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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

人とすれ違うとき、最初に見るところ。

作者: 三歩ミチ

「あ、今の人、亜美と同じ靴履いてた」

「靴? 全然気づかなかった」


 部活が終わって、夕暮れの道を歩く。五月に入って、だいぶ日が伸びてきた。

 並んで歩く私たちの隣をすり抜けた人を見送り、千絵が言った。学校では並んで歩くな、一列で歩けと言われるけれど、実際に話しながら帰るとき、一列で帰るなんてありえない。そんなの、話しにくい。


「なんか私、人とすれ違うとき、靴見ちゃうんだよね」


 一緒に帰っているのは、同じ美術部の、千絵。千の絵と書いてチエだなんて、いかにも美術が好きそうな名前だ。実際は、絵が好きなのは彼女の親らしい。

 彼女自身は、既にほとんど幽霊部員だ。まだ入学してちょっとしか経っていないのに。たまに気が向いたように美術室に現れ、デッサンに参加して帰る。

 そんな千絵と私が仲良くしているのは、部活つながりではなく、クラスが同じだからだ。高校に入学して、同じ部活動に入った。そのよしみで、千絵の方から話しかけてくれたのがきっかけである。


「亜美は、人とすれ違うときに、最初にどこを見るの?」

「私? うーん、どこだろう……」


 確かめようと思って辺りを見回す。学校の近くには、何にもないから、通る人も少ない。タイミング良くすれ違う人もいなくて、私は千絵を見てみた。

 毛先の軽く跳ねた髪。くりくりの瞳。ふわふわした頬に、くたっとした襟、リボン。盛り上がるブラウスの胸元。折っているせいで乱れたスカートのプリーツ、白い太もも、紺色のハイソックス。かったるそうに踵を引きずりながら歩くローファー。


「ちょっと、何じろじろ見てるの?」

「自分は、どこ見てるのかなあって、思って……」

「やだもう、ほんと、亜美ってマジメだよねー」


 あはは、と笑う千絵の口角が、きれいにきゅっと上がる。千絵の唇は、血色が良い。リップで色味を整えているのだろう。中央部に濃いめの色を乗せた、色っぽい唇だ。


「唇、かも」


 そういえば普段から、人の唇をよく見てるかも。そう思って口に出すと、なにが面白かったのか、千絵はけたけた笑った。


「亜美って、唇フェチなんだ!」

「フェチっていうか、そんな……」

「やーん、やらしい! まじめな亜美が唇フェチなんて、超ギャップある〜」


 箸の転がるのも面白い年頃、というワードが頭を過ぎった。教室でも、休み時間になると、千絵はこうして明るく笑っている。彼女の周りには、いつも楽しいことがあるみたいだ。


「あたしねえ、手の血管フェチ!」

「手の血管?」

「そーそー。こう、男の人の、手の血管が浮き出るのが、超好きなんだよね」


 千絵は目の前に手を掲げ、懸命に握ったり開いたりする。その華奢な手の甲には、何も浮かんでこない。


「あたしの手じゃ血管は出ないや。今度、あっくん達と話すときに、見せてあげる!」


 あはは、とまた笑う。唇を美しく弓形にした千絵の笑顔は、絵に描いた理想の笑顔のようだ。美しいな、と思う。

 あっくんとは、千絵が仲良くしているクラスの男子だ。私は直接話したことがなくて、千絵を通じてしか、彼のことは知らない。


「亜美は、週末はどこに行くの?」

「特には……千絵は?」

「私? 私はねえ、クラスの子達とカラオケ行くんだよねー……」


 明るくて可愛い千絵は、いつも、男女の集まりの中心にいて、楽しそうに笑っている。こういう子が、男の子にもてるんだ。今付き合っているのは、確かバスケ部だかなんだかの男子だったはず。


