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その9 おれはオノレランドに帰ってきた。

   ◆


 また、少しだけ、昔語りをさせてくれ。

 横山田のせいで反吐がでそうだ。


 ああ、寒気がする。汗をかいているからには、熱があるのだろう。どうやらおれは、人生を踏み外したと思しきあの時期について話す時がきたような気がする。そうすることで横山田の吐きかけた毒を中和できるとは思わないが、いくらか気晴らしにはなるだろう。もしならなければ、その時はその時だ。


 中学生の頃、勉強も体育も可もなく不可もない生徒だったおれは、過去の火焔の罪業ゆえに教師から目を付けられていた。転校後も、同様である。その頃すでにおれの友はおれの中にしかいなかった。おれを取り囲む様々なエンターテインメント、そのひとひらひとひらに、何か希望じみたものを見たものである。具体的にはいうまい。でも確かに、この世には、おれが愛した何かが存在した。そしておれは、それにむかって一途に、偏執的に耽美したのだ――ああ、誇らしい記憶だが、おれは口を閉ざそう。いまのおれは、空想なりともそのことを頭に思い浮かべるだけで、舌を噛み切って死んでしまいたくなる。


 鼻の下に産毛が生え出した頃を境に、なぜか親から一抹の畏怖を抱かれていたおれは、なに不自由なく育てられた。欲しいものは何でも与えられ、嫌なことはせずにすんだ。全てはおれの感情を高ぶらせないためだったらしいと気付いたのは、だいぶ後になってのことである。金と時間をふんだんに与えられ、おれは『あばら家に隠し育てられた赤んぼのメシア』のような扱いを受けた。ゆえに、おれは思春期に全身を姿見に写し出した時、人よりも脂ののっている腹を見て恥じたものだ。さりとて嫌悪は抱かなかった。自己愛も同じくらい豊満に育っていたからである。


 それでも一応、義務教育を修了し、高校は定時制を卒業した。大学にも入った――地元で、どうしてだか試験は無かった! 父の尽力の賜物である。途中で行かなくなりうやむやになった。


 小中高大のどの時代にも、おれの友はいつもおれの中だけにいて、一方的かつ扇動的なエンターテインメントで時にやさしく、時に激しく囁きかけた。通販はおれに籠城を許した状態で、友との耽溺を助長した。今思えば甘い時代だった。実に甘々だった。おれはその甘さにいまだに取りこめられているわけだが、当時のおれは、現実性という輪郭をすっかり錆び付かせていた。物事の判断は理性より感性に直結し、言うなれば「インドアな猿」だった。しかし自分ではそれに気付かず、平気な顔をしていたのである。


 平和な時期が狂いはじめたのは、おれが成年を迎えた頃だ。


 大学がうやむやになってしばらく、おれは二階の自室で友とねぶりあうような日々を送っていた。ある時、父が扉をこじあけて――おれは施錠していたのに――入ってきた。おれは声を荒げようとしたが、四方からの殺気を察して躊躇した。父は一人では無かった。横松のおじさん、立竹のおじさん、奥梅のおじさん――親戚中から選り抜かれた屈強な叔父どもが居並び、おれを睨み付けていた。おれに何が言えようか。


「まさきィ」


 叔父どもはおれの部屋になだれ込み、部屋の真ん中にぽつねんと座っていたおれの四方を取り囲んだ。おれは真っ青になってフローリングにコントローラを置いた。その後、何をやり取りしたかは覚えていないが、もしかしたらおれの脳が自身の記憶を抹消しているのかもしれない。それだけ怖かったのだ。


 数日後の朝、おれはカッターにネクタイ、黒のスラックス姿で電車に乗っていた。あるオフィスに向かっていた。おれは強制されていっぱしの勤め人になったのだ。初出勤である。それにしても、試験も面接も無かったのは一体どういうことだろう。


 勤め先は教科書なんかを卸す出版会社で、おれの仕事は倉庫の帳面付け、ということだった。事務方である。けれども、初日からミソがついた。おれが倉庫に行くと、ドアのそばにはげあたまの、上と下の歯が交互に生えている老人がいて、くすんだ指先に煙草を挟んで、おれのことを訝しげに見ている。おれの方も何も言わずにじっと見ていると、老人はなんだねお前さんは、と言った。おれは唖然とした。行けば大丈夫だからと言われてここに来たのに。そのことを告げると、はあ、知らんね、お前さんは誰だね、と言った。その間、倉庫には大きなトラックが何台もやってきて、本を詰め込んでは轟々と走っていく。たくさんの人夫が、本を満載した台車を押して往復している。やがてそのうち一人がこちらを向き、


「ジンさん、いつまでヤニやっとるか? 早く戻れ」と怒鳴った。


 交互っ歯の老人はジンさんというらしい。


「やあ、主任がオカンムリだ」


 ジンさんは言うと、煙草を指先で潰して傍の缶に入れ、主任の方にとぼとぼ歩いていった。二人は小さく見えた。ジンさんは主任に何か告げた。途中でおれをちょっと指さした。おれは嫌な気分になった。


 主任はおれの方にやってきた。彼はおれに名前をたずね、聞きだすと「話は聞いている」と言った。そしておれの頭の先から顔、胸、腹、股間、太もも、膝、足をじぃっと見つくし、舌打ちをした。


「なんで今日からなのかね」

 主任はちらと壁の日めくりを見た。

「あんたが悪いんじゃないよ。社長だよ……ったく、教育委員会のコネだか何だか知らんが……」


 その後、おれは自分が聞かされている限りのことを言った。


「はぁ? 帳面付け?」

 主任は蔑むような目をした。

「今日はそれどころじゃないよ。上着を脱げ」


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