翠明にはそんな住職の言葉は聞こえていなかった。
「なかなかここに来る事が叶わないご身分なのですね。」
言葉に詰まる清爛に、翠明は首を傾げた。
「百日紅はその名の通り、長きにわたって咲く花です。季節が変わっても尚咲いている事でしょう。そしてまた来年も花を咲かせます。ぜひまた、見にいらしてください。」
住職はそう言うと頭を下げ、その場を去って行った。
どこか名残惜しそうに百日紅を見上げる清爛、そんな清爛を見て翠明は優しく微笑み、清爛の手を取った。
【また来ましょう、ここに来ればいつでも見る事が出来るのだから】
優しく微笑む翠明を見て、清爛もまた、優しく微笑んだ。
「そうだな、」
行きと同じように翠明の手を引いて清爛は歩いた。行きとは違い翠明も周囲の目を気にすることはなくなった。徐々に人通りが増えて来た事で、町に入ったことが翠明にも分かった。
突然清爛は道を曲がり、行きとは違う道を歩き始める。翠明はそんな清爛に手を引かれたまま、ただ付いて歩いた。
しばらく歩くといい匂いがしてきた。どうやらこの辺りは飲食店が多く、先ほど歩いた商人たちの道とは違う様だった。昼から酒を飲んでいる者、道に出ている椅子に座ってお茶をしながら将棋をする者、決して裕福そうではないけれど楽しそうな人々の暮らしが見られる通りだった。
清爛は翠明の手を引いたまま一軒の屋台の前で止まった。屋台には数種類の饅頭と野菜や肉が積まれている。
「おぉ丹任、久しぶりだな!生きていたか!」
「まぁね。」
清爛はへらっと笑って見せた。
「おい、なんだお前!すごい綺麗な女連れてるな!」
「まぁね。」
清爛はそう言って、翠明を見た。
「あぁぁぁ!そうだ!お前見受けしたって噂が出てたけど、まさか・・・」
「さぁ、どうだろね。」
清爛は笑った。
のらりくらりと会話をするのがいつもの丹任だった。
「いつもの、2つ。」
清爛はそう言って貨幣を台の上に置いた。それを見て屋台の男は本来の仕事を思い出し、蒸籠を開ける。
「お前さんもとうとう落ち着くのか、」
「どうだろうね。」
「家族を持つのはいいぞ、にぎやかになる。」
「うるさいって言っていたじゃないか。」
「そらぁ、かぁちゃんはうるさいさ。」
男は大きな声で笑った。
「子供はいいぞ、お前ら二人ならさぞかわいいのが生まれるだろうよ。中身はお前に似ない方が良いな。」
「ひどい言われ様だ。」
清爛と男は笑う。翠明はそんな二人の会話を読んで把握していたが特に何も感じてはいなかった。楽しそうに町の人と会話をする清爛を見て、翠明はまた違う一面を見た気がしていた。
「ほら、食っていきな。」
男は竹の皮に饅頭を乗せ一つを清爛に、もう一つを翠明に差し出した。翠明はそれを受け取り頭を下げる。
「口がきけないのか?」
「いや、耳だよ。」
「そうか、そりゃ災難だな。」
「そんなことないさ。」
清爛は明るく笑う。
「じゃ、ここ借りるよ。」
清爛は屋台横にある椅子に腰かける、翠明も清爛に続いて横に腰かけた。何もためらうことなく饅頭を口に入れる清爛を見て翠明は少し驚いた。翠明は、孫文と言う男は少なくともある程度の位がある男だと思っていた。そんな人間が、他人が作ったものを何もためらいなく口に入れる行為はとても勇気がいる事だろうと思った。そんな困惑気味な翠明を見て、清爛がわざとらしく声をかける。
「毒なんて入ってないぞ?」
「バカヤロー!毒なんか入っているわけねーだろ!」
翠明の背後から男が叫ぶ、その声に翠明は気が付かないが清爛は手を上げて男に答えた。
「怒られた。」