「あっ、ユウくんが一緒に帰ろうだって! ごめん亜美!」

「ううん、大丈夫」


 そうそう、ユウくん、というのが千絵の彼氏だ。入学したばかりなのに、もう付き合うなんて。千絵の住む世界は、私とは、ちょっとだけ重ならない。

 じゃあね、と手を振って千絵と別れた。私はひとりで、駅に向かう。地面に落ちていた小石を、爪先で蹴りながら。

 カツン。

 音が聞こえたわけではないが、そんな硬い跳ね方をして、小石が予想外の方向へ向かう。


「あっ」


 地面ばかり見ていた私は、他の人に近づいていたことに、全然気がつかなかった。

 跳ねた小石は、前の人の靴のかかとに当たる。


「ごめんなさい!」


 薄桃色の、綺麗な唇。


「……あら、藤堂さん」


 顔を見たら、それは、見覚えのある人だった。


「南雲さん」


 南雲、まなか? だったかな。同じクラスの、女の子だ。黒い髪を背中に垂らし、風が吹くと、シャンプーのCMみたいになびくのが、かっこいい。


「ごめんね、石当てちゃって」

「平気。昔を思い出すわね、石を蹴って歩くなんて」


 大人びた口調に、大人びた顔立ち。

 私たちと同じ高校1年生とは思えない風貌に、千絵はよく、「話しかけにくいよね」と言っている。

 そんな彼女に、よりによってこんな子供っぽい一面を見られてしまった。俯く私。耳が熱い。

 軽い音を立てて、小石が地面を跳ねる。顔を上げると、石を蹴った南雲さんが、こちらを見ている。


「どこまで石を蹴りながら進めるか、やらなかった? 小さいとき」


 悪戯っぽく、笑う。口角が、綺麗に細められる。


「やろうよ」

「あっ……うん」


 私の反応を見て、わざと乗ってくれたのかな。その優しさを感じながら、私はさっきまで蹴っていた小石を、ぽんと爪先に当てた。

 石の跳ねる音。数歩進む足音。石の跳ねる音。数歩進む足音。また、石の跳ねる音。


「あ、車道に出たら、負けなのよ」


 遠くへ跳ねた石を追おうとしたら、南雲さんに指摘された。


「そんなルールだったの?」

「私が小学生の頃は、そういうルールだったの。危ないでしょ、車道に出たら」


 南雲さんが拗ねたみたいに唇を尖らせると、上唇と下唇の間に、僅かに隙間が開く。


「それでね、負けた人は、いっこ言うこと聞かなきゃいけないの」

「へえー……」

「小学生だから、だんだんランドセル持てとかピンポンダッシュしろとか、エスカレートしていって、禁止されたのよね」


 この大人びた南雲さんが、そんなやんちゃな遊びをしていたなんて。意外だなあ、と思ったのが、顔に出ていたのかもしれない。


「私だって、そのくらいしたわよ」


 南雲さんはそう言って、呆れたように笑ったのだった。リップを塗っていない薄桃色の唇が、笑みの形に引き伸ばされる。


「何聞いてもらおうかな〜」

「え、南雲さん、本気?」

「冗談。藤堂さんって、真面目なのね」


 千絵にも、よく言われること。真面目そうに見える南雲さんに言われると、なんだか本当に、自分は真面目でつまらない人に思える。


「私、真面目な人って好きだな」

「南雲さんも、真面目だから?」

「私が真面目に見えるの? そっかー……なんか、男女入り乱れてきゃぴきゃぴするのが、苦手なだけなの」


 ほんとは遊ぶのも好きなの、と付け加える。思っていたより表情豊かで、よく喋る南雲さん。思わず私は、


「南雲さんって、こんなに話しやすい人だと思わなかった」


そう、口に出していた。


「私も。藤堂さんって、なんかもっと、きゃぴきゃぴした人だと思ってた」

「えっ……」

「だって、派手な子とも、よく喋ってるでしょう。お昼も教室にいないから、他のクラスに友達がいるんだなあって」

「ああ、あれは、屋上で食べてるの」


 南雲さんは、目を丸くする。


「屋上で? この時期だと、そろそろ暑くない?」

「暑いけど……だからあんまり、人がいなくて」


 屋上は日を遮るものもなくて、五月といえど、じりじり暑い。いつも屋上で食べているメンバーが何人かいるけれど、互いに干渉しない距離を保っていて、心地良いのだ。


「いいなあ……私も、行ってみたいわ。今度、一緒にお昼食べましょうよ」

「いいの?」

「むしろ、お願いしたいわ」


