二章 『日常、それは延々と続く頭痛の種』 《後》
ビニール袋を大量に提げながら、商店街の脇道に逸れる。
この道をまっすぐ進むと公園が見え──アオイと出会った公園とは別の公園だ。あちらはアスレチックなどが豊富なのに対し、こちらは何にもない芝生の公演だ。平日の朝なんかは老人会でゲートボールをやっている──その先の坂道を下ると、俺と三人の小学生が生活するマンションにたどり着く。
商店街からは、遠くもないが近くもない。具体的には、大量の買い物袋を持って歩くにはやや遠い。
「お前らも、ちょっとは持てよ」
「自分たちに襲い掛かることが決まっている悪魔の野菜たちを運搬するのに協力するのは了承しかねます。まあ、途中で落っことして何もかもダメにしていいというのであれば、やぶさかではありませんが」
「あーあ、この調子じゃ唯一の救いであるひき肉が暑さでダメになっちゃうかもな。このままだとナス、ピーマン、ネギ、ニンジンだけの肉なし炒めになるかも──」
「持つ持つ持ちます持つってばあ!!」
三人の中で一番脅しに屈しやすいキララが慌てて俺が右手に提げるスーパーのビニール袋をひったくった。
御しやすいことで何よりである。
「ほら、アカネも手伝え~。手伝ってくれたらご褒美に頭撫でてやるから」
「はあーい!」
そもそも家の手伝いに抵抗のないアカネも素直に八百屋の袋を受け取る。
残る素直じゃない子供はというと──
「ど、どうしてもというなら、手伝ってあげないこともないですよ、ろりこんさん」
「もうそんなに重くないし、別にいいよ」
「なっ……!?」
ちらっちらっとこちらを窺いながら言うアオイはすげなくされて涙目になっていた。
ふははっ、プリンの恨みは重いのだーっ!
子供を涙目にさせて勝ち誇っている大学生の姿が、ここにあった。
結局本泣きになられては困るので補充用ティッシュの入った軽い袋を預けることにした。
お手伝いできて──本人は認めないがご褒美権を獲得できて──ご満悦のアオイである。
意外と、子供らしさがわかりやすい子供だ。
「まったく、そんなに私の頭を撫でたいなんて、やっぱり千鳥さんはろりこんさんです」
「お前なあ、涙目になったあとにまで強がらなくていいんだぞ」
「な、泣いてないですっ」
はいはい、泣いてない泣いてない(泣いた)。
「ひーいーくうーん、アオちゃんばっかじゃなくてあたしも相手してしぃ~」
「うわっ、お前その袋たまごも入ってんだからあんま暴れんなよ」
「暴れてないしぃ! ひとを怪獣みたいに言わないでよ!」
「お前はもう怪獣みたいなもんだ」
怪獣キラゴンって感じ。
主に俺の生活の平和を乱すことで有名だ。
「じゃあアカネがウルトラヒーローねー! キラゴン、かくごー! 宇宙線ビームをくらえーっ!」
「お前も大人しくしてろ、カネ○ン」
ちなみに最後のアオゴンが一番物理的な被害は少ない。その代わりキツい言葉で精神的に攻めてくるが。
ただしこの例えの場合、アカネの言いではないが、ヒーロー役が不在なことがあまりにも救いがない。
俺は逃げ惑う一般市民役である。
誰かヒーロー役を買って出てくれるもの好きはいないものか。
秋田さん辺りにご参戦願いたいものだが。主に清涼剤的な意味合いで。
小さく溜息を吐いて、前方に走っていった三人娘を眺める。
赤・黄色・青と、並ぶと信号機のような配色の三人。
赤が『止まれ』で青が『進め』と考えると行動力的には真逆だが──アカネは『赤でも進め』、アオイは『右見て左見て、くるっと回ってUターン』って感じだ──黄色が『要注意』なのは変わらない。
三人まったくそれぞれに違う個性があり、好みも趣味もまったく違うのに、こうして見ていると仲はよさそうだ。
今日バイト先に現れた一幕を引き合いに出すまでもなく、放課後は行動を共にしていることが多い。
三人、異なる事情でうちに集まったはずなのに、息もぴったりで、三人集まれば手が付けられないことこの上ない。