清爛はそう言って、翠明に笑った。
そんな清爛の表情を見て翠明はハッとする。
何事もないかのように食べ続ける清爛、翠明も同じように口にした。饅頭の中には挽いた肉と野菜が入っていた。一般の町人がよく食べるごく普通の饅頭、翠明はすごく久しぶりに食べた気がした。
「うまいだろ、」
翠明はうなずいた。
「たまにこうして町に出て、安い酒を飲んだり屋台に行ったり、ぼーっと座って人の流れを見てるんだ。ちょっとした楽しみなんだよ。」
机に肘を付いて目の前を歩く人に目を向ける清爛、その表情は柔らかくとても穏やかだと翠明は思った。
「ひどい時は半日ぐらいただぼーっとしてることもあるよ。」
遠い目をしている清爛を見て、彼にとって城の中はさぞ騒がしいのだろうと翠明は思った。
機密文書ばかりに目を通し、検疫を行い、国家に関わる様な内容を読み書きする仕事は思いのほか負担が大きいのだろうと翠明は思った。たまにふらりと町に出るのは、書官孫文という役を捨てて自由になりたいと言う一種の息抜きなのだろうと翠明は思った。そう思うと、孫文の町遊びを止めることは出来ないと思った。
「さっ、あまり遅くなると吏志がうるさいから帰るか!」
清爛はそう言って、再び明るい表情で翠明の手を掴み歩き出した。
相変わらず裏口からではあるが隠れることなく堂々と城に戻り、二人は部屋で服を着替えた。その姿はもう書官孫文と書官翠明だった。
「お帰りなさいませ、楽しかったですか?」
吏志がため息交じりに笑った。
「仕事は明日まとめてやるから許してくれ。」
「大丈夫です、そのつもりで溜めていますから。」
そんな笑顔の吏志に清爛は目を閉じた。
「翠明様、今日はたくさん歩かれてお疲れでしょう、お部屋でゆっくりお休みください。」
吏志の言葉に翠明は頭を下げ、部屋へと戻った。
その夜、清爛は翠明の部屋の戸を開けた。
翠明は灯を付けたまま寝ていた。
音の聞こえない翠明は当然だが清爛が来たことに気が付かない、清爛はそっと部屋に入った。静かに穏やかな表情で寝ている翠明を見て、清爛は部屋を去ろうと静かに振り返る。その時、机の上に数枚の水墨画があるのが目についた。
いつもの半紙に書かれたその水墨画は、岩山と花の絵だった。その絵を見て清爛は、その絵が今日見た百日紅とその背景にあった岩山だとすぐに気が付いた。美しい絵だと清爛は思った。白い花は淡い墨で書かれ柔らかさを感じた。曲線で描かれた枝葉、流れるようにしかし強さを感じる岩山。翠明の絵の才は確かだと清爛は思った。
あの時、白い百日紅を見つめていた翠明はとても美しかったと清爛は思った。風に揺れる白い花と漆黒の髪、力強い岩山と吸い込まれそうな程透き通った青い空。その景色を一枚の絵として残すことが出来たのならどんなにいいかと清爛は思っていた。
清爛は筆を執り、翠明の水墨画に詩を書いた。
【痩せた地に逞しく咲き誇りし美しき白き花 汝と再びめぐり逢い、共に生きる時を我は喜ばん】
清爛は灯を消して、そっと部屋を後にした。
翌朝、翠明と清爛はいつも通り書斎に来て書に目を通す。吏志がお茶の準備の為に部屋を出た後、翠明は立ち上がり清爛の前に立った。
「どうした?」
翠明はいつも通り、水で文字を書く。
【孫文様は詩がお上手なのですね】
「あぁ、昨日の落書きか。」
清爛は笑った。
「お前の絵があまりに上手かったから、落書きをしたんだ。」
【お恥ずかしい限りです】
「絵を描くのか?」
その問いに翠明は照れながらうなずいた。
「今夜、部屋に行っていいか?話がしたい。」