 南雲さんの中学校は屋上は立ち入り禁止で、憧れがあると言う。私もそうだった。高校に入って、屋上に行けると知ったとき、真っ先に向かったのだ。

 飛び降り防止のために柵やネットが張り巡らされてはいるが、それでも建物の一番上にいるという事実と、広い空は、私を解放的な気分にさせた。

 そこまで言葉を探して、ちょっとした沈黙が訪れた。何か話さなきゃ。私は焦って、先ほどの、千絵との話題を持ち出す。


「……そういえば、南雲さんは、週末はどこか行くの?」


 ただ話題を切り出すだけなのに、妙にどきどきした。


「特には……藤堂さんは?」

「私も、特には」


 普通の返事が返ってきて、ほっとする。


「中学の頃の友達とは、高校が違うと、会わなくなっちゃったのよね。部活にも入ってないから」

「南雲さん、部活入ってないの?」

「そう。うちの学校って、オーケストラ部はすごいでしょう? 中学の頃は吹奏楽部だったけど、入る気がしなかったの」


 たしかに我が校は、オーケストラは全国で金賞の常連校だと聞いている。オーケストラ部に入るために、入学する生徒もたくさんいるらしい。


「南雲さんは、部活の友達と出かけないの?」

「美術部は、そんな感じじゃないかな」


 決して仲が悪いわけではない。楽しいし、よく喋る。だけど学校の外で、わざわざ約束して、会おうとは思わない。


「暇よね、週末」

「そうだね」


 まさかこんなところに、南雲さんとの共通点があるなんて。

 歩いていると、ようやく駅が見えてくる。


「ねえ、藤堂さん。週末、どこか行かない?」

「……ほんとに? 冗談?」


 声のトーンが本気そうで、私は戸惑った。


「ほんと。私たち、同じ暇人みたいだから。映画とか、見にいきましょうよ」


 皺のないつるつるした南雲さんの唇が、街灯を綺麗に反射していた。


◇◇◇


「どーしよー、何着て行こう」


 私は、クローゼットに掛かった服を出したりしまったりしている。姿見に当てては、しまい。当てては、しまい。南雲さんに会うには、どんな服を着たらいいんだろうと、悩みながら。

 結局あのあと、私と南雲さんは、週末に遊ぶ約束をした。学校の最寄駅で待ち合わせて、そのあと映画を観に行く。学校の周りには何もないけど、駅の周りには色々あるから、その後のことはその場で決めようというふんわりプランだ。


「……女の子同士なんだし、なんでもいいよね、うん」


 あえて声に出したのは、自分に言い聞かせるため。それでも私はその後しばらく悩み、ようやく、ワンピースに決めた。紺色の半袖のワンピース。肌寒いかもしれないから、その上にカーディガンを羽織っていく。

 友達同士なんだから、と思うのに、髪型にもずいぶん時間がかかった。結んではほどき、結んではほどき、やっとなんとか満足いく髪型になった。

 つけたこともないアクセサリーを母に借り、最近買ってもらったかわいい靴を履く。


「何あんた、デート?」


 母が茶化すと、休日は休みの父が「デートだと?」と目を剥く。


「違うよ。同じクラスの女の子と」

「高校の?」

「そう」


 父は「それは良かったな」と言って、見ていたテレビに戻って行った。


「行ってらっしゃい。遅くなるときは連絡するのよ」

「はーい」


 ドアを開けて外に出ると、気持ちのいい快晴だった。少し暑いけど、吹く風が涼しい。カーディガンを羽織ってきて、ちょうど良かった。

 通学に使っている道も、1ヶ月も通ったら、さすがに慣れる。通学定期で改札を通り、学校の最寄りの駅に着く。

 通学路なのに、私服でいるというのは、変な感じだ。


 そういえば、南雲さんの連絡先、知らないや。


 待ち合わせまで、あと5分。南雲さんの姿は、まだない。私は連絡が来ていないかスマホを見ようとして、連絡先を交換していないことを思い出した。

 仕方なく、スマホはしまって駅の柱に背中を預ける。もし、南雲さんが来なかったらどうしようかな。20分待ったら、帰ってもいいかな。


「ごめん! 待ったー?」

「ううん、全然」


 待ち合わせ時間ぴったりの電車で、南雲さんは現れる。今日は唇に透明なリップを塗っているみたいで、昨日よりつやっとしているし、柔らかそうに見える唇。頬もほんのりピンクで、眉は綺麗な形。


