2 復活
神エーテル。
俺の記憶が間違いじゃなかったら、エーテルはアン・タブリ領土で広く信仰されている人の守護神であり、ゲーム『Rebirth』のキャラクターだ。ゲーム内では第1エンドのためのルートで主人公に力を貸してくれるキャラだ。
そう、ただのキャラクターのはずなのに、どうしてこんな、現実に存在するかのように俺たちの目の前にいるんだ?
『余の加護を望むもアーエールの加護を望むも自由だ
だがお前たちが定めより逃れる術はない
この世界と本来ならば繋がりを持たぬが故に選ばれた世界の行く先を決める者
それが攻略者の役割なのだ
この世界の行く末を定めた暁にはお前たちを元の次元へと戻そう
さあ、行くのだ
そして自らの神を選び祈りを捧げよ』
エーテルはこれ以上は何も話すつもりがないのか沈黙し、ただ俺たちを見下ろしていた。
「おいっ!!なんだよこれ!説明しろよ!俺たちをどうするつもりだよ!」
少し離れたところに立っている、戦士らしき姿の男がエーテルに向かって怒鳴りつけた。
「おい!答えろよ!運命とか攻略者とかわけわかんねぇんだよ!」
野蛮さを感じさせる男の声は、エーテルにも聞こえているはずだった。
だが、エーテルは何も言わず、ただ口角を上げて微笑んで見せただけだった。
「ふざけんなよおいこら!俺をすぐに返せよ!!」
男は怒りを隠さずにエーテルに向かって怒鳴りつける。
天高く浮かぶ神々しい存在に怒鳴りつける男は、非常にちっぽけに見えた。まるで高層ビルに向かって犬が吠えている、そんな感じだ。
「おっ、俺たち、どうすればいいんでしょう」
俺の横にいた少年はすがるように俺を見た。
いや、俺だって全然分からない。
答えてくれそうにないが、俺もエーテルに聞きたいことは山ほどあった。運命とか、攻略者とか、高みとかいったい何の話だよ!?俺たちに一方的に言いつけたけどなにが目的でどうしたらいいのかさっぱりだ。
だがそれ以上にひとつ気になっていることがある。
俺以外にも何人かは同じことを考えているのか、周囲をきょろきょろと見回して不安そうにしている。俺は隣の少年に話しかけるわけでもないが、ぽろっと言葉をこぼす。
「なあ、確かゲームの始まりって、ボス戦から始まったよな」
「えっ?」
「ここ、やばくないか?出てくるんじゃないのか、あの、犬が」
俺が言った時、神殿の奥からタイミングを見計らったかのように、獰猛な鳴き声が広間に響き渡った。
「ひいっ」
俺の横にいた少年が悲鳴を上げる。俺も悲鳴すら上げなかったものの焦りと恐怖が湧き上がってきた。間違いなくボスだ。すぐ近くにいたのか!
