一章 『出会い、それは憂鬱のはじまり』 《後》
またジジイに呼ばれ、俺は実家に戻ってきていた。
あのジジイ、急に頻繁に呼び出すようになりやがって。一回素直に来てしまったから味を占めたのだろうか。
そう言いながら今回ものこのこと来ている辺り、俺も存外お人好しなのかもしれない。
「おじーちゃんに会うのひさしぶりだねー!」
「そうか、お前的には久々か」
小学生にとっての一週間は俺にとっての一カ月くらいに当たるのかもしれない。俺としては、あのジジイの顔なんて一度見れば一年は見なくてもいいが。
溜息を吐きながら、屋敷の庭を歩く。なんでこんなに広いんだ、この庭。
長い道程を超えてジジイの書斎にたどり着く。
「入ってええぞ」
ノックをすると、そんな答えが返ってくる。
ノブを捻って、扉を開ける。
「おじーちゃあん!!」
すごい勢いでアカネがジジイに飛びついた。
そのジジイ七十七歳だから、労わってやれよ。平手打った俺が言うことではないが。
「茜は相変わらずじゃのお……」
額に汗を浮かべながら笑うジジイ。けっこうツラいと見える。
ざまあみろと思っていたところで、不意に脇から声がした。
「あれ、アーちゃん?」
それは、先日聞いたばかりの声。
アカネの友人、白金黄星々が、思わぬ来客に面食らって固まっていた。
「キーちゃん! なんでここにいるのー?」
「こっちのセリフだし。ここ、パパの知り合いの家のはずだし」
「? ここ、おじーちゃんのおうちだよー?」
二人顔を見合わせ、はてな?という顔をする。
つまり、『パパの知り合い』というのがうちのジジイのことなのだろう。
と、いうことは──
「先日ぶりだね、千鳥くん」
部屋を見回すと、丁度扉の陰になっていたところに、彼はいた。
白金黄星々の、父親。
「……名前、教えましたっけ?」
「会長から聞いてね。まさか隠し子だとは思わなかったが」
余計な事教えてんじゃねえよ、ジジイ。
なんだ、ダブルブッキングでもしたのか。
いや、ジジイは明確にこの時間に来るように言っていた。そしてこの固そうなお父さんも、アポなしで来るような人には見えない。
つまり、ここで俺と白金父子が再開したのは、偶然ではないということだ。
それは、ジジイの計らいか。
「んにゃ、月の方から、お前に会いたいって言ってきてのお」
ライトってこの親父さんのことか? 新世界の神にでもなるのだろうか。
「俺に会いたいって、なんで?」
「そっちの嬢ちゃんが、お前に用があるらしいんじゃ」
「キララちゃんが?」
アカネと歓談している少女を見る。すると、その視線に気が付いたのか、こちらに笑いかけてくる。
生意気そうな顔立ちに、ちらりと覗く八重歯。アカネとはまた違ったタイプの笑顔だ。
この子が俺に、どんな用だと言うのだろうか。
その疑問を敏感に感じ取り、キララちゃんは言った。
「あのね、あたしとお兄さん、コンヤクするし!」
「ん、なんて? こんにゃく?」
こんにゃくするってどういう意味だ?
「こ・ん・や・く!!」
婚約?
俺と、この子が?
え、マジで言ってる?
「大マジだし! 昨日言ったっしょ、ケッコンしてあげるって!」
「それもマジだと思ってないよ!」
ええ……何それ……?
つうか何より、大人二人はマジに受け取ったのかよ。
「いいんじゃね? キララちゃんが結婚したいって言っとるんじゃろ?」
「軽いよ! そんなんだから俺とかアカネみたいのができるんだろうが!」
「フム、つまり千鳥くんは、うちの娘では不満だ、と?」
「そういう問題じゃないです! 年齢を考えてください!」
ジジイは軽薄だし、親父さんは意外と親馬鹿だった。
なんか、本当に話が進んでしまっている気がする。
「まあ確かにお互い会って間もないし、すぐに結婚っちゅうのもどうかと思ってのお」
「お、おう……そういう問題じゃない気がするが、まあ、ごもっともだよな」
「じゃから、しばらく一緒に暮らしてもらおうと思っての」
「どうしてそうなった!」
おかしいぞ、このジジイ!
つうか親父さんも真面目な顔して聞いてるけど、それでいいのか!
大事な娘がぽっと出の男の家で暮らすっつってんだぞ!
