閑話 出陣前夜
話が前後しますが、三章三十五話の少し前のお話になります。
この日の午後、トゥーレはリーディアの部屋を訪れていた。
珍しく時間があるとの事で、午後のお茶の時間を馬場に面したテラスで一緒に過ごした後、そのまま彼女の部屋で夕食を共にした。
このところ会談や会食の予定の入っていない時は、リーディアを見舞いに訪れる事が増えていた。それでも半日近くも予定が空くという事はなく、場合によっては顔を見てすぐに帰るという事もあった。
彼が訪れる際には必ずと言っていいほどエステルが先に訪れているため、余り二人で過ごすという事態はなかった。
だがこの日は珍しくお邪魔虫はいなかったため、久しぶりに二人でゆったりとした時間を過ごしていた。
リーディアも二人きりの時間とあって普段よりも笑顔を見せては、よく笑いまたよく喋っていた。
その楽しい時間も終わりを迎えていた。
「明日から少しこの街を離れる」
食後のお茶の時間が過ぎ、『次は何時来て下さいますか』とリーディアが次の予定を尋ねた時だ。
少し迷う素振りを見せたトゥーレが、『暫く来られなくなる』と告げた後に続けた言葉がこれだった。
「サトルトですか? それともカントでしょうか? 何時頃お戻りになるのでしょうか?」
「一カ月になるか半年になるか、ちょっと次が何時になるかは約束できないな」
最初はいつものお出掛けかと思い、気軽に帰還日を尋ねていたリーディアだったが、トゥーレは先程までと違って言葉少なに曖昧な返答しかしない。
「どういうことでしょうか? っまさか!?」
トゥーレの返答を不思議そうに聞いていたリーディアだったが、不意にその意味を察し、目を見開いてトゥーレを見つめた。
「くくっ、流石リーディアだ。もうバレてしまったか」
彼女の勘の良さに苦笑を浮かべたトゥーレだったが、誤魔化すような事はしなかった。
「まだ早いのではないですか?」
ネアンがストール軍に占領されて一年近く経ち、サザンの街ではドーグラス本人の出陣時期が何時になるのかが商人たちの挨拶代わりとなっていた。
しかし実際に動きがあれば大騒ぎとなるだろうが、現状ではどれも噂話レベルでしかない。当然ながら彼女もドーグラス出陣の噂を耳にしていたが、彼女が聞いた範囲でもあくまでも噂の域を出なかった筈だった。
「すまないが人払いを頼む」
リーディアの問いに急に真顔になったトゥーレは人払いを頼んだ。
未婚の男女を二人きりにする事に抵抗があったセネイたちだったが、婚約者という事とトゥーレの思い詰めた様子に、渋々だったが二人を残して部屋を出て行く。
それまで笑みを湛えていたトゥーレだったが、二人になった途端に顔から笑顔が消えた。
「これはまだ誰にも言わないで欲しいんだが」
そう前置きしてから語られた言葉に、リーディアは思わず言葉に詰まった。
「昨日、ストール公がトノイを発ったとの報告が届いたんだ」
「っ!? まさか・・・・」
鉛を飲んだかのように腹の底に重い何かが沈んでいく感覚に襲われた。
人払いしてまでトゥーレが嘘や冗談を言う人物ではない。こうして口にした以上は確実な情報なのだろう。だからリーディアは真偽を確認などはせず静かにその先を促した。
「もちろん行き先はここだ。ご丁寧に盛大な観兵式までおこなったそうだから確実な情報だ。
こうやって人払いしたところで恐らく数日の内には街中に伝わる事だろう。そうなれば街も色々と騒がしくなるからね。その前に俺はここを出ようと思うんだ」
トゥーレが何年もかけて戦いの準備をおこなっている事はリーディアも知っていた。
彼女自身は目の不調もあって動く事ができなかったが、サトルトの軍事拠点化やカントの要塞化などはトゥーレから直接聞いていたからだ。
「準備は終わっているのではなくて?」
「大体はね。だけどやれる事は全てやっておかないと後悔するからね」
今から慌てて準備したとしても最短で十日、最長でも一ヵ月ほどしか時間が取れないだろう。現在準備中のものはともかく、今から新たに準備したところで戦いに間に合わせる事ができるとは思えない。それでもジッと待つよりも動く事を選んだ。トゥーレらしいといえばトゥーレらしい回答だといえた。
だが見送るリーディアにしてみれば、これが最後の別れとなるかも知れないのだ。余りにも突然すぎて気持ちの整理が追いついていかなかった。
「もう・・・・、戻られないのですか?」
震える声でリーディアが尋ねる。
「そうだな。戦いが終わるまで戻れないと思う」
流石のトゥーレもこの時ばかりは苦渋の表情を浮かべた。
二人とも言葉を濁しているが、戦況によってはこれが最後の逢瀬の機会と分かっているのだ。
「そう・・・・ですか。死なないでくださいね」
リーディアは潤んだ瞳でトゥーレを見つめた。
その視線を正面から受け止めるが、居たたまれなくなったトゥーレはすぐに視線を逸らしてしまう。
「もちろん最後までじたばたと足掻くつもりではいるけれど、相手はあのストール公だ。約束はできないな」
できるだけ軽い口調を心がけて、トゥーレは冗談めかすように肩を竦めてみせる。
長い時間をかけて戦いの準備を重ねてきたが、それでも大きく違う彼我の国力差を覆す事など不可能だ。大勢力であるドーグラスとは何回、何十回と戦っても勝てる筋などないのかも知れない。
リーディアの気休めとなるような大言を吐く事はできた。しかしそれでもトゥーレは安易に勝てるとは口にできなかったのだ。
「トゥーレ様っ!」
「リ、リーディア!?」
我慢できなくなったようにリーディアがトゥーレの胸に飛び込んできた。
驚いたトゥーレが戸惑った声を上げるが、彼女はトゥーレの胸に顔を埋めたまま肩を振るわせる。
「・・・・リーディア」
震える彼女からトゥーレを案ずる気持ちが痛いほど伝わってきた。
「っ!」
トゥーレは思わず天を見上げていた。
天井を見ていなければ、溢れた涙で彼女を濡らしてしまいそうだったからだ。
どれだけそうしていただろうか。
トゥーレは優しくリーディアを抱きしめていた。
「・・・・死なないでください」
顔を上げたリーディアは真っ赤な目で、静かに言葉を紡いだ。そして顎を軽く突き出すようにして瞳を閉じた。
その意味するところをトゥーレはすぐに理解したが、彼はそれに応える事はできなかった。
「・・・・すまない」
未練を断ち切るように謝罪の言葉を口にしたトゥーレは、リーディアの額に軽く唇を押し当てると、次の瞬間には静かにそして素早く部屋を出て行くのだった。
「トゥーレ様っ!」
虚を突かれたリーディアが慌てて右手を伸ばすが、その手は虚しく空を切る。
急速にトゥーレの体温が失われていく中、閉じられた扉の前で一人残された彼女は呆然と立ち尽くしていた。
「うっ・・・・トゥーレさまぁ・・・・」
再び涙が止めどなく溢れ出し彼女の頬を濡らしていく。
嗚咽を抑えようと口元に手を当てるが、高ぶった感情はそんなものでは抑えることができない。
トゥーレの名を口にすれば、トゥーレへの感情が更に込み上げてくる。
やがて立っていられなくなり、その場に崩れ落ちるようにしていつまでも泣き続けるのだった。
ドーグラス出陣の報が伝わり、街や領主邸が騒然となるのはその翌日の事だった。




