序章 彼女と彼 始まりの話
底が見えない、深く吸い込まれるような……透き通った水面。
潮の香りが鼻先に纏わりつく。青々と生い茂った新緑の林道の山間部に、
綺麗に積まれた石段が迷い子を誘うように上へと伸びていた。
その頂には、古ぼけた白い縄で飾られた門があり。
緻密に敷かれた藍の瓦で化粧された……古ぼけた社があった。
「ったく――じいちゃん……どこ行った……困ったな……ここはどこだ……?」
その石段の下、一人の青年が迷子になっていた。
帰省のおり、祖父に連れられ海辺を散策をしていたが、肝心の祖父が忽然と居なくなったのである。まだボケる歳でもないだろうに……そう心の中で悪態をつきつつ。
「でも、不思議な場所だな。あと、懐かしい。そう感じるのはなぜだろう?」
彼はここに初めて来たはずなのに、懐かしい場所だと肌で感じていた。
『ガサッガサッ……』
祖父の姿を新緑の瞳で探っていると、近くの木々が騒めくように彼を石段へと誘ってくる。
何か……いるのだろうか?
彼は、音がする方へと足を運び、恐る恐る覗き込む。
「この時期だと、熊か……? いや、こんな敷地内まで来るような寝ぼすけはいないよな。よし……ここは誘いにのってやろうじゃないか」
それに導かれるように、一歩……また、一歩と石の段を上ってゆく。
この胸から湧く期待感で、段を上る彼の足取りは軽くあっというまに頂きへと辿り着く。
辿り着いた場所には……
白く滑らかな絹を基本とし、赤い装飾で煌びやかに着飾った巫女服の女性がいた。
彼女は片手に神具を持ち、社の前で跪き神へと祈っていた。
ふと、人の気配に気付き夜空のような漆黒髪を靡かせつつ、彼の方へと向き直る。
全てを見透かすような澄んだ瑠璃色の瞳で見つめ、
彼女は一瞬口元を緩めた後――笑顔で彼に問う。
「――あら? 君、この辺りの子じゃないよね。もしかして迷子かしら?」
彼は彼女の神秘的なこの世のものではないような美貌に一瞬、見惚れてしまった。
「・・・僕は、迷子じゃない。その……土地勘がないだけだから」
『祖父と逸れてしまった』なんてとてもじゃないけれど、かっこ悪くて言えるわけがない。
「――ふふ。そういうことに、しておいてあげましょうね」
彼へと疑いの目を向けつつ、彼女は悪戯っぽく笑う。
「……あのさ。ここは何の神様を祀っているんだ?」
『何で神様の話なんてしたんだろう?』
彼は疑問に思ったけれど、自然と声に出して彼女へ問うていた。
「――う~ん。話が長くなるけれど、それでも構わないかしら?
古い話譚があってね。その話譚に、この場所の神様が関わっているのよ」
そう、彼女は付けたした。
「まぁ…じいちゃんの家に帰ってもすることないし、暇だし聞いてやるよ」
そうは言っているが、彼女ともっと話がしてみたい。
そんな……下心が有ったり無かったり。
黒茶の髪を右手で掻きつつ、彼女の顔を横目でちらっと盗み見をしつつ……
察したのであろう彼女は、一瞬、眉根を引きつらせ怪訝そうな瞳を向けたが、
息を呑みこんだ後、瞼を深く閉じ、再び彼を瑠璃の瞳で真っすぐに見据え、語る。
「――この物語は、今よりもずっと……ずっと……遠い昔、人と妖が存在した時代。妖を狩る獣士の家系、桔梗の花の名をもつ少女の生き様である」