「南雲さん、お化粧してる?」

「うん、藤堂さんは、しないの?」


 休日の南雲さんは、学校での真面目な着こなしからは想像できない、華やかで素敵な姿だった。

 白いゆったりしたブラウスを着て、広めに開いた胸元から細いネックレスが覗く。ブラウスの裾はパンツに仕舞い、黒いベルト。スキニーのデニムパンツが、ほっそりした脚を包んでいる。脚、ほっそいな。


「したことないや。おしゃれなんだね、南雲さん」

「ありがとう。藤堂さんの服も、可愛い。紺色、似合うね。肌が白いから」

「……ありがとう」


 千絵との会話では、「可愛い」「そんなことないよ」のやりとりが定番である。南雲さんが悪びれずに「ありがとう」と言うから、謙遜するのは違う気がして、私も同じ言葉で返した。南雲さんはにこっと笑う。


「映画館、行こっか」


 駅の階段を降りていると、うちの学校のジャージを着た生徒が、私たちを追い抜いていく。


「週末も部活、あるんだね」

「そうよね、大変そう。オケなんて毎日、朝から晩まであるみたい。私、ついていけないと思ったの」

「南雲さん、なんでもできそうなのに」


 南雲さんは、大袈裟な身振りで、顔の前で手を左右に振る。


「ぜーんぜん! 昔フルート習ってたことがあったから、中学では上手いねって言われたけど、うちの学校みたいなとこじゃ全然だよ」

「フルートかあ。似合いそうだね」


 品のある南雲さんが、フルートを構えたら、きっと様になる。


「そうかな? ありがとう」


 やっぱり南雲さんは、謙遜しないで、お礼を言ってくれる。お陰で私の褒め言葉は、社交辞令にならないで済む。

 映画館は、駅から歩いて5分くらいのところにある。中に入ると、冷房が弱く効いているみたいで、少し冷えていた。


「どれ観ようね」

「この時間だと……あ、これ。すぐ始まるみたい」


 映画を観ることは決めていたけど、何を観るかは決めていないノープランさ。南雲さんがそういうタイプなのは、意外だった。特にこだわりなく、すぐに始まる映画のチケットを買う。

 映画館の絨毯はふかふかで、受付を通り過ぎると別世界みたいで、わくわくを誘う。重たい扉を開けて中に入ると、映画館のにおいが鼻をつく。

 大きなスクリーンには、広告が延々と流れている。私たちは、やや後方の、中央寄りの席に座った。


「あの映画もおもしろそうね」

「映画館に来ると、他の映画も観たくならない?」

「そうなのよ。これも、公開したら観に来ましょう」


 流れる映画の広告について静かに言葉を交わしながら、視線はスクリーンに向ける。休日の映画館は、ほどよく混んでいる。私の隣にも、南雲さんの隣にも、たまたま、座る人はいなかった。

 やがて照明が暗くなり、スクリーンの映像が鮮やかに見えてくる。映画会社のロゴ、そして本編。始まった途端、あれ? と思った。いきなり人が死んだのだ。

 今日選んだ映画は、聞いたことのあるタイトルだった。テレビで見るCMの印象では、それほど激しい映画には見えなかったが、いきなり撃ち合っているし、主人公らしき男性は大怪我を負う。血糊もリアルだ。ぞっ、と二の腕に鳥肌が立つ。

 いきなり大音量で鳴った爆破音に、ひっ、と反射的に息を吸った。隣で南雲さんも、肩をびくっと震わせる。

 薄暗い中で、目が合った。南雲さんの唇は、スクリーンの光を反射して淡く光っている。


(怖くない?)


 声を出さず、口パクのメッセージ。私は頷いた。

 激しかった冒頭のシーンはとりあえず終わり、ようやく主人公の立場がわかり、ストーリーが動き始める。内容はおもしろくて、私は映画に引き込まれていった。

 物語のクライマックスで、また銃撃戦が始まる。手に汗握る展開。ヒロインが、主人公を守って怪我を負う。

 落ち着かなくて、肘掛けに手を乗せ、握る。手の上に、ふわっと南雲さんの手が重なった。後から考えると不思議なのだけれど、そのときは本当に自然に、指がからんだ。

 別にそれは、何の違和感もない行動だった。私は南雲さんと手を繋いでいた。激しいシーンになると少し強まる握り方など、手を通じて、互いの反応を共有していた。

 長い長いエンドロールが流れ、場内が明るくなる。はあ、と観客皆が脱力したような、独特の雰囲気。


「最初は怖かったけど、いい話だったわね」


 映画を観終わった後って、感想を言うかどうか、ちょっと迷う。同じ感想ならいいけれど、違う感想だったら、気まずい雰囲気になるからだ。結果、「あの俳優はかっこよかった」だの、無難な感想に収まる。