「うちの娘では不安かね」
「それしか言えないのか、アンタは!」
「ヨロシク、お兄さん♪」
こうして、半ば強引に。
アカネのときよりもさらに断る選択肢を提示されないままに、俺は白金黄星々と一緒に暮らすことになった。
*
「あ、キーちゃんそれアカネのからあげー!」
「でっかいお皿のは早い者勝ちだしぃ」
「おにーちゃん、キーちゃんがアカネのからあげ取ったー!」
「ひーくん、早い者勝ちだよね!」
「晩飯は静かに食べなさい」
……はあ、ついこの間までは静かで気楽な一人暮らしだったんだがなあ。どうしてこうなったんだか。
マンションの一室、そのさらに一室にあるダイニングテーブルで、俺とアカネ、そして新たに住人となったキララは食卓を囲っていた。
これが俺ひとりならば無言で、あるいはテレビを観ながら唐揚げを食っていただろう。
俺とアカネだけでも、ここまで騒がしくはならない。アカネは好きなだけ唐揚げを食い、俺はその余りものを食べるというのが二人で生活していた一週間の習わしだった。
これは例え話になるが、俺とキララの二人暮らしだったとしても、アカネとの二人暮らしとそう変わりはなかっただろう。だから、どちらかが特別騒がしいというわけではないのだ──ただ、アカネとキララの二人が揃うとなると、これはもう、やばい。やばいとしか言えない。
なにがやばいって、夜も眠れないくらいやばい。
がきんちょのくせに早く寝るということを知らないこの二人は、けっこう遅い時間まで騒いでいるのだ。それも今の唐揚げのやり取りのような、わりとどうでもいい内容で。
バイトで疲れて帰ってさっさと寝たいというときに寝室で枕投げでも始められてみろ。翌日の大学まで疲れを引きずることになる。そのくせ二人は朝になるとけろっとして学校に向かうのだから、小学生の体力というものは底知れない。
俺にもあんな時代があったのだろうか。
……ちなみに、寝室はアカネとキララの二人に使わせている。最低限のエチケットというか、これまたアカネと二人のときはまだよかったのだが、キララはちょっと一緒の部屋で寝るとなると手に負えないのだ。
キララがうちに来た最初の夜、俺の布団にもぐりこんでこられたその瞬間に、俺の寝床はリビングのソファに決定した──バイトの疲れが取れない一因である。
こちらにその気がなくとも、体面上よろしくないのだ、そういうのは。
俺がロリコンだと思われたらどうするのだ。
──そんな感じで、俺はアカネとキララ、二人の小学生との騒がしい日々を過ごしていた。
「おにーちゃん、キーちゃんがまたアカネのからあげ食べたー!」
「だから早い者勝ちだってばあ」
「……次からそれぞれの皿に同じ数盛ってやるから、とりあえず今日のところは仲良く譲り合いなさい」
「むぅー」
「ふふーん」
アカネが悔しがり、キララは勝ち誇る。
いや、アカネに一方的に譲れって言ったわけじゃないからね?
キララもちゃんとアカネに譲れよ?
「えぇ~!」
どうやらこの黄色いのは大分甘やかされて育ったらしい。譲り合いという、日本人として持っていて然るべき精神性を持ち合わせていないようだ。
日本人離れしているのは髪色だけで充分である──祖母がフランス人らしい(親父さんは普通に黒髪の日本人だったから、母方の祖母なのだろう)ので、髪色はそこから受け継いだものということらしいが。
すったもんだの末、ようやく大皿の唐揚げがすべて無くなり、小学生二人は「ごちそうさまー!」と手を合わせ、アカネは食器を持ってキッチンの流しに、キララはそのままリビングのテレビに直行する。
育ちの違いが如実すぎる……。
ちなみに俺は、ガキどもが残したレタスの処理という仕事が残されているので席を立つことはできない。
「キララ、ちゃんと使った食器は洗って片づけなさい」
「ええー、そんなのメイドさんに任せればいいっしょ」
「うちにメイドさんはいません」
それともアカネのことをメイドとでも思っているのだろうか──大体メイドさんって……どんな家に住んでたんだよ。俺の実家にもそんなんいなかったぞ。ジジイの秘書が色々とやってくれてはいたが。
──キララの家は、結構な金持ちさんらしい。あとで聞いた話では、あの親父さんが大会社の社長をしているようだ。
最初に会ったときに『社長風』と称したが、まさか本当に社長だとは思わなかった。
うちのジジイが会長をしている会社の提携先らしく、その縁でジジイと知り合いだったとか、そういう話だった。
つまりキララとの婚約云々の話は、金持ち同士の『お付き合い』だったということだ。どうせそうなら、俺みたいな望まれざる子供ではなく義兄とでも婚約させとけばよかったのに。
ようやくレタスの処理を終え、仕方なくキララの分の食器も一緒に片づける。
シンクに行くと、アカネがせっせと自分の使った食器を洗っている。