「おい、やべえぞ、これ。逃げろっ!!」
「わ、私も行くっ!」
「ぼ、僕もっ!」
先ほど怒鳴っていた男は、唸り声に反応してすぐに走り出した。
つられて俺や少年も慌てて付いていく。
だが、走り出したのと同時くらいの時に、ボスが広間に姿を現した。吹き抜けとなっている広間へ、神殿上階から飛び降りてきたのだ。
ズシンと床が、ボスの着地で揺れる。
「グルアアァァッ!!」
「いやぁ!なにあれ!?」
近くを走っている女性が悲鳴を上げた。先ほどは遠く聞こえたボスの唸り声が今はもう百メートも離れていない。
俺たちは必死に、神殿の広間の、奥から見て右側にある通路に走りこもうとしていた。
だがボスは俺たちよりもはるかに速い。
「ガウッ、ガウウウッ!!」
ボスの足音は早く、もうすぐ真後ろで聞こえているようにも感じた。だが振り返る勇気もなければ余裕もなかった。
ボスの鋭い牙が、真後ろまで迫っている、そんな恐怖が全身を包んだ。
「う、おおおおおっ!!」
ズザアッと音を立てて、俺は通路に滑り込む。
「危ないっ!もっと奥に!」
「うわっ!」
もう安心だ、と思っていたが、先に通路にたどり着いていた男が俺の腕をつかんで引っ張った。俺は抵抗もできず数メートルくらい移動させられた。
「あぶ、ないですよっ!もう少しであいつの腕が当たるところだった!」
「えっ?あ、ま、マジだ……」
男の言葉を聞いて俺が背後を振り返れば、ボスは腕を伸ばして俺たちの逃げ込んで通路の入口付近をひっかいていた。幸いなことにボスの体は通路よりもはるかに大きいため入っては来れないが。この男がとっさの判断で俺を引っ張ってくれていなかったら、入口で止まっていた俺はどうなっていたかわからない。
「なんなのあれ……まるで、本物じゃない」
入口に前足を突っ込んで俺たちを引きずり出そうとする化け物。
こいつも、見たことがある。リバースのプレイヤーなら一度は必ず見たことがあるはずだ。
「ナベリウスだ……すげえ」
俺は思わずつぶやいていた。
目の前に、リバースの最初のボスである猟犬ナベリウスがいた。
ナベリウスは灰色の毛並みの獰猛な犬だ。猟犬と名はついているものの狼によく似ている。
だが、その大きさは普通の犬の何倍だろうか、前足から頭の先までの高さは俺の身長の3倍くらいだ。4本の脚はそこらへんの丸太なんか比べ物にならないくらい太い。入口周辺を引っ掻く爪なんか、人間の身体くらい溶けたバターみたいにバラバラにしてしまいそうだ。
俺がかつてゲームのなかで対峙した敵が、今目の前にいた。
ナベリウスはしばらく入口を引っ掻き、時には壁に向かって体当たりをした。頑丈な石造りのため通路が壊れるようなことはなかったが、ナベリウスが一度体を当てただけで天井からはぱらぱらと落ちた。
しばらくして、ナベリウスは諦めたのか通路の入口から離れていった。だがそう遠く離れていないところに腰を下ろしてしまった。
通路の中にいた俺たちは、ただただ黙ってそれを見ていた。多分、全員が恐怖で何も言えず、動けなかったんだと俺は思う。
「すげえ……なんだこれ」
だが、恐怖を抱きながらも、俺はある種の感動を覚えていた。こんな状況なのに、どこか高揚している俺がいた。
「危ないですよ、奥の方へ行きましょう」
「あ、そ、そうですね」
俺を助けてくれた男は、通路の入り口から動かない俺にそう言った。見たところ、俺よりも年上の、少し老いを感じさせる優し気な男だった。
男はおびえた目で通路の外を見た。通路外の広間にはまだナベリウスがいて、俺たちをじっと見ていたからだ。灰色の獣は金色の目でまっすぐ、俺たちを見ていた。
だが通路の奥に行ったところで外へつながる道はないはずだが……。
「ここに来た人って、全員無事ですよね。他の人ってどうしてるんですか」
「あ、ああ。奥のほうに行ったみたいですよ。あまり離れて動かないほうがいいと思うんですけどね」
通路の奥にはただ空き箱が置いてあるだけの倉庫がひとつあるだけだ。
そのとき、なにか物音が響いた。重い岩を動かす、そんな音だった。
「もしかして……行きましょう!」
助けてくれた男が走りだした。俺や、ほかに残っていた人も訳も分からないがとりあえず男についていく。すると、扉も壊されて、中に何もないはずの倉庫へと入っていく。
「えっ、あれ、出口か!?」
倉庫の中には何もないはずだったが。
それなのに、奥に見たことがない扉があった。そこは確か石の壁があるだけのはずだったのに、どうして壁がある?