 南雲さんは、臆さずそう言った。


「そうだね」


 だから私も、そう相槌を打った。たしかに、引き込まれるいい話だった。


「お昼、どうしようかしらね」

「うーん、南雲さん、この辺りのお店知ってる?」


 駅周りは飲食店がたくさんある。だけど私はこの辺りで遊ぶのは初めてだった。南雲さんも、「知らないわ」と答える。ふたりとも、高校の友達と遊ぶのは初めてなんだから、当たり前の反応だ。


「お腹空いてる?」

「普通かな」

「私、入ったことはないけど、行ってみたいカフェがあったの。もしかしたら量が少ないかもしれないけど、そこ、行ってみない?」

「うん!」


 南雲さんが行ってみたいカフェって、どんなところなんだろう。気にしながらついていくと、そこは高校までの道のりの途中にある、小さなカフェだった。私も何度も前を通っては、かわいいな、と思っていた店だ。


「このお店、かわいいよね」

「藤堂さんも、気になってたのね! 私、ガレット好きだから、一度来てみたかったの」

「ガレット? 食べたことないや」

「食べてみて。おいしいから」


 お店の看板には、手書きでガレットがおすすめされている。南雲さんは、好きなものもおしゃれだ。

 店の中の椅子で少し待って、そのあと中に通される。向かい合わせの、ふたり掛けの席だ。それぞれ座るために手を離す。

 このとき初めて、あっ、手を繋いでた、と気づいた。


「私、このガレットで」

「私も」


 合わせたわけではなく、互いに選んだものが、いくつかある中で同じものだった。


「気が合うのね」


 南雲さんが笑うと、口角が、本当に綺麗に上がる。


「南雲さんって、映画はよく観るの?」

「よくってほどではないけど。親が月額のサービスに入ってるから、それで映画を観ることが多いわ」

「へえ。最近、何か面白いの観た?」

「あのねえ……」


 驚くほど、とりとめもなく会話が続いた。おいしいガレットのおいしさを分かち合い、食後の紅茶にほっとする。その間も映画の話から、中学時代の話。趣味の話。あれこれと話題が変わり、気づいたら、あっという間に時間が経っていた。


「そろそろ出る?」


 お会計をして、お店を出る。空は薄青くなっていて、そろそろ夜かな、という感じだ。

 歩き始めた途端、吸い寄せられるように、私と南雲さんの手は重なった。その方が自然だ、というくらいの感じで。南雲さんも何も言わないし、そのときは私も、何も思わなかった。


「ありがとう。今日は楽しかった」

「私も。また、遊びましょうね」


 駅のホームまで、一緒に上がった。ここからは別の電車だ。南雲さんと私の家は逆方向にあることを、さっき話していて知った。


「あと、月曜のお昼。私も、屋上に誘って。良かったら」

「わかった。またね」


 私の乗る電車が、先に来た。するりと手が離れ、別れの挨拶を交わす。電車が動くと、窓越しに南雲さんは私を見て、にっこり笑って手を小さく振った。私も、手を振り返した。


◇◇◇


 南雲さんと連絡先を交換しなかったな、ということと、どうして手を繋いだんだろう、ということが、改めて不思議に思えたのは、月曜の朝だった。

 朝の支度は、もう考えなくてもできる。朝ごはんを食べて、制服を着て、髪を整える。鞄を持って、電車に乗る。

 電車に乗っている、自分の学校の制服を着た生徒。風景のひとつとして眺めているうちに、週末のことを思い出し、そのことに思い至ったのだった。


 不思議な時間だったなあ。


 中学のとき、手を繋いでいる女の子はたくさんいたけれど、私はそういうことはしなかった。南雲さんとも仲良くなったけど、あのときはまだ、それほど話してはいなかった。だけど自然に手を繋いでいたし、私はそれを、少しも疑問に思わなかった。

 手をぐーぱーして、あの感覚を思い出す。南雲さんの手は、柔らかかった。

 女の子の手のひらだから、柔らかかったのか。人間の手は、誰でも柔らかいのか。宿泊学習のフォークダンスで触った男子の手は柔らかかった気がするけど、あんまり覚えていない。