「えらいなあ、アカネは。黄色いのとは大違いだ」
「えへへー」
頭を撫でてやると、アカネは嬉しそうにはにかむ。
いい子だなあ──室内ダッシュと腹タックルがなければ完璧だったのに。
「ひーくん! あたしにもなでなでするし!」
「お前は褒められるようなことしてねえだろうが! してほしいなら皿洗え!」
「……しょうがないなあ」
とてとてと、キララが歩いてきて皿洗いを始めた。
なるほど、ご褒美を用意してやればちゃんとやるのか。これはいいことを知った。
……どうして俺の『なでなで』が、そんな強力な切り札になるのかは謎だが。
「おやすみー!」
「おやすみっつったからには寝ろよ、マジで」
皿洗いを終え、夜九時のドラマを観終わったところで、とりあえずは就寝の時間だ。
寝室に赤いのと黄色いのを放り込み、電気を消す。すると、部屋から離れないうちに喋り声が聞こえてくる。
「アカネ、さっきのドラマよくわかんなかったー。あの男のひとと女のひとはどういう関係だったのー?」
「何言ってんの、あんなの簡単だし。要するに、あたしとひーくんの関係だし」
「……遊び相手?」
「い・い・な・ず・け!」
「イイナズケってなにー?」
ものすごくバカみたいな会話をしている。
明日は朝から公園で遊ぶんだとはしゃいでいたが(当然のごとく俺も付き合わされることが決定していた)、あれで明日の朝起きることはできるのだろうか。毎日が遠足前日みたいな子供たちだ。
しかし、今日の俺には切り札がある。
「お前ら」
すーっと引き戸を開け顔を覗かせると、二人はビクーッとしてこちらを見る。
「さっさと寝ないと、一生頭撫でてやんねーぞ」
「おやすみなさい!!!」
言い終わらないうちに、すでに布団を被って寝る体勢に入っていた。
どうやら効果覿面のようだ。
『一生』という言葉に、小学生は弱いのである。
まあこれで遅くまでくっちゃべってるということはないだろう。俺は安心してリビングに向かう。
「どうしようねむれない。このままじゃおにーちゃんになでなでしてもらえなくなっちゃう」
「ちょっと、静かにするし! あたしも眠れなくなっちゃうっしょ!」
……寝室から聞こえてきたひそひそ声は、聞かなかったことにしておいてやろう。
翌朝。六時に起こされ、眠たい目をこすってパンを焼きつつサラダの準備。
「はっやっく! はっやっくー!」
「急かしたってトーストが焼きあがる時間は決まってんだよ。大人しく待ってろ」
そんなやり取りを交えながら朝飯を終え、待ってましたとばかりにアカネは玄関に走る。
走んなっつうのに。
「アーちゃんは子供で困っちゃうよねぇ」
「お前もそんな変わんねえよ、マセガキ」
「マセてるってことは大人っぽいってことだし」
「背伸びしてんのがバレバレってイミだよ、マセてるっつうのは」
これ見よがしに溜息を吐きながら、うきうきと玄関に向かっているところとか特に。
オーダーメードのブランド服とかジャラジャラしたアクセサリーとかで着飾っても、中身がガキのままなのだ。
俺なんかマジで行きたくないのに付き合わされてるんだからな。自分で同行を表明したお前は何も言えねえよ。
「おにーちゃーん! ボール投げてー!」
「あいあい」
言われた通りゴムボールを投げてやると、アカネはダッシュで追いかけてなんとかキャッチしたそれを持って俺の下へ駆けてくる。
いや、投げ返せよ。
犬の遊び方だぞ、それ。
「ひーくん、おままごとしよ! あたしがひーくんの奥さんね」
「アカネの相手しながらままごとはハードル高いな。つうか二人で遊んでろよ」
なんで一緒に遊びに来たのに別々の遊びしてんだよ。
ぶうたれるキララをアカネに押しつけ、俺は公園の端にあるベンチに腰掛ける。
背もたれに寄りかかると、「あ”~」という声が漏れ出た。風呂上がりのオッサンか、俺は。
疲れが溜まってるんだろうなあ。
ついこないだまでなら、こんな朝っぱらから活動していることなど考えられない。休日くらい昼過ぎまで寝かせろってんだ。
そんな風に愚痴っぽいことをつらつらととりとめもなく考えながら、遊ぶ小学生二人を眺める。
と、いつの間にか隣に誰かが座っているのに気が付いた。
青みがかった黒髪、眠たそうなたれ目、華奢な身体をオーバーオールで包んだ──小学生くらいの女の子。
「…………」
心のなかで、深い溜息を吐く。
よくよく、小学生に縁があるな、最近は。
いや、まだ縁があるかどうかはわからない。ただ単に隣に座っただけかもしれないじゃないか。小学生なのだ、先客がいようと座りたければ座るくらいの図々しさは持ち合わせているだろう。
そんなことを考えていると、
「いい天気ですね」
話しかけられた。
いい天気ですね、って。
話題に困ったときに出てくる言葉だろ、それ。
隣に座ったからには話しかけないととでも思ったのだろうか。ガキの考えることはよくわからん──アカネやキララ含め。
