E-039 サドリナス軍がやってきた
冷たい水で顔を洗うと、ぼんやりした頭が少しはましになる。
いくら王国軍が近づいたからといっても、どうにか周囲が明るくなっただけの早朝も良いところだ。
ナナちゃんに飛び乗られるという実力行使で目が覚めたんだけど、ナナちゃんも心配しているのかな?
顔を拭き取って後ろを見ると、心配そうに俺を見ているナナちゃんと目が合った。
「大丈夫だよ。ちゃんと起きたから。ナナちゃんは早起きなんだね」
「皆起きてるにゃ。朝方賑やかだったにゃ」
皆が起きだしている時に俺だけぐっすりと寝ていたから、ということなんだろう。
ナナちゃんなりに俺の立場を考えてくれたみたいだ。
あれほど、慌てる必要はないと言っておいたんだけどなぁ。心配性なのか、それとも戦を待ち望んでいたのか……。
二度寝するという選択肢もあるけど、とりあえず状況は確認しておいた方が良いだろう。
指揮所に向かうと、入り口のベンチに少年が3人座って投石具の革紐を手入れしている。
「「軍師様。おはようございます!」」
少年達が立ち上がって俺に頭を下げながら挨拶してくれた。
思わず自分に指を差してしまったけど、何時の間に俺は軍師になったんだろう?
「出番は午後になると思うよ。でも、俺が軍師?」
「はい。指揮官様がそう呼ぶようにと」
直ぐに出番があると思っていたのかな? でも、いろいろと策を提言しているからかなぁ? 兄上が聞いたら、どんな顔をするのだろう。
「まだまだ先ですか……」と小声で仲間と話しているのは、出番が後になると、伝令の役目が別の少年達に変わるからなのだろう。
「とはいえ、午前中はここにいてくれよ。森の南には大軍がいるんだからね」
「「はい!」」
嬉しそうに返事をしてくれた。
やはり仲間達に自慢したい働きをしたいということなんだろう。少年達の心根に笑みを浮かべながら指揮所の扉を開けた。
指揮所内を一目見て、思わず帰ろうとした自分を何とか取り戻して足を踏み入れる。
各小隊長だけでなく元開拓民のマクランさんまでもが、完全装備の出で立ちで仲間たちと大声で話しをしている。さぞかし喉が渇くに違いない。お茶のカップを手に持っているぐらいだからなぁ。
「レオンが最後ですよ。皆集まっています」
「警戒レベルは『1』でしたよね。王国軍が動いたということでしょうか?」
いつもの席に座ろうとした俺に、レイニーさんが小声で教えてくれた。
さすがにレイニーさんはまだ革鎧を着ていないようだ。バックスキンの上下に幅の広いベルトをしている。
俺が練習に使っていた銃のホルスターは付けているが、長剣は帯びていない。
「まだ動きはないようです。先ほど偵察部隊の伝令が、王国軍が朝食の準備を始めたと知らせてきました」
「今にも戦が始まるような、格好をしてますけど……」
「まだ早いと言ってはいるんですが……」
はやる心を抑えられなかったということなんだろうな。
とはいえ、今からこれでは変な意味で体力が消耗してしまいかねない。
大きく腕を上げて、ドン! とテーブルを叩いた。
大きな音がしたから、全員の視線が俺に向いた。ちょっと手が痛いけど、ここは我慢しよう。
「現状の警戒レベルは『1』だ。まだ戦になるまでに時間がたっぷりとあるし、場合によっては戦にならないこともある。
そのまま持ち場に走って戦ができる出で立ちのようだが、見ての通り指揮官も俺も普段通りだ。指揮所にいるのは構わないが、とりあえず戦支度を解いて欲しい。開拓民や子供達も、その姿を見たなら不安になるだろう」
「お言葉ですが、開拓民の部隊もすでに準備を整えて西の門に集合しております」
思わず天を仰ぐ。
それほど急ぐ必要はないんだけどなぁ。訓練ばかりさせていたのが逆効果になってしまったのかもしれない。
「とりあえず全員を配置に付ける必要はない。ワインを1杯飲ませて、解散させて欲しい。まだ時間は十分にあるんだからね。レベル『2』で現在の半数。レベル『3』で現在の状況と考えてくれ。それと、非戦闘員の避難を忘れていないか?」
俺の言葉にマクランさんが怪訝な表情を見せると、おずおずと話を始めた。
「非戦闘員というのが、解せないんですが……。嫁も子供も婆さんまでもが弓や投石具を持って集まってます」
今度はため息が出てしまった。
まぁ、小さな村だからなあ。全員が参加するというのも分かる気がするけど、さすがに老人と子供は論外だろう。
「10歳以下の子供、それと50歳以上の老人は指揮所の裏の礼拝所に避難だ。軍属の小母さんの手伝いを10人ほど出してくれよ。それと避難民の防衛は元気な老人達にお願いすれば良いだろう」
10歳ぐらいなら、ある程度指示を守れるだろう。伝令や矢やボルトを運んで貰えそうだ。子供達も3人ほどの組をいくつか作っておけば、敵兵に惨殺されることもないだろう。投石具を投げずに振り回すだけでも相手は近づけないはずだし、念の為に短槍を持たせておくのも良いかもしれない。
「ということですから、皆さんは各部隊を解散してくださいね。ただし、本日の各門守備隊は全員配置についてください。伝令を忘れずにお願いします」