岩を動かすような音は、石の扉を開閉させる音だったようだ。
そこにはエーテルに怒鳴りつけていた男と、ほかにも何人かが入っていた。扉の奥には、ここと同じような通路が続いている。そして扉は今にも、閉じようとしていた。
「おい待て!俺たちがまだいるんだぞ!?」
俺は引き留めようと怒鳴ったが、それにかまわずあの男は扉を閉じる手を止めなかった。
扉を閉めているのはエーテルに怒鳴った男だった。男は顔をこわばらせながらも言った。
「ここから外に行ける!だがお前らがそっちにいればナベリウスはこっちまで回ってこないはずだ!頼むからあいつを引き付けておいてくれよ!」
「やめろ、おい!なあ、待ってくれよ!」
無情にも、扉は閉じられた。すると扉はそこに何もなかったかのように、石壁の一部となって分からなくなった。
まさか、出口につながる道だったのか?うそだろ?
「うそ、うそうそうそ。私たち、置いて行かれたの?信じられない、うそ、ひどすぎる」
取り残されたなかの一人の女が、膝から崩れるようにへたりこんだ。
そういっても、目の前のあるはずだった扉が開くことなんてなかった。
通路に取り残されたのは俺を含めて5人だ。
俺、俺を助けてくれた初老の男、少年、気の弱そうな無口な男、若い女性だ。
正直、空気は重い。
俺もみんなも混乱してるし、怯えてる。
当然だろう、急にゲームの中に入り込んで、そのゲームの神が自分たちに話しかけてくる。しかもまだ都市とか街とかに呼ばれるならともかく、いきなりダンジョンの中に置き去りなんて訳が分からない。通路の外にはボスである巨大な狼、倉庫の奥の出口らしき扉はもう開く様子はない。つまり、袋のネズミ状態だ。
取り残された俺たちは、とりあえずは冷静になって互いの情報を交換した。
そして明らかになったのは、俺たち5人はみんな、ゲーム『Rebirth』のプレイヤーだということだ。そして全員が第1エンドまで攻略し終わっている。
エーテルが俺たちのことを「攻略者」と呼んだのはそのせいか?
先に逃げていったヤツらもリバースの攻略者なら、あそこに隠し扉があることも知ってたんだろうな。くそっ、攻略サイトでも見てれば俺も隠し扉の存在を知ってたかもしれないのに!
「ちなみに第2エンドまで終わった人って、いるのか?」
俺は尋ねたが、それはみんな首を振った。
「俺はまだ第2の最初のボスで止まってました」
これは少年。名前はクライネ。俺と進度はそう変わらないな。みたところ学生くらいの年齢か?
「私はもう少し先ですね、二つ目のアーエールの神殿の攻略に行こうとしたところでした」
これは初老の男。名前はバルバロ。ゲームよりも読書が似合いそうなこの男がゲーマーってことが意外だった。
「私は、第1エンドを見て止まってる」
これは若い女性。予測だが20代前半くらいっぽいな。名前はモニカ。女性のゲーマーも最近じゃ珍しくもないが、リバースの女性プレイヤーは割と珍しい。
「ぼ、僕も、です」
これは気弱そうな男。名前はリンツ。若そうだが顔色が病的に悪いから年齢はいまいちわからない。というか本当に病人じゃないか?
「俺は……アルフ。俺もバルバロさんと同じくらいだな」
バルバロは年上みたいだが一応さん付けで読んだ。
アルフという名前を自ら名乗るのは妙に気恥しい。
「それにしても、私たちどうなってるんだろ。名前、思い出せないなんて」
モニカが暗い表情でいった。
モニカの見た目は普通に日本人らしい黒髪、黒目だ。それどころか俺たちは、日本人らしい外見だ。それなのに俺たちがおよそ日本人らしからに名前を名乗ったのは、自分自身の名前を思い出せなくなっていたからだ。
ただ、全員自分の操作キャラの名前は覚えていた。互いに呼び方もろくにわからないんじゃ困る、ととりあえず操作キャラの名前を名乗った。
アルフ、それは俺がゲームを始めたときに勝手に付けられた名前だ。リバースは操作キャラの能力値と同じように、名前すら勝手に決められる。俺の場合はアルフだ。
自分の操作キャラの名前を考えるのもゲームの楽しみの一つかもしれないが、この場合に関しては、ある意味で感謝すべきシステムなのかも。もし俺が自分の操作キャラにすげえ中二病な名前つけたりしてたら今頃恥ずかしいじゃ済んでなかったはずだ。
うん、結構本気でよかった!アルフ!まともな名前だ!響きも悪くない!