まあこちらも、話しかけられたからには応えるのが礼儀だろう。
無視して泣きだされても困るし。
「イイテンキデスネ」
棒読みになってしまった。
「あちらの二人は妹さんですか」
「ん? ……ああ」
急に何かと思ったら、砂場で遊び始めたアカネとキララのことを言っているらしい。
「まあ、そんなとこだけど──どうしてわかったんだ?」
「いえ、さっきからじいっとあの二人を見つめていたので。妹さんでないのなら、ろりこんさんかな、と」
「ロリ……っ!?」
なんでそんな単語を知っている、小学生。
というか、やっぱり客観的に見るとそうなるのか、今の状況。
「あのな、お嬢ちゃん……」
「アオイ」
「ん?」
「アオイです。私の名前」
「あ、ああ……」
急に何かと思ったら、名前か。
今どきの小学生は知らない人に名前を教えちゃいけませんって教えられていないのだろうか。
「アオイちゃん、あまり、初対面の人にロリコンとか言うのは、お兄さんどうかと思うぞ」
「休日の朝からこうして小学生女子とたわむれているのがろりこんさんでなくてなんと言うのでしょう」
お前が話しかけてきたんだろうが……!
というツッコミはすんでのところで呑み込む。ここで大声を出したら違う意味で事件になってしまう。
大学生の男(19)、公園で小学生女児を恫喝──なんて記事が明日の新聞の社会面を飾ることになるなんて事態は御免こうむりたい。
それを避けるための最善の一手は、速やかにこの場を立ち去ることだ。
「じゃあ、俺は帰るから」
「あの二人を家に連れ込むんですか」
「その誤解を解きたい気持ちでいっぱいだが、ここはぐっと我慢して失礼させてもらうことにするよ」
「誤解を解くつもりがないというのはその疑いを甘んじて受けるということだと、どこかで読んだことがあります。お兄さんはろりこんさんであるという疑いをその身に甘んじるということでよろしいですね」
「…………」
賢しい子だ。
うちの二人は二十文字以上の文章を口から発することはできないというのに。
まあまあ、ここは大人げないところを見せず、この賢しいガキに花を持たせてやろうじゃないか。ロリコンでもマザコンでもなんでもいいが、たとえこの子がそれを親御さんに報告したところで、警察の捜査が俺のところまで回ってくることはないだろう。
「おーい、アカネ、キララ、帰るぞー」
立ち上がり、いつの間にかアスレチックのコーナーで遊んでいた二人を呼ぶ。
やはりというか、二人はぶーぶー文句を言ってくるが、帰りにアイスを買ってやることを約束し、なんとか説得に成功する。
……こういうのも、お菓子で釣って家に連れ込んだという風に見えるのだろうか。
二人の小学生を連れて公園を出る間際、振り返ってベンチの辺りを見ると、青髪の少女はまだベンチにちょこんと座って、雲を見ているのだろうか、空を見上げてぼーっとしていた。
もしかしたら、誰かと待ち合わせているのかもしれない。あのベンチで待ち合わせていて、だから先客がいてもお構いなしで座ってきたのだとしたら、納得できる。
納得できたところで少女から視線を外し、せっつく赤黄、合わせてオレンジコンビをいなしにかかった。
チャイムが鳴り、待っていたネット通販の商品が届いたかと扉を開けると、そこにいたのは見慣れたジジイだった。
そしてその脇には。
「あ、ろりこんさんです」
「……やあ、奇遇だね、お嬢ちゃん」
見覚えのある青髪の少女が、お泊りセットを詰め込んだようなリュックを抱えて佇んでいた。
「この子の面倒を見てほしいんじゃ」
「もはや直球だな! もう少し前情報を用意しろよ!」
ジジイとアオイ嬢をソファに座らせ、俺はダイニングテーブルの椅子に着く。
「それにしても、せっまい家に住んどるのお」
「一人暮らしだったらこれくらいで十分だったんだよ! 手狭になってるのはアンタのせいだろうが!」
このジジイを相手にすると、つい声がでかくなってしまう。
まだ遅い時間ではないが、最近お隣さんに文句を言われることが多いから自重しなければ。
「──で、この子は一体どういう子なんだ? まさかまた隠し子とでも言うんじゃないだろうな」
「お前は儂をなんだと思っとるんじゃ。そんなことをしたことがあったか?」
「具体例を前にして言うな。この家だけでも二つあんだろうが、具体例」
「とりあえずはその二つだけじゃよ。この子はそういうんじゃあない」
とりあえず、というのが気になるが、とりあえずスルーしておく。
で、隠し子でないというなら何なのか。
「むう、簡単に説明するんは難しいんじゃがの。それでも端的に表すとすると──保護児童、じゃな」
「保護、児童?」
つまり──どういうことだろうか。
いや、ごめん、正直そういうのに詳しくないんだよ、俺。
保護児童って、どういう子供のことなんだ?
