一章 『出会い、それは憂鬱のはじまり』 《前》
「よお千鳥。おっひさ~」
「おっひさ~じゃねえよ。もうちょっと年齢考えた挨拶しろよ」
「なにを言うか、儂もまだまだ現役じゃぞ」
「頼むから引退してくれよ」
二週間前、六月の上旬。
俺は、大学入学に当たって二カ月前に出た家に、呼び出しを食らって出戻っていた。
立派な家々が立ち並ぶ東京の高級住宅街に門を構えるバカでかい屋敷の、大きな書斎──俺のような平凡な人間には似つかわしくない実家だ。
呼び出したのは、目の前の高そうなチェアにふんぞり返っている、長い白鬚を顎に蓄えた老人だ。こないだ喜寿祝いのパーティを盛大に開いていたのは記憶に新しい。
この大きな屋敷の主であり、大昔にこの辺りを統べていた大地主の家系の現当主。
比内次郎吉──俺の、父親である。
父親。
祖父ではなく、父親。
俺が今年で十九歳だから、この七十七歳のジジイが五十八歳のジジイだったときにこしらえられたということになる。
それだけならまあ、元気なジジイが頑張っちゃったねというだけの笑い話なのだが──笑えないのは、俺の母親が、このジジイの本当の妻ではなかったというところ。
有り体に言って、愛人である。
つまり俺は、その愛人の子。実家が嘘のようにでかいわりに俺自身は特に金を持っているわけではないのは、その辺りが原因だ。
産み落とされ、認知されてこの家に引き取られたものの、愛人の息子の待遇など、想像に難くないだろう。
しかし事実は想像の上をいく──なんてのが常套句ではあるが、まあ、おおよそ想像通りだと思ってくれてかまわない。
ジジイの本当の子供たち──俺の義理の兄姉たちは露骨に嫌がらせをしてくるし、周りの大人たちからは腫物を触るように遠巻きになにやらひそひそと陰口を叩かれる毎日。
唯一他の子どもたちと分け隔てなく接してくれたのがいま目の前にいるこのジジイなのだが、そもそもが碌な人間ではないので大した救いにはならなかった。
だからこの春から俺は念願叶って一人暮らしをはじめ、もう二度とこの家には帰るまいと心に誓っていたのだが──
「なんなんだよ、急に呼び出して。言っとくがここに戻るつもりはないからな」
「わかっとるわかっとる。そこに関しちゃお前の好きにすりゃあええ。ただちょっと、頼みたいことがあってな」
「頼みたいこと?」
なんだろう、嫌な予感しかしない。
昔っから、このジジイが俺に『頼み事』なんてのをするときは碌なことを言ってこなかったものだ。
幼かった素直で純真無垢な千鳥少年はなんとか父親の願いを叶えようと奮闘したものだが、成長して社会ずれした俺には素直に頼みを聞いてやる義理はない。
ただ、そう思うなら一顧だにせず帰ってしまえばよかったのだ。
今すぐに背後にある高そうな扉を開き、屋敷を後にすればよかった──そうしなかったことを、後の俺は大いに後悔することになる。
話を聞くだけなら構わないかと油断していた俺が馬鹿だった。
「ちょっくらついてきな」
「あん?」
立ち上がったジジイが俺の横を通り過ぎ、扉を開けて廊下に出る。
そのままいずこかへ歩き去ろうとするので、俺は慌てて後を追う。
ジジイが外出着でないところを見るに、外に出るわけではないのだろうが──だとしても、どこに行くのか見当はつかない。屋敷の中だって数えきれないだけの部屋があるのだ。
いくつもの扉の前を通り過ぎ、ようやく立ち止まったのは、俺にとっては見慣れた扉の前だった。
家を出る前に俺が使用していた部屋であり──今は使われていないはずの部屋だ。
「なんだよ、忘れ物した覚えはねえぞ」
「違う違う、どっちかってえと儂の忘れもんじゃな」
「……アンタの?」
どういう意味だろうか。
俺が家を出ることになったときも、特に餞別のようなものはなかった──それはこのジジイなりの線引きの結果なのだろうが(これでも社会的地位をもつ人間だ。体面というものを気にしなければならない立場なのである)、今になって気が変わったのだろうか。
だとしても、こんなところに連れてくる意味はわからないが。
「まあ、見りゃあわかるさ」
そう言って、ジジイは内開きの扉を押した。