だが、心の中で叫んだところで状況がよくなるわけがない。
「……ぼ、僕たち、どう、どうなっちゃうんでしょう。あの、さっきの扉て、も、もう開かないんですか?」
リンツはひどくどもりながら言った。人と接するのが苦手そうだな……。俺も社交的なわけじゃないがここまでおどおどはしてないぞ。ただ、人見知りだけが理由ではない。怖いのだ。
リバースの攻略者なら、このゲームの過酷さを知っている。死ぬのは当然、といったシステムのゲームなのだ。もう夢を見ていると自分をだますこともできない現状で、自分の身の危険を感じるのは当然だ。
「あの扉は開くのに条件があるんです」
「条件って、鍵みたいなアイテムもあるんですか」
俺はバルバロさんに聞いたが、残念そうに首を振った。
さっき扉が閉まってから全員で壁を調べ、押したり叩いたりしたが無駄だった。アイテムが必要なわけでもないならどうしたら開くんだ?
「確か、魔力に反応して開く扉、という設定だったはずです。だから魔力値が高くないと開かないんです。私たちのだれが扉に触れても開かなかったということは、魔力値がみんな低いんです」
俺は全員の服装を見る。俺とクライネは鎧、バルバロは僧侶っぽい服。モニカは身軽そうな服装だ、レンジャーかな。リンツの服は祈祷師か?
「……じゃあ、あの扉を開いたやつがいるってことは、なに、魔法使いがいるって言いたいの?そんな、魔法とか……」
モニカの言葉をバルバロは打ち消した。
「魔法なんてありえない、と普通なら私も言ってます。でもここが本当にリバースの世界なら、魔術は存在するじゃないですか!私は、ここは間違いなくリバースの世界だと思うんです!みなさんもさっきの、エーテルやナベリウスを見たでしょう!あんなの存在しない!姿を再現するのにプロジェクションマッピングだとか、機械って方法もそりゃああります。けど、そうじゃないと私は感じたんです!これは現実だって!」
石壁にバルバロの悲痛さの籠った声が反響する。
モニカはもうそれ以上なにも言わなかった。いや、モニカだってきっとこれが夢や幻なんかじゃないことはわかっているはずだ。でも誰かに嘘だと言ってほしかったのだと、俺はさっきの言葉を聞いてそう感じた。
「あの」
クライネ少年が声を発した。俺たち全員がクライネに注目し、一瞬だけまだ年若い少年は慌てた。
「あの、話題は全然変わるんですけど……もしかして俺たちのって、今までゲームで使ってたキャラの能力値を反映してるんじゃないですかね。あの、話題全然違ってすいません」
クライネが言う。
「俺は最初に戦士とかが向いてるって診断されたんです。だからこんな鎧着てるんじゃないかなって……。みなさんはどうでした、同じじゃないですか?」
ほかの3人からもそれぞれ返事が返ってくる。俺も頷いた。
俺の操作キャラのアルフはクライネ少年と同じように戦士向きだと診断された。
ここでいう診断は、チュートリアルでNPCの修道女オリエが自分に合ったクラスを教えてくれることを言っているのだ。チュートリアルでは光の都の神殿で、オリエに「弓の上達が早い」とか「強い魔力を秘めている」とか「元素の導きを感じる」とかって教えてもらえる。このときオリエが教えてくれるのがその操作キャラの能力適正だ。俺はオリエに「剣を持ったら負けなしでしょう」と教えてもらったから、それ以降剣士として戦ってきたのだ。ちなみに負けなしなんてことはなかった。