「おはよう、亜美」

「千絵。おはよう」


 朝の教室は、それぞれが準備をする音でがやがやしている。千絵が寄ってきて、挨拶をくれた。相変わらず、いい色のリップをしている。


「週末、どうだったの? カラオケは」

「もー、めっちゃ楽しかったよー! あっくんがすごい歌うまくてー」

「そうなんだ」

「そう! 亜美も今度、おいでよー」


 千絵の誘いは、誘いではない。本当に誘われたことはないし、誘われても私も行かない。場に馴染めないことが、目に見えている。


「おはよ、千絵」

「あっくん、おはよー」


 人気者の千絵は他の男子に話しかけられ、振り返って話し始める。私の机に、軽く座って。

 南雲さん、来てるかな。

 教室で話したことは今までないし、どんな顔をして会ったらいいんだろう。何もなかったように、素知らぬ顔をする? それとも、仲良い素振りをする?


「あ、亜美。見て見て。あたしが言ってたの、こういうこと!」

「え?」


 南雲さんの姿を探していた私の視界に、浅黒い手が飛び込んできた。

 先ほど話しかけてきた男子の手首を千絵がつかみ、私に見せている。


「こういうこと、って?」

「ほら、血管! すごい、浮き出てるでしょ?」

「あ、ほんとだ」


 見せられた手の甲はよく焼けていて、そこに血管がくっきり浮き出ている。


「ちょっとぉ、藤堂さん、反応薄いじゃねーか! せっかく見せたのにぃ」

「あっくん、その言い方、ひどーい」


 今の会話が、「あっくん」と交わす初めての会話だ。あんまりな反応を、千絵が咎めてくれる。こういうところがあるから、千絵は良い子だと思う。


「あたし血管フェチだから、あっくんの手、セクシーで好き〜」

「彼氏持ちに言われてもなあ」

「ふふ。ユウくんの手は、もっとかっこいいから」


 男女の微妙な駆け引きを感じる、ふたりの会話。小悪魔っぽく片側だけ上がる千絵の唇を、私は眺めている。


「亜美はね、唇フェチなんだよ!」

「唇フェチ! なんかそれ、えろいな!」

「亜美をえろい目で見るのやめてよ、純粋なんだから」


 あっくんはこちらにずい、と顔を寄せてくる。思わず顔を引いた私に、人差し指で唇を指して見せる。タコのように突き出した唇は、丸くて、皺が寄っている。


「俺の唇は〜?」

「え……」


 反応に困っていると、千絵がぺし、と軽く彼の頭をはたく。


「亜美が困ってるじゃん! セクハラ、だめ、ぜったい!」

「うっわ、いってぇ! ユウに言ってやるぞ、お前ほんとは暴力女だって!」

「言えば? そんなことで責めるような彼氏じゃないし」


 軽妙な会話を聞いて、千絵のいつもの仲間が、わらわらと周囲に集まってくる。やがてその集団は、私の席から離れていった。

 嵐が去った。

 千絵は好きだけど、周りの人たちとは、やっぱり上手く話せない。

 教科書を引き出しにしまいながら、千絵を中心にした輪を見る。そのまま窓際に視線を移す。窓際の、1番前。それが、南雲さんの席。

 私の席からは、南雲さんの後ろ姿しか見えない。少し開いた窓から吹き込んだ風が、さらりと、その艶々の黒髪を揺らす。


 話しかけにくいよね、やっぱり。


 背筋は伸び、凛とした雰囲気。私だって、あんな風に偶然話すことにならなければ、南雲さんと話すことは、最後までなかったかもしれない。

 頭も良いって噂だし、その上、美人。何かこだわりがありそうで、話しかけにくい。


 でも、本当は、親しみやすいんだよね。


 私だけが、南雲さんの本当の顔を知っている。

 そう思うと、なぜか嬉しくて、私はつい緩む口元を本で隠した。


◇◇◇


 昼休み、である。今日も晴れ。

 鞄から水筒と弁当を取り出して、屋上に向かおうとして、はたと立ち止まった。南雲さんに、誘って、と言われていたのを思い出したのだ。


 声、かけるべき?