パワフルパワーで俺を振り回すアカネ、許嫁とかいう立場を振りかざして翻弄するキララ、冷たい言葉で冷や汗をかかせるアオイ──一人一人が厄介なのに、三人揃ったら、かしましいどころの話ではない。
果たしてこの三人が我が家に揃うことになったのは運命の悪戯か、はたまた──
なんて、益体もないことを考えていたところで、いつの間にか我が家を内包するマンションのエントランスにたどり着いていた。
子供たちに荷物を持たせたことで結果的に手が空いているのは俺だけになってしまったので(ガキどもはビニールひとつ持たせるだけでも両手が塞がってしまうのだ)、空いている方の手でタッチパネルを操作して自動ドアを開ける。
するりと、開ききっていない扉の隙間を三人の小学生がすり抜けていった。
「走んなっつってんだろうが。こけて袋の中身がおじゃんになったらどうすんだ」
「アーちゃんアーちゃん、今のはフリです。こければ今夜の食卓からにっくき野菜どもが消えますよ」
「アカネ、悪魔の囁きに惑わされんな! こけたらご褒美のなでなでなしだぞ!」
アカネはなんとか邪念に打ち勝ち、今晩の食材を無事家に持ち帰ることに成功した。
アオイには野菜を特別多く盛ってやることを、俺は決意したのだった。
*
「いただきます」
四人異口同音にその言葉を発し、箸を取る。
俺はまず味噌汁から。炒め物に使うつもりで余ったナスとネギの入った味噌汁だ。
温かい液体が喉を通り、疲れ切った胃の腑に染みわたる──我ながらじじ臭い言い回しだが、しかし嘘偽りのない感想だった。
バイト以上に、ガキどもの扱いに疲れている。
疲れ切った身体でのろのろと晩飯を口に運びながら、同じメニューを前にする三人を眺める。
俺の向かいに座るアカネは、あれだけぶうたれていたにも関わらずナスやらピーマンやらをたっぷり取って味噌ダレと共に白飯に乗っけている。
なかなか通な食べ方をするではないか。満面の笑みで口に放り込んでいるのも相まって、見ているだけで美味そうだ。
俺の隣のキララは、思い切りのいいアカネとは対照的になにに手を付けるか迷っているようだった。
食卓に並んでしまえばなんであろうと最終的には美味しく頂いてしまう赤いのとは違い、黄色いのは根本的に野菜NGなのである。
以前から感じていた育ちの違いというか──アカネよりもよっぽど恵まれた環境で育ったはずのキララの方が手がかかるというのは、やや皮肉めいているが。
結局炒め物にも味噌汁にもナスやら何やらが入っているので、キララは諦めて白飯を白いまま食べ始める。
俺はご飯同様白いままの取り皿に味噌炒めをたっぷり投下してやる。
「ほれほれほれ」
「ぎゃあーっ! ナスがピーマンがネギがニンジンがいっぱいだしぃーっ!?」
「好き嫌いせずに食べないと色々育たないぞ~」
「千鳥さんはろりこんさんなので育たないほうがいいかもですよ」
「いらんこと言うなっつうの」
キララ信じちゃうだろうが。マセてるわりに純粋なんだから。
純粋というか、俺に対するアピールに余念がないとも言える。
そんなにアピられても、俺がなびくことはないのだが。
守りたくなるような年下は好みではあるが、しかしものごとには限度というものがある。俺はアオイの言うような『ろりこんさん』ではないので、年の差の限度は普通にひとつふたつ程度だ。
ちなみに秋田さんは十七歳で高校二年生なので範囲内。これ大事。
まあそれはともかく、そんな風にキララを煽っていたアオイはというと、嫌そうにだが、しっかりと味噌炒めにも味噌汁にも口をつけていた。
嫌いなものでも気にせず食べるアカネ。
嫌いなものは食べようとしないキララ。
嫌いなものを不承不承食べるアオイ。
比べてみると、やはりキララが一段劣って見える。
まあ、それでも食べさせようと思えば断固として食べないというわけではないので、決定的に悪い子というわけでもないのだが。