オリエの能力適正の助言を無視しても別に問題はない。だがオリエに教えてもらった通りに、戦士や魔術師として戦ったほうが圧倒的に強いのだ。俺の魔法が泣けるくらい弱いのに対して、魔術師は武器を握っても空振りしまくるか、最悪武器が重すぎて持ち上がらない。能力値にあった戦い方をしないと無駄死にを重ねるだけだ。
「じゃあ、服装で判断すれば魔術師はいないってことか。……なら、どうする、いつまでもこうはしてられないよな。誰かほかに抜け道とか知らないか」
俺の言葉に全員は沈黙を貫いた。俺もみんなに聞いておきながら知らないんだから情けない。
「戦うしかないのか?」
「む、無理ですよっ!」
リンツはすぐさま拒絶の言葉を上げる。意外と大きい声が出せるじゃないか。
「待てよリンツ、俺だって無理だ。でもほかに出口は広間の扉だけだ!どうにかして地上に出ないと俺たち飢え死にするだけだぞ!」
リバースの戦闘のシビアさは攻略者なら知っている。そしてナベリウスは最初のボスではあるが、非常に強い敵だということもだ。ましてや俺たちは今、画面越しに操作しているキャラクターなんかじゃない、生身の人間だ。俺だってナベリウスなんかとは戦いたくない。
広間の出口は、この神殿からの出口でもあり、またデイヨルネド鍾乳洞から地上へ続く道でもある。そこの扉さえくぐればナベリウスは通れそうにないし、地上へ迎えると思うのだ。
「いや、待ってください。いませんよ」
「えっ」
広間の方をバルバロが指さした。いないってまさか、ナベリウスが広間から動いてくれたのか?
「本当だ!いない!」
確かに、広間にナベリウスの姿は見えなかった。
「今なら外に出れる?」
「よ、よか、よかった……!」
みんなの顔がやっと明るくなった。
一番の脅威であるナベリウスがいなくなったことで希望が見えてきたのだ。
通路から少しだけ顔を出して、俺は広間を確認する。確かにナベリウスはいない。
「い、いこう」
バルバロを先頭に壁際に沿って、扉の方へと歩いていく。ぴったりと距離を保って歩いた。
なぜか俺が一番後ろになっているが、正直めちゃくちゃ心臓がうるさい。こんな状況、怖いに決まってる。
俺はチラリと天上の方を見上げる。この神殿の広間は吹き抜けになっていて、神殿の上階ともつながっている。先ほどもそうだったが、ナベリウスは大体、神殿の上層部から飛び降りてくる。ボス戦のときも大体それから戦いが始まるのだ。
見つかりやすい広間の真ん中を通るよりは端のほうが見つかりにくいだろうと安易に考えたが、これで大丈夫かは不明だ。正直、襲われたら一たまりもないだろう。ほぼ間違いなく、死ぬ。
ゆっくりとだが、確実に出口の扉に近づいてはいた。
あと、数メートルのところだった。
だが、そう物事は簡単には進まない。
そう、猟犬ナベリウスはこのアーエールの神殿の守護者だ。神殿に許可なく立ち入った者たちをやすやすと返しはしない。
「グウウウウッ!」
神殿上階から、灰色の塊が降り立った。ナベリウスだ。あまりにもタイミングが悪い。もしかしたら俺たちの様子を伺っていたのかもしれない。
「ひ、ひいっ!」
「だめだ!走ろう!」
全員が出口に向かて走り始めた。ナベリウスが表れた今、足音なんかを気にする必要はもうない。
ナベリウスはまっすぐ俺たちのほうへ向かってきた。俺たちの何倍もの体躯を誇る狼は、あっさりと距離を詰めてくる。前を走る4人はナベリウスの牙が届く前に扉に間に合いそうだった。
だが、俺は遅かった。
「うわあっ!!」
俺が扉に入っていこうとしたとき、扉の前を陣取るようにナベリウスは割り込んできた。巨体が俺の行く手をふさぐ。ナベリウスの足の向こうには、4人が入っていった扉が見える。
待ってくれ、あとちょっと、あとちょっとなんだ!