その部屋の中に、あったものは。
「あ、おじーちゃん! 遊んでくれるの!?」
「なんだ、一人遊びは飽きちまったかい」
「うん、ひとりじゃつまんない! 遊んでよー!」
「あいあい、ちょっくら待ってなな」
ミサイルのような勢いで老体に飛びかかってきたのは、小学生くらいの少女だった。
天然のクセの入った赤毛に、溌剌としたエネルギーを感じる顔立ち。身に着けているものはこの屋敷に似つかわしくない、ユ○クロで買ってきたような安物のプリントTシャツと短パンだった。
この屋敷に似つかわしくない──つまり、俺と、同じ。
「おい、この子は……?」
想像してしまった答えに、問いただす声が掠れる。
じゃれつく赤毛の少女の相手をしていたジジイは、こちらに振り向き、快活な笑みを浮かべて答えた。
「倉石茜。お前の妹じゃよ──義理じゃけどな」
「義理の、妹……」
その答えが、何を意味しているのか。
その答えは、どういう事実を示しているのか。
理解できなかったわけではない。むしろ答えを聞く前から、予想はしていた。
けれど、理解したくなかった。予想を裏切ってほしかった。
だって、それは──
「そう、義理の妹じゃ。つまり、」
意識が現実から乖離しつつある中、ジジイの声が耳朶を打つ。
やめろ。その先は、聞きたくない。
「お前と同じ、儂が外の女に産ませた子じゃよ」
ばちぃん!というでかい音がして、老人が床に倒れ込む。その頬が、赤く腫れていた。
それをやったのは、他でもないこの俺だ。
俺が、七十七歳の老人の頬に、平手を打ったのだ。
「ちょっとおにーさん! おじーちゃんに何すんの!」
赤毛の少女──茜というらしい少女が、食って掛かってくる、
何すんのと言われても、俺自身、どうしてこんなことになってしまったのか自分でわからない。
まったく抵抗がなかったわりにやけに痛む掌を押さえ、俺は茫然と立ち尽くす。
「ぼーりょくはいけないんだよ! ちゃんとあやまんなきゃダメ!」
「いいんじゃ、茜。悪いのは儂じゃ、コイツが謝る必要はない」
腫れた頬に手をやりながら状態を起こす老人。その瞳には怒りの色はなく、ただただ悲哀に似た何かに満ちていた。
「お前にも、苦労かけてきたからのお。怒るのも無理はない」
怒る?
俺は怒っているのだろうか。
「お前のことに関しても、茜のことに関しても、全面的に儂に非がある。すまなかったのお」
すまなかった?
俺は謝ってほしいのだろうか。
「もう、いいよ」
力なく、俺は呟く。
もう何も、聞きたくない。
できるなら今すぐに耳を塞いでしまいたい──いやむしろ、この場から立ち去ってしまいたい。
その一心で踵を返そうとする俺を、ジジイが引き留める。
「待て、千鳥。話は終わっとらん。言ったじゃろ、頼みたいことがあると」
「あん?」
知らず、声が冷たくなる。
振り返らず、扉に向かった姿勢のままに先を促す。
「この子の──茜の面倒を、お前に見てもらいたいんじゃ」
「…………は?」
ジジイの話によると、茜の母親は、茜の面倒を見ながら生活するほどの経済力がなかったらしい。
ジジイの方から資金援助の話は持ちかけていたそうなのだが、気位が高かったらしい彼女は毎度その話を蹴っていたのだそうだ──そのせいで一人娘の面倒を見切れなくなってジジイに預けることにしたというのだから、なかなかに本末転倒だが。
しかしジジイとしても、素直に預かることはできなかった。
なにせ俺という前例がある。普通に預かっても、茜に窮屈な思いをさせてしまうことは想像に難くなかっただろう。
ただ、だからといってすげなくすることもできない。このままでは茜も母親も、まともな生活を維持することはできなくなる。
どちらを取っても行き止まりの八方塞がり。そうやって頭を抱えていたジジイが思い至ったのが、俺の存在だった。
一人暮らしでもう一人面倒を見る程度のスペースの余裕があり、自分自身が虐げられていた経験から他人に対して同じことをする心配も少ない。
そういった条件から、茜の面倒を任せるに相応しいと判断した──と、いうことらしい。
ふざけんな。
それのどこに俺の意思があるってんだ。