 授業の合間の休み時間もあったけど、南雲さんは話しかけて来なかったし、私も話しかけなかった。今まで話していなかった私たちが話したら、気を引いてしまうから、素知らぬ方で行くんだな、と納得していた。

 だけど、屋上に誘うなら、話しかけなきゃいけない。

 こんなタイミングで声をかけたら、なおさら目立ってしまう。


 どうしよう。


 南雲さんの髪を見ながら悩んでいると、ぱっと彼女は振り返った。目が合う。目で頷く。南雲さんは、机に載せていたお弁当箱を持って、廊下に出た。

 これは一緒に行くんだろうなと、私も察した。お弁当の袋を持って、私も廊下に出る。

 ここから屋上に行くには、廊下の角を、右に曲がらなくてはいけない。曲がってすぐのところに、南雲さんが立っていた。


「南雲さん……」

「良かった! 来てくれて。あれで伝わったか、心配してたのよ」


 声をかけるのと同時に、こちらを向く。心底嬉しそうにそう言って、南雲さんは私の隣に来た。


「一緒にお昼を食べる友達ができて、嬉しいわ」

「南雲さんは、教室で食べてたんだっけ」

「そう、ひとりで。別にいいんだけど、視線が気になったわね」

「言ってたね」


 私だったら、教室でひとりでご飯を食べるなんて、そわそわして味がしないだろう。千絵みたいな人たちが和気藹々としているから自分と比べちゃうし、視線が気になるから。それもあって、屋上に避難しているのだ。

 クラスには、同じようなタイプの人も、何人かいる。皆お昼はどうしてるのかな、とふと思った。

 私は、南雲さんと反対の側に、お弁当を提げている。隣の南雲さんの手が、自然に、私の手を取った。


 あ、また。


 ちょっとそう思ったけれど、言及する気も、拒否する気も起きない。別に、嫌じゃないから。手を繋いだ私たちは、屋上へ向かう。


 先客が、3人。いつもの屋上の光景だ。このあと何人か来て、それぞれが一定の距離を置いて座っている。いつもと違うのは南雲さんがいることだけど、ふたりで屋上に上がっても、誰も視線も寄越さない。