「う、わ……」
「アルフさん!!」
扉の奥からクライネが俺を呼んだ。だが俺はナベリウスの足元を走り抜ける度胸はなかった。あの巨体の下にわざわざ行けばどうなるかもわからなかったし、何よりも恐怖で足がすくんでいた。
「アルフさんを助けないと!」
「今出ていくのは危険です!」
「でも、このままだと……」
「も、もうダメなんじゃ……」
「出て行ったら今度は自分がやられちゃうわよ!」
扉の奥の声が、離れていてもやけに鮮明に聞こえた。
「く、くそっ!」
俺はナベリウスに背を向け走りだす。逃げていく先なんて決めてなかった。ただ走った。
背後からナベリウスの咆哮が響き渡る。そして俺のほうへ向かう重い足音が聞こえた。
そして、全身に衝撃が走った。
おそらくだが、ナベリウスが俺に向かって体当たりをしたのだと思う。
俺は気付いたら、出口の扉とは反対方向にある、本殿の入り口前まで吹き飛ばされていた。
「あ、ああ、う……」
俺は全身を襲った激痛にもだえながら、地面に横たわることしかできなかった。痛みのせいで呼吸すらうまくできない。
少し離れたところでナベリウスは、仕留めた獲物に十分なダメージを与えたかをうかがっている。そのもっと向こう側、地上へつながる扉からその奥が見えたが、そこにはもう誰もいなかった。俺を置いて行ったのか、それとも獣に嬲り殺されるのを見たくなくて隠れているのかどっちかは分からなかった。だが俺に救いの手が差し伸べられたりしないことはよくわかった。
「うう……お、奥に……!」
俺はなんとか立ち上がって、ナベリウスから逃れようと本殿の扉へと向かった。とはいっても、歩くたびに全身が悲鳴を上げている。こんなに痛いのは比喩でもなく人生で初めてだった。
ナベリウスがすぐそばにいるが、進む速度を上げることは無理だった。今にも倒れそうなんだ、むしろまだ歩けることが奇跡のように感じる。早く、本殿の中に入らないと、死ぬ。
「は、あと、ちょっと……」
だがナベリウスがまだ立ち上がる獲物を放っては置かなかった。
一度目は体当たりだった。だが今度は、あのデカい前足で俺を横殴りに吹き飛ばした。
「うう゛っ……!」
醜い声が出たが、そんなことを気にしている場合じゃなかった。
先ほどよりも本殿の扉には近くなった。だが、背中の焼けつくような痛みのせいで、すぐに動けなかった。倒れながらもナベリウスを見ると、前足の爪が赤く染まっていた。
背中に手を伸ばすと、生暖かくぬるりとした感触が手に伝わる。
べったりと手のひら一面に着いた血は、決して浅くない傷を負っていることを教えてくれる。人の血液なんてまともに見たこともない俺は、今更ながら震えがこみあげてきた。
だが、本殿への扉は目の前だった。不幸中の幸いというか、ナベリウスに二度攻撃されて吹き飛ばされたおかげでここまで移動できたんだ。
重厚そうな扉を、体を持たれかけさせるように押せばゆっくりと開いた。
扉が閉まる瞬間広間のほうを見れば、扉のすぐ外にまでナベリウスは迫っていたようだった。あと少し本殿に入るのが遅かったら、今度こそ間違いなく、俺は死んでいた。扉の外からは獲物を逃してくやしがるナベリウスの鳴き声が響く。
とはいってもすでに満身創痍の状態で、背中の血は止まらない。息はぜえぜえと苦しいし、本殿に逃げ込んだところで、血は止まんねえ。どうしたらいんだよ。
「はあっ、はあっ……アーエールの、祭壇だ……」
本殿の奥には、古いながらも神聖さを保った、石造りの祭壇があった。なんとかそこまで歩く。
「……ああ、ここも、何度も来たな……」
デイヨルネド鍾乳洞にあるのは、神アーエールの神殿だ。