「嫌ならそれでよい。あえて無理強いはせんよ──その場合は、儂が責任をもって面倒を見る」
「そんなん……それができないって判断したから、俺に頼ってきたんだろうが」
卑怯なやり方をする。
こんな風に迫られたら、断るなんて選択肢はないではないか。
そして、それ以上に。
「この子の意思は、どうなんだよ」
やむを得なかったとはいえ母親に見捨てられ、預けられた先でも面倒を見ることはできないと言われ。
そうして、終いには見ず知らずの男に預けられるなんて、当時の俺よりよっぽど酷遇ではないか。
どうやらジジイには懐いているらしいし(おそらく唯一心を開ける相手なのだろう。俺を見る目とジジイを見る目では別物だ)、母親に続いて父親とも離れ離れなんてことを、こんな子供が看過出来るはずがない。
「茜にはちゃんと話を通しておる。お前のところに行くことに納得してくれておる」
「こんな、子供に、正しい判断ができると思ってんのか!!」
信頼する相手にこうしろ、ああしろと言われればよく理解できていなくても頷いてしまう。だからこそ、ちゃんとした判断能力が育つまでは大人が導いてやらなければならないのだ。
正しい道を、教えてやらなければならないはずなのだ。
「それを、アンタは──ただ責任逃れしてるだけじゃねえか」
声を荒げながら、しかし俺は、段々と怒りが冷めていくのを感じていた。
このジジイに、自分の決定を曲げるつもりはない。
きっと、最初から俺に預けることを想定した上で、茜を母親から引き取ったのだ。
そう思うと、怒る気にもならなかった。
怒りよりも、失望、落胆の気持ちの方が強い。
この男は、こんなにも、情けなかっただろうか。
こんなにも、小さかっただろうか。
兄姉たちに虐げられるなかでただ一人変わらず接してくれたあの大きな父親の姿は、どこに行ってしまったのか。
「……いいよ、わかった」
力なく肩を落として、俺は呟いた。
この男には、任せられない。
俺が、この子の──茜の面倒を見てやらないと。
「茜は、俺が預かる」
「おじゃましまーす」
明かりをつけたばかりの部屋に、赤毛の少女が上がり込む。
俺も続いて靴を脱ぎ、茜の分も揃えてリビングに向かった。
「とりあえず、晩飯作るか」
「ばんめし? ばんごはん!? なに作るの!?」
「んーっと、確か昨日の炒め物が残ってたはずだし──遅いからメシ炊く時間はないか……うどんでも茹でるかな」
「ばっんごはん♪ ばっんごはん♪」
嬉しそうに飛び跳ねる茜。けっこうな体験をしてきたわりにあまり擦れた感じはしない。俺なんかは、引き取られたばかりの頃はもう世界のすべてが敵のように見えていたものだが。
その辺りのケアは、大人たちがちゃんとしていたのだろう──逆に言えば、なぜそこまで出来ていたのにこんなことになってしまったのかというところが疑問だが。
「はあ、二人分作るのめんどくせえなあ」
普段ならば面倒臭いときはコンビニ弁当で済ませればいいのだが、これからはそうもいかなくなってくるのだろうか。
まあ、仕方ないか、俺が選んだことだ。
子供じゃないのだから、選択の責任を他に求めるべきではあるまい。
「じゃ、うどん茹でてる間に、先に風呂入ってな」
「おふろ? 一人で?」
「ん?」
そりゃあ一人でに決まっているだろう。もっと小さい子供ならまだしも、ジジイが言うにはもう小六という話だし、風呂に一人で入るのは当たり前だろう。うどん茹でる間目を離すわけにもいかないし。
それとも──いや、まさかな。
「おじーちゃんはいっしょに入ってくれたよ」
「嘘だろ……?」
まさかだった。
甘やかしすぎだろ、あのジジイ。
「ジジイがどうだったかは知らねえけど、俺は一緒になんか入んねえぞ」
「ええ~っ!」
そんな声出してもダメです。
大体義理の妹とはいえ、女の子と一緒に風呂に入るというのは色々とマズいのではないだろうか。
ここは心を鬼にして──
「ふぎゅうぅうう」
「お、おい、泣くなって! わかった、一緒に入るから!!」
涙を見せられては強硬手段に出ることも難しかった。
どうやら、俺もジジイのことを言えないくらい子供に厳しくなれないらしい。
