その1 おれはオノレランドに帰ってきた。
おれはオノレランドに帰ってきた。かれこれ十数年ぶりである。王国は永遠の青空の下、グリーンの絵の具をチューブから直接絞り出したような純色の草原を広げていた。ビット数の低い鳥の囀りが、おれのココロをなんだかひりひりさせる。――そう、おれはこのひりひり加減が好きで、心地よくて、また懐かしくて、もう一度王国に戻ってみようと思い立ったくらいなのである。要するに、半分以上は気まぐれ――おお、これは以上はあまり大きな声では言いにくい。民草に聞こえてしまうから。
つい昨日までのおれは、自らをうす暗い部屋の隅っこに追いやり、寝台で小海老のように丸くなって、なんじっぺんもなぞった通俗小説を馬鹿みたいに読み直し、漫画だの戯画だの、猥画だの、ありとあらゆる享楽に耽っていた。もちろん飽きていた。酸っぱくなるほど飽きていた。それでついに「このままではいけない――なぜと理由は無いのだが――このままではおれは本当に自分を失ってしまう」と思った。散々考えた挙句、おれは王国に戻ってみることにした。まあ、面倒臭さが先立ったが、自分をあれこれだまくらかして、なんとか王国の柵をくぐった時、さすがのおれも何だか気恥ずかしく感じた。おれもいっぱし、人の子なのである。
でもやっぱり帰ってきてよかった。
「大君、お帰りなさい!」
「大君、お帰りなさい!」
「大君、お帰りなさい!」
おお、民!
大勢の民がおれを喜んで出迎えた。ああ、うれしいではないか。本当に何も変わらない。空と草原だけじゃない。この石畳も、年中あおあおとした木立も、ずっとむこうまで破風を連ねる木小屋も。川も全く同じだ。同じ方向に同じスピードで流れている。まるでデジタルリピート。いやはや、この不気味なくらい常温の世界も、熱さ寒さ知らずで、まるで心地いい。
「……ただ、いま」
おれは民草に応えた。絞りだした声を、民草らは仰ぎ見て受け止めた。民草はみなおれの腰くらいっきゃ高さが無い。みなかわいい顔をしている。目はぱちくりして、眉が離れていて、鼻がこんもりして、口が輪切りのかまぼこのようで……どうもこう、はやりの顔ではないけれど、愛くるしいではないか。そして、みな同じ顔である。ああ、我が民、我が民族! コピー&ペーストの顔はみな笑っている。
おれはもみくちゃにされながら、四歩、五歩と進んだ。石畳の足裏に及ぼす感覚は、以前とまるで同じだ。こんなにおれの中に鮮明に記憶が生きているなんて――あの頃のおれは、なんでもかんでも吸収する乾いたへちまのように、記憶しては身となり、忘れることが無かった。だというのに今のおれときたら――ついこないだ読んだ猥雑な書籍は、真ん中あたりまで読んでやっと「あ、これ前も読んだ」と気付く始末。情けなや。とにかく、これからのおれは、自分の国王としての権威を維持するために、そういう側面を民草に見せないようにしなくてはならない。
「大君!」
聞き覚えのある声。おお、知ってる、知ってる。愛すべき三人のしもべ。キーナにゴールドマンにクッキーバスターだ。顔を上げると懐かしい顔が三つ並んでいた。彼らは民草と違い、おれと同じか少し低いくらいの背丈である。涼しい顔をしてやがる。居並ぶ彼らの向こうに、おれはちらりと見た――家々の向こう、小高い丘のてっぺんに、白亜の美しい我が居城があるのを。今も昔のままの輝きを放っている。きっと三人のしもべが、おれの帰る日を待ちわび、毎日丹念に手入れをしてくれていたに違いない。おれには経験が無いが、いつ帰るか分からない主を待つ屋敷というものは、肉体は滅んでも魂だけが信じられている神秘の宗教の寺院の如く、重々しい空気が立ち込めるものだという。そんなところにもう十数年も彼らをほったらかしにしていたおれは、非難されても仕方ないはずなのに、彼らは――涙すら浮かべている!
「すまな、かった」
面前に並んで立ち侍る三人に、おれは詫びた。
「勿体ないお言葉!」
キーナはたまらなくなって、おれの腕にむしゃぶりついた。おお、そう躰をくっつけるなよ。
「もう、今度は絶対に放さないんだから!」
「やめろ、キーナ」
クッキーバスターは厳しい目つきで女剣士をおれから引き剥がした。そう、このやりとりも懐かしい。おれはいつも思っていた。この男剣士はいつだっておれとキーナがじゃれあうと、こういうことを言って制するのだ。横恋慕だ横恋慕。唇噛んで、みっともない。
「民が見ている前で、大君に抱き着くんじゃない」
真面目男め。おれは構わんぞ。
「お帰りなさいませ。ながらく、お待ちしておりました」
脇でゴールドマンが長い白髭を肩にかけ、石畳に膝をついて頭を下げた。このうるさがたの執事は、十数年前にすでに随分年寄だったから、とっくに死んでるだろうと思っていたが、生きていた。おまけに何一つ変わっていない。皺一本増えた様子はない。出会った時から永遠にじじいである。
「わたくしは、もう、大君はてっきりお戻りにならないのかと――」
「そんなはず、ないでしょ!」キーナの声が耳をつんざく。「大君は絶対に帰ってくるって、私は分かってたんだから! だって、だって……」
「おお、泣くな」じじいはかぶりを振った。「わしだって信じていた。だが、もう王国は、随分前にサポートを――」
「はいはい、終わり」
クッキーバスターがパンパンと皮手袋を打ち鳴らした。
「愁嘆場は止そう。なんにせよ、大君はおかえりになった。めでたいじゃないか。大君、お疲れでしょう。ひとまずお城へ!」
「大君、ばんざーい!」
民草から声が上がる。
「ばんざーい!」
「オノレランド、ばんざーい!」
「ばんざーい!」