「気持ちいいわね、高いところ!」

「そうだね」


 うーん、と南雲さんは伸びをする。唇が少し巻き込まれて、薄く伸びている。


「私はいつも、この辺りに座ってるの」


 屋上の角から、少し内側に入ったところ。そのまま地面に腰を下ろすと、南雲さんはハンカチを敷いてその上に座った。そういうとこ、女子だなあ。


「そのタンブラー、かわいいね」

「これ? こないだ話したやつよ」

「あ、期間限定の」


 お弁当を開いた南雲さんは、おしゃれなタンブラーに口をつける。好きなカフェで買った、期間限定のものらしい。それを聞いたのも、この週末だ。


「お弁当、かわいい」

「自分で作ってるから。食べるとき嬉しくなるように、トマトとかチーズとか、良い色のもの入れてるんだ」

「卵焼きも自分で焼いたの? おいしそうね」


 母が仕事で忙しいので、私は前日の夜にお弁当を仕込んで、適当に詰めて出かけている。こだわっているのは色合いくらいだ。冷凍食品もたくさん使っている。


「南雲さんのお弁当だって、おいしそう」

「これ、冷凍食品ばっかりよ」

「そうなの? 見えない」

「買ってる店が違うから?」


 冷凍食品トークをし、互いのおかずを交換し合う。南雲さんとふたりで食べると、いつもより、食べるのに時間がかかった。


「美味しかったわ」

「ごちそうさまでした」


 お弁当を片付ける。

 昼休みは、けっこう長い。お弁当を食べてしまうと、なんとなく、手持ち無沙汰になる。


「ここにいると、何もすることないわね。教室だと、本を読んだり、勉強したりできるけど」


 そんな発言から、南雲さんの昼休みの過ごし方が、垣間見える。


「藤堂さんは、昼休みは何してるの?」

「絵を描いてる」

「すごーい! 今も、持ってきてる?」


 私は小さなノートを取り出した。絵を描ける、専用の紙を綴じた、ちょっと良いノート。カバーに芯の太いシャーペンを入れて、それでいつも、風景を描いている。


「私、絵を描いてるとこ、見てみたいな」

「いや、見るほどのものじゃ」

「いつも書いてるんでしょ? そんな、近くから見たりしないから」


 南雲さんは、ハンカチをずらして、少し離れる。

 仕方ない。私は、南雲さんのいる屋上の風景を描き始める。輪郭をとって、細かなところを描き入れていく。

 昼休みの終わりを告げる鐘が鳴って、私は手を止めた。描き慣れた屋上の風景に、こっちを見ている南雲さん。まだ途中だけど、そんなに悪くない。


「昼休み、終わっちゃった」

「どんな絵描けたの? 見せて」


 南雲さんが近づいてくる。その顔と、描いた絵を見比べる。南雲さんの唇は薄いけど、ここまでじゃないな。もう少しだけ、厚い。


「唇フェチ」


 気になったところを書き直していると、南雲さんが、そう言った。


「えっ」

「朝、そう言われてなかった? 本当なんだね、唇すごい、手直ししてる」

「あ、その……」


 聞かれてたのか、とも思ったし、そう思われたのか、とも思った。唇フェチ、という言葉を、千絵は「やらしい」と言ったし、「あっくん」には「えろい」と言った。南雲さんにそういう目で見られるかと思うと、悲しくて、俯く。そういうつもりじゃないのに。


「……ごめんね」

「え、どうして謝るの?」

「なんか……やらしい目で見てるって、思われたかなって……」


 ぽろりと言葉が出て、そのあと南雲さんが「え?」みたいな理解してない顔をしているのを見て、今度は自分の発言が恥ずかしくなる。


「やらしい目で、見てるの?」

「いや! 見てないんだけど! そう思われたかなって」

「思わないよ、私は。好みって、人それぞれだもんね」


 南雲さんは、私に顔を近づけてくる。


「唇かー。なんか人の唇ってまじまじと見たことないけど、すごい柔らかそうだね」

「え……」

「動くと形変わって、それも不思議。なんか、触りたくなるって言うの? 藤堂さんの話聞いたら、私も、唇気になっちゃうかも」


 近くで見ても、南雲さんの唇は、柔らかそうだし、ふっくらしている。


「人の唇見たときって、藤堂さんは、どんなこと考えてるの?」

「え……やっぱり、綺麗だなとか、形いいな、とか。口角上がってるな、とか」

「うんうん。なるほどね」

「あとは、柔らかそうだな、触りたいな、とか。唇ってどんな感触なのかな、って。キスってどんな感じかなとかーーあっ、ちが」


 つい口走ったのを、慌てて口元を押さえる。余計なことを言ったのは、南雲さんの雰囲気のせいか、このぽかぽかした陽気のせいか。

 口を押さえてももう遅くて、南雲さんはぽかんとしたあと、笑みを浮かべる。あ、口角、綺麗。


「わかるかも。私も藤堂さんの唇見てると、柔らかそうだな、触ってみたいなって思うし……キスした感触も、たしかに気になる」

「そ、そう……?」


 そんな率直に言われると、どぎまぎしてしまう。


「そう。藤堂さんは?」

「南雲さんの唇、綺麗だなって。ふっくらしてるし、柔らかそうだし、その、唇同士を合わせたら、どうなるかなって……」


 南雲さんに言わせたのに、自分だけ嘘をつくわけにはいかない。日頃頭を過っていたことを言葉にすると、どきどきしてくる。どうしよう、この会話は、どう決着をつけたらいいの?


「してみようよ」

「え」

「してみよ?」


 南雲さんは、さらっと提案した。


「するって、キスを?」

「っていうか、唇を、合わせるってことを?」


 することは同じだけど、ニュアンスが違うのはわかる。キスしたいわけじゃない。ただ、その柔らかそうな唇に、唇を合わせたら、どんな感じがするのか知りたいだけ。


「う……」


 気になるけれど、冗談かもしれない。返事を躊躇う私。すると南雲さんは、「こないだの小石蹴り」と言う。


「小石蹴り?」

「藤堂さんが、先に車道に出たでしょ。あのときの権利、私まだ、使ってないから」


 勝った人は、なんでもひとつ、命令できる。藤堂さんが言っていた、小学生のときのルールだ。

 藤堂さんを見る。というよりも、藤堂さんの、唇を見る。桜色の唇。形も良くて、ふっくらしていて。さらさらしていて、柔らかそう。


「……わかった」


 どちらからともなく、吸い込まれるように。


 その瞬間、吹いてきた初夏を感じさせる風が、南雲さんの髪を揺らした。

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