こうして、俺は義理の妹・倉石茜との共同生活を開始したのだった。
*
「おにーちゃあん」
とてとてとて、とフローリングを裸足で駆ける音がする。
「アカネ、室内で走るのはやめなさい」
駆け寄ってきた赤毛の少女に一応注意する。何回言っても聞かないのであまり意味はない気がしてきたが。
ばふっ、と駆けてきた勢いのままで腹に抱き着いてくる。これも何度も注意しているのだが一向に改善する気配がない。腹が痛くなるから本当にやめてほしいのだが。
しかし、『おにーちゃん』という呼び方もそうだが、随分懐かれたものだ──うちで面倒を見ることになってから、約一週間。どうやら俺はこの少女の信頼を勝ち取ることができたらしい。
腹にひっついた少女の赤い頭を撫でてひっぺがすと、右手に何かを持っていることに気が付いた。
見ると、置き電話の子機だ。
「おにーちゃんにでんわー」
「電話? 誰から?」
大学の友人にしてもバイト先にしても、簡単な連絡ならばLINEで済ませる。電話するにしてもスマホにかけてくるだろうから、家にかけてくるような電話に心当たりはない。
なのでまあ勧誘か何かのアンケート調査だろうと当たりをつけて保留を解除する。
「電話代わりました、比内です」
『小学校で倉石茜さんの担任をさせていただいております、嘉鳥と申しますが』
「ぶふう!?」
吹いた。
え、小学校の担任? なんでそんなところから電話が?
……ああ、いまは俺が保護者扱いなのか。
『あの、大まかな事情はお父様から聞きました。それでですね、一度茜さんを交えて三者面談をさせていただきたいのですが』
「はあ、三者面談……」
そうか、アカネの面倒を見るってことは、学校のことも気にしないといけないのか。
つうかジジイ、学校に事情を説明する前に俺に一言入れろよ。
『つきましては、日程のご相談をさせていただきたいのですが』
「えっと……ちょっと待ってください」
スマホのスリープを解除し、スケジュールを確認する。
丁度明日の夕方が、バイトもなく予定が空いていた。
「それじゃ、明日の四時ごろでいいですか」
『はい、明日の、四時ですね』
一言ずつ区切って丁寧に確認する担任教師。
声からすると二十代ごろの女性のようだ。あまり俺と年が離れていないように感じるが、新任なのだろうか。
『では、その時間にお待ちしています──失礼します』
通話が切断され、ツー、ツー、という音が続く。
しかし俺は『切』と書かれたボタンを押すことなく、その場に立ち尽くしていた。
「三者面談……」
ゆっくり息を吐いて、ぽつりと呟く。
「めちゃくちゃめんどくせえええ……」
六年以上前のことを思い出しながら、リノリウムの廊下をスリッパで歩く。
小学校時代、一番憂鬱な行事が『三者面談』だった。
今回は保護者としての参加とはいえ、気分的には大差ない。そもそも『教師と向かい合って真面目な会話をする』というイベントが苦手なのだ。高校大学も、面接が嫌だからという理由で頑張って都立・公立校に入ったくらいだ。
今まで経験した面接は現在お世話になっているバイト先に応募したときだけである。
「おにーちゃん、こっちこっちー!」
「わかったから走るな──外でもこんな注意させんなよな」
担任さんの苦労が偲ばれる。今からその担任さんとご対面するわけだが。
……ま、学校での生活態度を親にチクられるわけじゃないのだ──むしろチクられる側なのだ。気楽に臨もうではないか。
「失礼します」
教室の引き戸を開け、中に入る。
入ってすぐ正面に机が向かい合わせに二つずつ設けられている。
手前側の二つは俺とアカネの席なのだろう。そしてその向かいには、すでにキッチリしたスーツに身を包んだ女性が座っている。
女性はこちらの存在を確認すると、立ち上がってぺこりとお辞儀する。
「お待ちしておりました。茜さんの担任の嘉鳥と申します」
電話口で聞いた自己紹介を繰り返す嘉鳥先生。
慌てて俺もお辞儀する。
「あ、ええと、一応アカネの保護者ということになってます、比内です。今日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします──どうぞ、おかけになってください」