苦手なものに対する姿勢というのは、最終的に乗り越えようという意思があるのならどういうものでも構わないと、個人的には思う。
俺はどうだっただろうか──何年も前のことを、思い出す。
嫌いな食べ物に対して──苦手なものに対して、俺はどんなスタンスを貫いていただろうか。
アカネのように気にせず食べていただろうか。
キララのように食べるのを拒否していただろうか。
アオイのように、嫌々ながらも食べていたのだろうか。
強いて言うなら、アオイタイプだったように思う。
嫌いなものは嫌いだったし──それでもどうにか自分から食べようとしていたのは、何だろう、家族に対する『負い目』のようなものが、あったのかもしれない。
本質的には余所者の俺が、出されたものを残すことなどあってはならない、と──そう、思っていたのかもしれない。
ならば、同じタイプのアオイもまた、同じような考えなのだろうか。
俺や、アカネやキララに、負い目を感じて、いるのだろうか。
それは──なんというか、歓迎したい事態ではなかった。
いや、今の状況自体、歓迎したいものではないのだけれど──それでも、一緒に暮らしている以上は、遠慮のようなものをしてほしくはない。
あるいは俺の父親や、兄姉たちも、俺に対してそんな風に思っていたのかもしれないけれど。
今となってはわからない。
今更訊こうとも、思わない。
けど、そう思うと、あの家に対する忌避感も、多少は薄まったような気がした。
「おやすみなさい」
寝室の電気を消す。
俺一人では手に余る部屋だったが、小学生三人で寝るにはやや手狭だ。うち二人が落ち着きなく動き回っているのだからなおさら。
「おら、さっさと寝ろよ。明日も学校だろうが」
いつも通りドラマを観終わってからの就寝なので現在時刻は十時。だというのにアカネとキララは寝る気配がない。
アオイはドラマを観ることもなく寝付いたというのに。
「あたしはアオちゃんよりもおねーさんなんだからまだいいんだし」
「一つ違いでお姉さんも何もねえよ」
ガキはガキだ。
むしろ大人しい分アオイの方が大人だ──口は大人しくないが。
「ひーくんと一緒じゃなきゃ寝らんないし」
「じゃあもう一生寝んな、一人で起きてろ──あれ、アカネは?」
うだうだ言うキララの相手をしているうちに、もう一人の大人しくない奴がやけに静かなことに気が付いた。
なんだいつになくあっさり寝たのかと思ったが、布団に赤髪の少女の姿はない。
というか寝室から消えていた。
「あれ、アカネは!?」
同じ言葉を、より強い語調で繰り返した。
「トイレじゃないの?」
「アイツ、夜一人でトイレ行けないじゃん!」
小学校最高学年でそれはどうかと思うが、まあ実際そうなのだ。
今日、急に勇気に目覚めたというのでもなかろう──と、いうことは?
ガッシャアーン──という音がした。
リビングの方で。
慌てて駆け付けると、冷蔵庫の前で棒立ちになっている赤髪の小学生の姿。
その足元には、放射状に広がる赤い液体──こぼれたトマトジュース(濃いめ)が。
「何やってんだお前!」
「の、のどがかわいたから……」
混乱しているのか、目を点にして茫然としながら答える犯人。
喉が渇いてトマトジュースを出す意味が分からん。そんなん余計に喉渇くだけだろうに。
なんか流血事件みたいになってんじゃねえか。
「でも、牛乳も麦茶もなかったから……」
「水道水で我慢しなさい」
そういえば今日買っておくのを忘れていたか。
まったくもう……あーあ、全然残ってねえや。けっこう好きなやつだったのに。
また買ってこないとなあ。近所のスーパーにもコンビニにも売ってねえんだよなあ、これ。
「ご、ごめんなさいい……」
「泣くな泣くな。とりあえずシャワー浴びて着替えてこい。びしょびしょだから」
「ごべんばざいいぃ」
「泣くなっつうの! 怒ってないから!」
「ひーくんがアーちゃん泣かしてる……」
「キララ、見てねえでこいつ風呂場に連れてけ!!」
『家政婦は見た』みたいな格好でこちらの様子を窺っていた黄色いのを捕まえてアカネを預ける。