レイニーさんの言葉に、いやいやながら頷いているんだよなぁ。
しぶしぶと出ていく姿を見ると何となく可哀そうになってくる。でも、今からテンションを上げていると、本番に士気が低下しそうだからなぁ。
ナナちゃんも指揮所から出て行ったけど、稚魚の様子を見てくるのかな? そっちの方が大事に違いない。
「朝から皆が押しかけてきたんです。ナナちゃんに起こしてもらうよう頼んだんですが」
「たまには早起きしても、大丈夫ですよ。そうなると、皆の食事は済んでるってことですか?」
「レオンはまだでしたね。すぐに用意させますから、ここにいてください。また、気の早い人達がやってこないとも限りません」
レイニーさんの隣にいたお姉さんが、俺に小さく頷いて指揮所を出て行った。余計な仕事をさせてしまったかな? でも、朝食は大切だからなぁ。昼食は抜いてもあまり問題はないけど、今日1日の活力源だからね。
「今度の使者もレオンが対処するということで、良いんですよね?」
「権謀術策の王宮からやってくるぐらいですからね。最初は容姿を見に来ただけでしょうが、今度は強気で来たようです。俺達がここで暮らせるよう頑張るつもりです」
兄上からいろいろと聞かされたからなぁ。ほんのちょっとした譲歩が身の破滅を招くというんだから恐ろしい連中だ。
『そんな連中に限って剣の腕は全くダメなんだ。一応、剣を下げてるんだけどね。自分は相手より頭が良いと思っているんだろうなぁ。レオンも王宮の連中と話し合う時には用心するんだぞ。自分で妥協点を作ろうとするのではなく、自分の妥協点に達するまで相手を誘導するようにすることだ。それが出来なければ、優秀な副官を見付けることだ』
兄上の事だから、副官は武官ではなく文官を選んだかもしれないな。だけど兄上は剣の腕だけで今の地位に上ったわけでは無い。学業も立派に修めている。本当に優秀な兄上だと今でも尊敬しているんだが……、上手く嵐を乗り越えているんだろうか。
副官のお姉さんが用意してくれたハムサンドを食べ終えると、パイプに火を点けながら冷めたお茶を飲む。
やはりお茶はあまり冷えるとおいしくないな。
そんなことを考えていた時だった。
いきなり指揮所の扉が開き、ハァハァと息を整える少年が大声を上げた。
「馬車と騎士が森から出てきました。後ろにはたくさん兵隊が付いてきます!」
「警戒レベルを『2』に上げます!」
「待機だけですよ。まだ配置はしないでも大丈夫です」
さて、あまり待たせると碌なことにならないだろうから、出掛けてみよう。
南門に向かって歩いていくと、門の内側の広場にテントが作られている。テントといっても、板張りの屋根の下に天幕を張っている。ちょっとした矢対策なんだが、厚さは親指ほどもあるから刺さっても貫通することはない。
3つほど作られているのは、常設の休憩所に入ることができない場合の措置だろう。
備えは必要だ。どんな事態になるか、現状ではまるで分からないからね。
「もう直ぐやってきますよ。のんびりとした歩みです」
「余裕があると見せたいんだろう。とりあえず盾に隠れることができる人数を上げといてくれ!」
「ですね……。直営部隊以外は下に下りるんだ! エニル、後を頼んだぞ」
エルドさんの指示に、ぞろぞろと軽装歩兵達が下りてきた。これで俺も登れるだろう。一応3個分隊が隠れるだけの盾を置いてあるが、焦っていると同じ場所に入ろうとするからなぁ。少し多めに置いてあるから焦る必要はない。
それにしても遅い歩みだ。
少し進んでは俺達の状況を見ているからなんだろうけど、さっさと王宮の出した案を俺達に提示して欲しいんだけどなぁ。
やがて、門から30ユーデほど先に馬車が止まる。
後ろを付いてきた兵士が馬車の扉を開けて、階段を取り付けている。
前にやってきた人物より高位の貴族ということなのかな? 後ろに付いてきた兵士は1個小隊ほどだ。このまま戦闘になっても、広場の兵士達の数を合わせると俺達も同数だからなぁ。簡単に撃退できるだろう。
下りてきたのは、2人の貴族だ。
さすがに彼らだけを中に入れることは向こうもしないだろうから、ここで話合うことになるだろう。
馬車から降りてきた2人を見ていた騎士が、1騎だけ張り出した門のすぐ近くに馬を寄せてきた。
「サドリナス王国の宰相補佐を務めるベルナル侯爵であられる。頭上から出迎えるのはいかがなものか?」
「開拓村の代表補佐のレオンだ。別に問題はない。王国と我等は主従の関係を持っていない。どんな人物であろうとも、我等とは対等である。さらに兵を率いてやってくるものに対して出迎えを期待するということは、我等を下に見ているのか?」
兜の面皰を上げていないから、騎士の素顔を見ることができないけど、かなり怒っているに違いない。手綱を持つ手がプルプルと震えているのが分かるぐらいだ。
すぐに頭にくるような人物では、交渉などできないと思うんだけどなぁ。
馬車の近くで、何やら騎士と貴族が話をしているようだ。
すぐに騎士が馬を寄せてくると、返答に窮しているすぐ下の騎士に話を始めた。
何度か頷いているところを見ると、次は後ろの貴族ということになりそうだな。