翠明は清爛の顔を見つめ首をかしげるも、頷いた。
夜、清爛は翠明の部屋に行った。ちょうど翠明はお茶を入れている所で、清爛に頭を下げた。清爛は椅子に座り、翠明がその前にお茶を置き、自身はいつものように清爛の横に座った。
「昨日の絵は?」
そんな清爛の言葉に翠明はどこかためらいがちに立ち上がり、数枚の絵を清爛に見せた。
「いい絵だな、」
清爛はまじまじと絵を見る。その中でもやはり、自身が詩を入れた絵が一番いいと思った。
「幼いころから絵を?」
翠明はその問いに答える様に筆を執った。
【耳が聞こえないので、歌も踊りも楽器もできません。妓女として生きるつもりでしたから芸事は必要です。しかし私にはそれが出来ないので、碁や将棋や絵を教わりました】
音が聞こえない世界とは、そう言うものなのかと清爛は改めて思った。当然の様に会話が成立しているためにともすれば忘れてしまいそうになるが、翠明には自分の声も、風の音も鳥の歌も水が流れる音さえも、何も聞こえていないのだと思い返した。それがどれだけ孤独なことだろうか、清爛は自分ならこんなに強く生きていないだろうと思った。
幼き翠明に誰かが側で寄り添ってくれていたからこそ、ここまでの教養が得られたのだ。
「いい絵だと思う、こんな事ならちゃんとした紙を準備しておくべきだったな。」
【十分です】
翠明は首を振った。
「文字と言い、読唇術と言い、この絵と言い、さぞ努力したのだろうな。」
翠明は幼き頃を思い出していた。
母や妓女達は優しかったと記憶していた。幼き頃の記憶は決して悪いものではなかったと翠明は思った。
【孫文様】
「なんだ?」
【昨日は、ありがとうございました】
翠明はそう言って頭を下げる。
【白い百日紅を見る事が叶うなどとは思っていませんでした】
「結構探したんだぞ?持ち帰れなかったことは残念だが、また見に行けばいいな。」
清爛はそう言って笑う。翠明はそんな清爛の優しさに心が動く。
【ぜひまた連れて行ってください。あの寺にも、町にも】
「あぁ、もちろん、」
ひとしきり話をして清爛が知った事、それは翠明がごく限られた世界でしか生きていなかった事だった。妓楼と花街しか知らない翠明、あのままあの場所にいたのなら翠明はこの世界のほとんどの事を知らないでその人生を終えてしまっていたのだろうと思った。町を歩くことも、買い物をすることも、ごく普通の庶民が食べる様な物さえも口にすることさえなかった。
「なぁ、翠明?」
清爛は翠明を見上げる様に見つめ、翠明は首をかしげる。
「ここに来て、良かったか?」
その質問に翠明は目を丸くする。そしてしばらく考えたような様子を見せ、笑った。
【悪くなったとは思っていません】
その言葉に清爛は、翠明らしいと思い、笑った。
「この絵、もらっていいか?」
【どうなさるんですか】
「部屋に飾る。」
翠明は赤い顔をして慌てた。
「そんな顔をしなくてもいいだろ、俺は気に入ってるんだから。」
清爛は笑う。
「今度は大きな紙で頼むよ、掛け軸みたいなのでもいいな。」
【嫌です】
翠明はきっぱりと断り、二人は笑った。
後日、吏志は清爛の部屋に物を取りに来た時に一枚の飾られた絵を見た。
「これは、百日紅・・・?」
美しい絵だと吏志は思った。そして、その横に書かれた詩を読んで、誰の絵かを悟った。
「さしずめこの花は、翠明様なのでしょうね。」
吏志は、この場に清爛がいたらちょっかいをかけてやろうかとも思ったが、なんだか可愛らしく思え、きちんとした額を用意しようと思い部屋を出た。