指示通り、用意された席に着く。こういう、いわゆる『学校の机』に座るのも久々だ。
ちっちぇえな、この机。
「では、面談を始めたいと思います」
「よろしくお願いします」
向かい合ってもう一回お辞儀。
ほら、アカネもちゃんとしなさい。
「えっと、それではまずは……一応、事情を説明していただきたいんですが」
「あ、ですよね」
そりゃそうだ。ジジイからある程度の説明は受けているはずだが、あのジジイの説明でどれだけ理解できるのかという話だ。
とはいえ、まさかすべてをつまびらかにするわけにもいかない。
アカネが母親に見捨てられたことなど、アカネも嘉鳥先生も、聞きたいことではないだろう。
というわけで当たり障りのないこと──俺とアカネが腹違いの兄妹であること、色々あって俺が面倒を見ることになったことなど──だけを説明し、それで納得してもらうことにした。
「なるほど……概ねの事情はわかりました。では、今後の、保護者会などの相談をさせていただきたいのですが」
「ああ、はい」
保護者会か──めんどくさいが、面倒だからという理由で欠席するわけにもいくまい。
保護者会に限らず、今後は運動会やらの学校行事にも参加しなくてはならなくなるのだろう。
大学はまだいいが、バイトになかなか入れなくなると思うと、残念ではある。生活費については、ジジイが多少優遇してくれるらしいのだが。
そんな感じで面談は進み、アカネの話になる。
「学校では、大人しいいい子なんですが、家ではどうですか?」
「大人しい?」
意外だ。
家ではどうと訊かれると、落ち着きのないお転婆娘という感じとしか言えないが、学校ではそうではないのか。
大人しいアカネというのも、なかなか想像できないが。
横に座るアカネを見ると、ちょっと照れたような顔をしている──おお……ずっとそういう顔してりゃ可愛げがあるのに。
やはり学校での様子を保護者に報告されるのが恥ずかしいのは万人共通らしい。
「大人しいって、どういう感じなんですか? 休み時間も一人だったり?」
「ああいえ、友達がいないというわけではないんですが、やはり積極的になれないと言いますか……」
「積極的になれない……」
これもまた、意外ではある。
家でのアカネは、初日の風呂の件もそうだが、自己主張は強い方だ。
相手をしてほしいときは「あそんでー!」と腹に飛びついてくるし、腹が減ったら「ごはんー!」と腹に飛びついてくるし、眠くなったら「ねるー!」と腹に飛びついてくる──いや、風呂とメシはともかく、寝たいなら勝手に寝ろよ、と、そんなことを言ってもこの元気っ子は聞きやしない。
この一週間で俺の腹は陥没したのではないかと心配になるくらいだ。
それが学校では、自分の意見を言えない大人しさんだというのか。
「それがいけないということではないんですが、家では違うとなると、少し心配ですね……」
「まあ、たしかにそうですね」
家と学校で性格が違うというのはままあることだとは思うが、アカネの場合、『家の事情』という明確な心配事がある。
かつて一人でアカネを育てた母親に対する負い目か、生活が厳しくなったのを見かねて引き取らざるを得なくなったジジイへの負い目か、あるいはジジイに無理矢理押し付けられた俺への負い目か。
家でのアカネと、学校でのアカネと、どちらが本当のアカネなのか。
……保護者としては、そこを無視するわけには、いかないのだろう。
「学校では私が、担任として極力目をかけられるように致しますので、どうかこれから、協力していけたらと思っております」
そんな風に嘉鳥先生が締めて、三者面談はそこまでとなった。
最後にまた丁寧なお辞儀をする先生を尻目に、教室を出る。
隣を歩くアカネの顔は、話を聞いていたのかいなかったのか、何も考えていないような能天気な顔をしている。
「なあ、アカネ……」
「ん? なに、おにーちゃん?」
「……いや、なんでもない」
その明るい笑顔を見ていると、「お前、俺に気を遣って笑ってるのか?」なんてこと、訊けるわけがなかった。
質問を諦めて、代わりに頭を撫でてやる。するとアカネは猫のように喉を鳴らして、くすぐったそうに笑った。