「ふむ、順を追って話すとじゃな、この子──雪ノ下葵は、ネグレクトを受けとったんじゃ」
「家庭内暴力……」
「父子家庭でのお。おまけに父親の酒癖が悪いときたもんで、まあ毎夜毎夜、見えるところ見えないところ構わず殴って蹴って──当人を前にして、言うことじゃあないんじゃがの。酷い有様じゃった」
「………」
見た感じ、痣のようなものは見受けられない。ということは保護されてから、それなりに時間が経っているのだろう。
「なんですか、人の身体をジロジロなめまわすように。シカンってやつですか」
「こんな言葉を教えたのはお前か!!」
「いや、儂じゃねえよ」
違う違う、と顔の前で手を振るジジイ。
「そこらへんも、まあ酒癖の悪い親父の影響かの。できるだけ家に帰りたくないから図書館に入り浸っとったって話じゃし、そこらの小学生よりは知識の幅も広いじゃろ」
……知識の幅、ね。
賢しい子だとは思っていたが、そんな事情があったのか。
そう思うと──思うと……、
「何ですか、そんなに私の身体が気に入ったですか、ろりこんさん」
……やっぱ憎たらしいな。
ツラい環境に身を置いていると性格も捻くれてくるのだろうか。
「なんじゃい、ろりこんって」
「知らないなら是非そのままでいてくれ」
まあ、この子の事情はわかった。
わからないのは、それでなぜ、俺に面倒を見てくれという話になるのか。
「もう二人も面倒見とるんじゃし、今さら一人二人増えても変わらんじゃろ」
「二人も増えてたまるか! いや一人増えるのも困るけど!」
今いる二人だって手を焼いているのだ。こんな面倒くさそうなガキを引き取ったらこちらの身がもたない。
「おじいさま、私だってこんなろりこんさんに預けられるのはいやです。身の危険を感じます」
「なんだろう、意見は一致してるはずなのに釈然としない……」
俺、この子にそこまで言われるようなことしたかなあ。
公園で少し話したくらいのはずだが。
「まあまあそう言わずに、老い先短いジジイの後生の頼みを聞くと思って、どうかのお」
「アカネとキララを預かってる時点で相当無理を聞いてるんだっつの」
大体、あと二十年は生きそうだしな、このじいさん。
その二十年の間に何度後生の頼みを聞くことになるやら。
「そうは言っても、もう保護者登録しちまってるしのお」
「勝手になにやってんだアンタ!?」
そういうのって当人のサインとかが必要なんじゃないのか!?
「お前、儂を誰だと思っとるんじゃ。そんくらいの無理は通せるぞ」
「神は最も与えてはいけない人間に権力という名の暴力を与えてしまったようだな……」
こんな子供みたいなジジイに与えてんじゃねえよ、神。
「そういうわけじゃから、まあ、茜と黄星々ちゃん共々、よろしくの」
「あ、おい」
「では、さらばじゃ!」
止める間もなく、ジジイはアオイを置いて部屋を出る。
アカネとキララがその後を追ったが、俺は、そんな気になれなかった。
残されたアオイが、俺を見てぽつりと呟く。
「襲わないでくださいね、ろりこんさん」
「……とりあえず、俺の名前は比内千鳥だ。それを覚えるところから始めようか」
こうして、六月の半ば、梅雨真っ最中。
俺は三人の小学生と、同じ屋根の下、共に生活することになったのだった。
なってしまった、と言うべきかもしれない。




