その2 おれはオノレランドに帰ってきた。
久々に玉座について、何も入っていない澄んだ盃を片手に、おれは前方を見た。玉座の前にピーッと引かれた緋色の絨毯。その端を踏まないように立ち侍る三人のしもべと甲冑の兵士たち。火も灯さぬのに明るい王座は、どこをどう見ても、ついきのうのままのようで、おれはうれしくなった。
さて、おれには哲学がある。――このセリフは常套句だ。以前も全く同じ文言を皮切りに、物思いに耽ったものだ。一丁、反芻してみるか。一字一句違えずに。
おれには哲学がある。それは王国治世の政治哲学では無い。このおれとて、ひとりの人間。人として、男として、そして、一つの時代を生きるものとして、思想と矜持がある。何も難しいことを言おうとしているのではない。ただおれは普通のことを普通に言いたいだけだ。
といって、おれが自分の哲学を語るにあたり、抽象的なことばかり口にしても、底なし沼に陥るのは目に見えている。とっかかりがなさすぎて理解を妨げることは請け合いだ。そこでおれは、ちょっとばかし自分の過去を語る必要がある。いや、諸兄にはその必要を信じてもらって、ぜひ語らせてほしい。なにせおれは十数年ぶりに自分の王国に足を踏み入れ、臆面もなく――その自覚はあるのだ――再度王座に就いた。おれはおれのことを、自分自身どんな奴だったか、顔を鏡で見るように思い出さなければならない。そうしなければ、これからの王政も、おれ自身の立居振る舞いも、軸を持たないままになってしまう。それはまずい。そのために、昔語りをする必要があるのだ。
ではまず、おれがはじめて王国に来たのはいつだったか、そこから始めよう。
そもそもおれは、王家の血筋でもなんでもない。それまではまったく庶民的な生活をしていたが、ある日を境に国王となった。驚きは無かった。何の苦労も無かった。――いや、その直前あたりまでは、しゃれた言い方をするならば、随分と闇に魅入られたものだ。だがこの話はまだ早いだろう。国王になったばかりの頃の話をしよう。
おれの意識はまるで乱暴にカットつなぎされたフィルムのように、いきなり大君となった。おれは城の玉座にいた。目の前にゴールドマンがいて、キーナがいて、クッキーバスターがいた。じじいのゴールドマンは開口一番「陛下、いよいよ旅立ちの時です」と言った。おれはむろん、そんなじじいのことなど知らなかったし、他の二人の剣士も初対面である。しかしおれは、まるで以前から決まっていた話のように、「ではいくか」なぞと言って、おもむろに腰を上げた。小さい頃、おれはよく父に連れられて川釣りに行った。あれはだいたい日曜日で朝が早かった。「おい、いくぞ」と言われて、おれは飼いならされたむく犬のように「あい!」と言って車の後部座席に走りこんだものだが、まさにあれと似ている。反射的行動、というやつである。
さあその後は、クエスト、クエスト、またクエスト。おれは自由な王だった。キーナとクッキーバスターは頼りになった。といっても、おれが一番の活躍だった。刀を振るわせても、魔法を使っても、おれが一番強い。二人はおれのおかげで王国屈指の剣士ともてはやされている。まあいいさ。それにしてもたくさんの立ちはだかる敵がいたものだ。盗賊だの、怪獣だの、悪霊だの。その他、隣国の王や悪魔の皇帝もいた。全部叩き切った。別に殺さずとも仲間にしても良かったし、やりようによっては上に押し頂いて仰ぐこともできた。でもおれはそうはしなかった。このまるっきりフリーシナリオな世界を、おれは正統派の冒険譚に描きたかったのだ。
そうこうしているうちに、すべてのクエストが終わった。コンプリートという言葉は、その節、まだそれほど流行りでは無かった。以降、おれは国王としての意義を――それどころか、おれ自身がこの王国に居している意味すら――使い果たしてしまった。おれは次第に耐えられなくなってきた。確かに、玉座にあれば、何の不自由もない。次から次に豊作の知らせが届く。覚えもないのに王子が育ったなどという。嵐も来ない、獣の害も無い。政治は、たぶんゴールドマンがやっているのだろう。おれはなにかをやった記憶は無いし、なにかを承認したことも無い。しかしこれはあまりにも虚しい在位であった。
――おれ、いなくてもよくね?
自分でそんな風に思った。……ああ、この言葉をまさか自分自身に投げかけようとは。おれは国王になる前、あらゆる災害、苦難、試練が待ち構える世界にいた……と記憶している。そこには王国のような平和は一切なく、僥倖を信じる手立てとて何一つなかった。おれが覚えている範囲でも、大震災、失業率、税、年金、これらは全て、おれの生活の中心軸から随分離れたところを、蠅の羽音のようにブンブン音を立てて周回していた。忌まわしくてたまらなかった。そこで、おれはまるで出家したように――随分話を端折るけれども――国王になったのだ! 確かその直前で、「お前、いなくてもよくね?」おお、これは、何ダースも聞いた。この話は後回しにしよう。パニック発作が起きては、おれは自分の王政譚を語ることができなくなってしまうから。