エーテルも先ほどアーエールの名前を口にしていたが、アーエールもリバースにおいては重要な神だ。エーテルが人間を守護する神なのに対して、アーエールはすべての暗き者の守護神といわれている。つまるところアーエールは魔物を守護する神であり、第1エンドでは主人公に敵対する神だ。
「はっ……さむ、いな……」
体がぶるぶると震えてきた。全身は重く、これ以上俺は立っていられなかった。
祭壇のちょうど前に、俺はなんとか座り込む。
背中からは相変わらず血が流れているようで、濡れた服が張り付いているのが分かる。気持ち悪いが、もう服を脱いでいるような余裕なんてないことがよくわかった。
俺はきっと、もうすぐ死ぬ。
ナベリウスに引き裂かれた背中からの出血は止まららず、医療だとかそんなものの知識は俺には皆無だ、止める方法も分からない。
ゲームをしていたら、理由も仕組みも分からないが突然こんなところに連れてこられた。そして今、もう俺の命は風前の灯火だし、棺桶に片足どころか両足を突っ込んでいる。本殿のなかに入ってナベリウスから避難したところで、俺は食われて死ぬか出血多量で死ぬかの違いだ。
だが、ここには最後の最後の可能性がある。それはアーエールの祭壇があることだ。
エーテルの加護をもって魔物を倒すのが第1エンドのシナリオだ。主人公は最初のステージ、このデイヨルネド鍾乳洞から無事戻ったという功績をたたえられて、エーテルの加護を受ける。そうして、「不死の祝福」が与えられることになる。何度死んでもエーテルの神殿で蘇ることができるんだ。そうして死なない身体で何度も何度も魔物に挑み、そしてクリアを目指す。
だが、それは第1エンドでの話だ。第2エンドは違う。
第1エンドではエーテルの加護を受けていたが、第2エンドではアーエールの加護を受けることになる。エーテルは人間の守護神であるのに大して、アーエールは全ての暗き者の神といわれ、主には魔物の守護神だ。第2エンドでは人間を滅ぼすことを決めた主人公がアーエールに祈りを捧げ、不死の祝福を受ける。そして、各地のエーテルの神殿の守護者を倒していき、クリアを目指す。
「はあ……ごほっ……俺、不死になれるかな……」
震える手を、祭壇の前で合わせる。不格好だしこれで祈り方があってるかは知らん。
アーエールの加護を受けれるかどうかはわからない。確か一定条件があったはずだが、今は気にしていられない。ただ、まだ俺は死にたくなかった。
生きたい、元居たところに戻りたい。
戦った先に、元に戻る手がかりがあるんだったらいくらでも戦ってやるさ。だから……。
俺は座っていることもできず、やがて地面倒れこんだ。埃が舞い上がり、汚らしい。
ひどく寒いし、視界が霞んでいく。生死の覚悟なんて今までできてなかった俺は、たっだ孤独と恐怖を感じるしかなかった。
そしてゆっくりと目を閉じた。最後に見たのは祭壇にある、アーエールの像の顔だった。
そうして再び、世界を仰ぎ見るときがきた。
俺は気付いたとき、同じようにアーエールの祭壇の前に転がっていた。
目を閉じたときと変わらない、薄汚れた本殿の中だ。
俺は背中に手を伸ばす。ナベリウスに切り裂かれた場所を触っても、そこには何の傷もない。服が破れてすらいなかった。手足の感覚は十分にある。
生きてる、生きてる……俺は生きてる!
「う、おおおおおおおっ!!」
歓喜に打ち震えて、俺は咆哮した。まだ終わりじゃない、神が俺を生かしたんだ!!
目に映る世界は古びた神殿だとしても、再び目にすることができた世界は妙に鮮やかに見えた。
生きていることの安堵で俺はむせび泣いた。
このときは、自分の置かれている状況など気にせず、ただ生きていることの喜びを噛みしめていた。