泣きじゃくるアカネを慰めながら風呂場に向かうキララを見届けて、俺はびしゃびしゃの床を雑巾で拭き始める。
と、今の騒ぎで目が覚めてしまったらしいアオイが俺の姿を見て、一言。
「千鳥さんが流血事件の後始末をしてる場面に遭遇してしまったです……!」
「トマトジュースだよ! 馬鹿なコト言ってないで寝るか手伝え!!」
「おやすみなさいです」
「寝ないで手伝え!!」
「理不尽です……」
どうにか流血事件の後始末を終え、三人が寝付いたのを確認して一息つく。
休憩がてらトマトジュースでも飲もうかと思い、すべて雑巾の肥やしになったのを思い出して溜息。
これがたまのトラブルだったならまだよかったのだが、生憎と日常茶飯事なのだった。
流石にここまで大事になることはそうそうないが。
「ったく、ガキどもを預かってから気が休まるときがないな……」
大学やらバイトやらで疲れて帰ってくれば騒がしいガキどものお出迎えが待っているという毎日。
今までなら帰ったらコンビニで晩飯を済ませて即刻床に就いていたのが、今ではしっかり栄養に気を遣ったメニューを考え商店街で買い物をし、三人が寝付くまで面倒を見なくてはいけないのだ。そのうちストレスで禿げるかもしれない。
健康面で考えれば、今の方が健康的な生活をしていると言えるのかもしれないが──それにしたって、明日も七時に起きて朝飯を作らなければいけないのだから、疲れは増す一方。健康的と言えるかどうかは微妙なところである。
世の親御さんというのは皆こんな大変な思いをしているのだろうか。
うちのジジイは、こういう苦労とは無縁だった気がするが。子育てに関しては母親──俺にとっては義理の母親だ──に任せて、自分は仕事一辺倒だったようだし。
その仕事にしたって、あのジジイのことだ、どれほど真面目に取り組んでいたのかはわからないが。
案外、細かい作業は長男辺りに丸投げしていた可能性もある。
今も昔も適当に生きてる道楽ジジイなのだ。
そうでなければ、俺やアカネも生まれていないと言える。
だから感謝しろ、なんて言われても御免だが。
「……プリンでも食うかあ」
バイトに行っている間にアカネに発見され食べられてしまったプリンと同じものを、今日の買い物で買い直しておいたのだ。
また食べられてしまう前に食べておかないと。
そう思って冷蔵庫の扉を開き、ガキどもの手が届かない上段にしまっておいたプリンを取り出す──その緩いセキュリティも、どうやらアイツらには効果がないようだが。
個人用の鍵付き冷蔵庫でも購入しようか。
と、プリンがしまってあったところのすぐ近くに、見慣れないものが置いてあることに気が付いた。
いつも買っているプリンよりも、少しだけ高価なア・ラ・モード風プリン。
俺が買ったものではない。となると、購入者はあの三人のいずれかか──高いものを買っているということは、キララだろうか。
俺のを食ったくせにまだ食うつもりなのか──と思ったところで、蓋の辺りに小さなメモ書きが貼ってあるのに気づく。
そこには、赤、黄、青の三色のペンによって、それぞれ違う筆跡のメッセージが書かれていた。
『おにーちゃんのプリン食べてごめんなさい。おいしかったよ!』
『ひーくん、ごめんなさい>< 嫌いにならないでね♡』
『千鳥さん、今度からはもっとうまく隠すことをおすすめするです。……ごめんなさいです。』
謝る気があるのかわからない感想を添えているアカネ。
顔文字やら記号やらでキラキラデコっているキララ。
文章ですら素直になれないアオイ。
署名がなくとも誰が書いたのか一目瞭然な三つのメッセージを見て、俺は知らず、口元に笑みを浮かべていた。
「……ったく、謝るくらいなら最初から食うなよな」
いつもより高めで、だけどそれだけが理由じゃないいつもよりも美味しいプリンを食べながら、今度はアイツらの分も買ってきてやろうと、そう思った。




