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その4 おれはオノレランドに帰ってきた。

 良い質問だ。


 おれの記憶が次の絵を示すのは、もうおれが随分大きくなってきた頃――一六、七才に達するかどうか、という頃だった。父は何らかのコネを使って当地の教育委員会の嘱託になった。頭は薄いが中身は濃い人間だったので、遠く離れた場所での事件は、最初のうちだけ災いし、あとは彼の職能によって塗り替えられた。つまり父は優秀だったのだ。それは認めねばならない。融通の利かない人非人とはいえ、国王の父であるからには太祖とでも呼称されてしかるべき存在である。まだ存命なのでツケあがるといけないから止しておくけれども。彼は同情され、頼りにされ、とにかく社会的な生き物として密かに厚遇されていた。おれは当時、二日にいっぺんくらい会っただろうか。彼は夜が遅かった。人が良すぎるのである。


 さて母は埴輪のように目の奥が虚ろであった。それは、ひとつは夫に対して、もうひとつは夫の父に対するあれこれによるものだった。彼女は感情を表に出さない人だった。当時おれは、国王としての素質をそろそろいかんなく発揮し始めた頃で、定時制高校で非常に優秀な成績を収めていた。といっても、同級生らは試験前に夜の公園でワンカップをあおっているような連中であった。年齢は様々だった。おれは彼らの勧誘には乗らず、ちゃんと勉強した。しかしその連中の中の、眉の無い男は遠慮なしにおれに尋ねたものだ。「あんちゃん、なにした?」「おまえ、昼通う年齢だろ」「あんちゃん、なにした?」。おれは気持ち悪くてそれにこたえたことはなかった。君子危うきに近寄らず、である。のちに王国のクエストにおいて、彼奴らに非常によく似た種族に出くわしたことがある。豚鬼という種族である。酒とたばこの匂いに辟易としたものだ。


 ある日おれが学校から帰ると、母は目を血走らせ、おれの両肩をはっしと、骨ばった手の平で掴み、「あなただけよ、あなただけよ」と連呼した。彼女は面を抑えて床に崩れた。こういうことはたびたびあった。おれは彼女の子供であるから、これはショックであった。母よ、あなたは自分の人生を他人の双肩にのしかけてはいけません。他人が倒れたら、あなたはどうやって立っていくのです。おれはその時にわかに僧侶のような気持ちになったが、もしかしたら口うるさいゴールドマンのように無粋だったかもしれない。おれは母に対し「勉強するから」といって三〇万円を要求した。事実我が家はどちらかというと金持ちだった。親戚が被災して保険が入り、そのあとすぐになぜかその金が回ってきていた。母は要求額をはるかに上回る金五〇万円也をくれた。おれは二階の自分の部屋にパーソナルコンピュータを据え置いた。ネットを引いて、完全な調和を整えた。まずこれが、おれがおれ自身の王国の礎を築いた時といえよう。


『それからそれから?』


 キーナ、そうせかすな。おれは次に何を語るべきか少考する。口を開きかけて躊躇する。そして――閃く。


 おれは人と話をする時、たとえそれがおれの想念の中で独り芝居として行われている時でさえも、気を利かせたいと思う方だ。単に自分語りをするだけだと、相手は退屈するかもしれないし、それでなくともおれ自身が気恥ずかしくなってくる。このきまり悪さを乗り越えるには、おれが自分の話に工夫を盛り込まなければならない。


 そこでおれは、キーナに問う。キーナを通して、クッキーバスターとゴールドマンにも問う。そうやって、予定調和を満遍なく突き崩す。


『きみたちは、ノアの方舟という話を知っているか』


 どうだ。

 ところが


『知ってます、知ってます』


 キーナはこらえきれない調子でいった。あとの二人も同じような面持ちである。


『そのお話は、罪深い人類がどれだけ悪に染まろうとも、一条の光明を垂れたもう神の恩寵のお話です』


 知ってやがった――当然だ。やつはおれの思考の一部である。おれはそのことを忘れかけていた。

 それでもおれは意地悪に言う。


『ふうん。きみたちの王国にも、キリスト教の物語があるのかね』


『きみたちの王国、じゃありません。ここは大君の王国です』キーナは可愛らしく頭を振った。『それに、どんな世界のお話も、ここには聞こえてくるのです。現実と仮想の間には、物理的な隔たりはあっても、概念を阻むものはありませんから』


『左様』ゴールドマンは髭をしごいた。『なにせこちらは、概念が世界化したようなものですのでな』


 説教がはじまるぞ――おれは急いで話のターンを自分に戻した。


『キーナ、きみはいま、あの話のカンセプトを端的に言ってくれた』おれはカンセプトと言った。『だがそれは――実に表面的だよ』


『というと』


『あの物語では、生きとし生けるあらゆる種のつがいが一組ずつ選ばれて、方舟に乗ることができる。そうして完全な滅亡が避けられ、生命は再び地上を覆い尽くすばかりになる』


 三人は黙ってうなずく。


『でも――きみたちは、その方舟に乗ることを許されなかった者たちの気持ちを考えたことがあるかね』


 三人はハッとした。おれは間髪入れずに


『おれが学校を出たあとの人生は、まさにそれさ』


 ここでちょっと視線を逸らし、聴衆におれのハードボイルドな側面を醸す。


 どうだろう、この趣向。


 しかし事実、おれはこう問いかけながら、自分の人生を思い出し、複雑な色の涙を目蓋にためかけていた。


 だっておれは――選ばれなかったのだ。


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