37 開戦(1)
ドーグラスがエンを越えてネアンへ入ったのは、本来ならサザンで春の市が開かれていた時期だった。
事前に中止が決まっていたためそれによる混乱は見られなかったが、サザンに残った人や避難が遅れた商人たちが、心配そうな表情を浮かべて話し合う様が其処彼処で見られた。
一方ネアンでは息子のクスターと共にネアンの城門を潜ったドーグラスが、長旅での疲れも見せずに出迎えた兵たちに笑顔で手を振っていた。
その総兵力は公称で十万とも十五万とも言われ、ネアン市街に入りきらない兵士が城壁の外にも溢れる程だった。
「長旅お疲れ様でございます。閣下」
「うむ、カモフは遠いな。流石に腰が痛いわ」
出迎えたヒュダとジアンにそう言いながらも、言うほど疲れた様子を見せず、大きく突き出た腹を揺すりながら終始機嫌良く幕僚たちに対応していた。
「しかし、このような辺境にまで閣下が出向くことはなかったのではないでしょうか? 現にトルスター軍はネアンの港を焼き討ちした以外はまともに戦おうともせず、砦に籠もったまま出て参りません」
「先代トルスター公が健在だった頃ならば、勝てぬと分かっていてもネアンを取り返そうという気概があり申した。しかし後を継いだ金髪の小童は、カモフ内をウロウロとするものの、兵を出そうとする気配すら見せません。ヒュダ様が仰った通り閣下のお手を煩わせるまでもないのでは?」
ヒュダがカイゼル髭を揺らし、ジアンも同様に今回のドーグラスの遠征に疑問を呈した。
戦力は圧倒的だとはいえ、現状では執拗な夜襲に悩まされている状態だ。
サザンまでの道中も大軍での行軍に向かない箇所があり、二列にも並べずに進まなければならない難所もある。
ドーグラス自身が出陣することで味方の士気が上がり、相手に与える重圧は尋常でないだろうが、ジアンはドーグラスの今回の遠征は余りに拙速に思えたのだ。
「其方ら、閣下のお決めになられた事にもの申すのか!?」
「イ、イグナーツ様! その様なつもりは・・・・」
「ならば異を唱えたのは何故だ!」
ドーグラスの傍に控えていた壮年の偉丈夫が、一歩進み出ると大音声で二人を一喝した。
周りに居並んでいる幕僚たちが怪訝な視線を向けているのは、怒声を発した騎士ではなく意見した二人に対してだ。
イグナーツはがっしりとした体格の大男だ。
左目は黒い眼帯で保護してあるが、これは初陣で左目を失ったもので、その際に負った傷痕が顔の左半分に生々しく残っていた。
彼は赤味のある頭髪を逆立てながら二人を睨み付けていた。
十代の頃より将来を見込まれてドーグラスに重用され、数々の戦場で戦功を立ててきた。年は三十六歳と若いがストール軍屈指の歴戦の騎士で、その容姿から『隻眼の虎』という異名を持っていた。
「イグナーツ。よい、構わぬ」
今にも殴りかからんとするイグナーツを止めたのはドーグラス本人だった。
彼は見世物を見物するように目を細めて笑みを浮かべながら彼を止めた。
「ヒュダとジアンの二人にはこの一年、辺境のこの地で苦労を掛けた。今回儂自らこの地に来た理由は主に三つある。
まず其方ら二人を儂が直接労おうと思ったのもひとつだ。またこの辺境にあってアルテミラの財政を支えるほどのカモフの地をひと目見たかったのがふたつめ。そして」
そこで一旦区切ると、表情が醜く歪んで顔を紅潮させた。
「三つ目は残念ながらザオラルは先年戦没してしまったが、長年抵抗し続けたこの地を儂自ら踏みにじってやろうと思うたまでじゃ」
そう言うと酷薄な笑みを浮かべて嗤う。
その顔は幕僚たちでさえ背筋が寒くなるような歪んだ笑顔だった。
「このヒュダ、第二軍を与ったからには、必ずや閣下のお役に立って見せましょう」
異様な空気の中で、いち早くヒュダがドーグラスの言葉に感動したように自慢のカイゼル髭を震わせる。
「うむ。貴様には期待している。頼むぞ!」
「お任せを! 必ずや金髪の小童の首を御前にお持ちいたします」
ヒュダはそう言って自信に溢れた顔で頷くのだった。
ドーグラスとの対面を終えて御前を辞したジアンの隣に、変わらず高揚した様子のヒュダが並んで歩いていた。
その彼が難しい顔をして黙り込んだままのジアンに声を掛ける。
「ジアン様どうされた? 先程から押し黙ったままではないですか?」
「ヒュダ、我らがトノイを発った一年前に比べて、皆の雰囲気が変わってないか?」
「変わる?」
「何というか上手く説明できんが、閣下を中心とした雰囲気は変わらぬが、それがより強くなった様な気がしたのでな」
直言を避けたがジアンはドーグラスが不可侵な存在として扱われているように感じていた。以前はドーグラスが決めた事に対して反論できる雰囲気があったが、今はそれすら一切許されない雰囲気で言わば不可侵な状態となっていた。
「はて私は逆に好ましく思いましたが? どちらにせよ閣下の権力が強化されるということは、将来の玉座に近付いているということ。それの何処が問題なのでしょうか?」
「・・・・そうだな」
ヒュダの言葉にジアンは短く答えた。
ジアンの懸念をヒュダは問題視はしていない様子だ。
それどころか王を目指す上では好ましい変化だと受け取っているようだった。しかし彼の言葉を聞いてなお、ジアンが納得した訳ではないことは表情を見れば明らかだった。
そんな彼を見つめたヒュダは軽く息を吐く。
「ジアン様が何を懸念されておられるのかは私には分かりかねます。ですがこのカモフを獲ればいよいよ閣下の王への道筋が現実的なものになってくるでしょう。そのような大事な折に些末なことに煩わされている時間はございません。今は閣下の偉業を達成するために我ら一丸となって事に当たる時ではありますまいか」
家族と離れ、見知らぬ地での一年に渡る滞在。
執拗なトルスター軍の夜襲にも悩まされ、想像を絶するカモフの冬の厳しさにも辟易とした。
春になり切望していたドーグラス自らの出陣だった。
懐かしさと同時にかつてのような雰囲気を期待していたのも確かだったが、違和感を覚えた雰囲気の中に漠然とした危険な空気を感じ取ったのも確かだ。それは長年戦場に立ち続けた彼にしか分からない一種の勘のようなもののため言葉にし辛かった。
彼は気持ちを切り替えるように大きく息を吐くとヒュダに向き直る。
「うむ、それは分かっている。私も久しぶりにドーグラス閣下を含め皆の顔を見て懐かしかったのは確かだ。そこでかつての雰囲気と違う事で少し不安を覚えたようだ。すまんな」
「いえ、ジアン様の不安も分かり申す。しかしこの軍勢をご覧くだされ。これだけの兵力を用意できる勢力は、この国広しといえど我らを於いて他におりますまい。この軍勢をもってカモフの谷など平らに均してくれましょうぞ! ジアン様は心安らかに吉報をお待ちください」
ヒュダは窓から見える軍勢を眺め、不敵な笑みを浮かべる。それは敗北など微塵も考えない自信に溢れた笑顔だった。
来る来る詐欺ばかりだったドーグラスが、遂にカモフの地に足を踏み入れました。