この笑顔が、偽りのものとは思えない。
それだけで、少し、気が楽になったような気がした。
「あ、アーちゃん!」
不意に、前方から甲高い声がした。
見ると、前方には黄色い髪の小学生が、こちらに向かって手を振っている。
周りを見回すが、俺らの他に人は見当たらない。ということは、俺たちに話しかけているのだろう。
アーちゃんというのは、アカネのことだろうか。
金髪の小学生は、生意気そうな顔に無邪気な笑みを浮かべて駆け寄ってくる。
「アーちゃん、どうしたし? 居残り?」
「アカネはねー、さんしゃめんだん」
「そうなの? あたしはねえ、パパがむかえに来るって言うから待ってるんだし」
仲良さげに話す二人の小学生。どうやらアカネの友人らしい。
「アカネ」
声をかけると、アカネは振り向いて紹介する。
「この子はねー、キーちゃんって言うの!」
「あだ名で紹介すんのやめろ」
「あたしは白金黄星々っていうの」
アカネと違って黄色い子はちゃんと自己紹介できるいい子だった。
つうかキララってどう書くんだ。キラキラネームというやつだろうか。
「そう言うおじさんは誰だし?」
「おじっ……」
そうか……小学生にとって大学生はおじさんか……。
せめてお兄さんと言ってほしかった。アカネは初対面でも『おにーさん』と呼んでくれたものだが。
そんな悲哀に打ちひしがれていると、アカネが代わりに俺の紹介をはじめる。
「このひとはねー、アカネのおにーちゃんなの!」
「お兄ちゃん? アーちゃん、お兄ちゃんいたの?」
首を傾げる黄色頭の小学生。
そこらへんの事情は小学生には難しいだろうので普通に兄と名乗っておくことにした。
「アカネの兄の、千鳥って言うんだ。アカネと仲良くしてやってくれな、キララちゃん」
言って、ついアカネにするように頭を撫でてしまった。
するとキララちゃんは、呆けたような顔をする。
やべ、これダメなやつだったかな。通報されないよね、大丈夫だよね?
そんな風に心配していると、やがて少女はにぱっと笑う。
あ、大丈夫だったみたい。
ホッとすると、キララちゃんは笑顔のまま続ける。
「おじさんカッコイイね! あたしケッコンしてあげてもいいし!」
「……はっはっは、そう思うならまずおじさんって呼び方をやめようか」
今日びの小学生は大分マセているらしい。
まあ俺も、ガキの頃は幼馴染相手に結婚の約束をしていた気もする。
いまいずこ、あの幼馴染。
再会ルートはないのだろうか。
「黄星々」
不意に、低い声がした。
振り返ると、高そうなスーツを着込んだ社長風の男が佇んでいた。
キララちゃんの名前を呼んだところを見るに、おそらく迎えに来るという父親なのだろう。
キララちゃんは父親の顔を見て花のような笑顔を咲かせる。
「パパ! おっそいしぃ!」
「すまないな、仕事が長引いてしまって」
申し訳なさそうに頬をかくキララちゃんの父親。
固そうな男だが、娘には弱いらしい。
その様子を微笑ましげに眺めていると、不意にキララ父がこちらを見て、不思議そうな顔をする。
「おや、キミは──」
「?」
なんだろう、どこかで会ったことがあっただろうか。
不思議そうな顔は、俺も同じだっただろう。が、続いた発言に、その顔は固まることになる。
「ああ、そうだ──思い出した。キミ、比内会長の息子さんだろう」
「……へ?」
比内会長。
俺の父親、あの道楽ジジイのことだ。大昔に地主をしていた我が家系が発展していくなかで築いた『比内グループ』なる大会社の会長をしているのである。
だから、彼の言っていることは的外れではない──だが、逆になぜ、そんなことを知っているのか。
いぶかっていると、キララ父は軽く微笑む。
「いや、急にすまない。会長にはお世話になっていてね。社交パーティでキミを見かけたことがあってね」
「……はあ、そうですか」
まあ、そんなこともあったかもしれない。昔は俺もジジイに言われるまま色々とパーティに行かされていた。
見かけた程度なら詳しい事情までは知らないだろうし、身構える必要はないか。
「それでは、私はこれで失礼させてもらうよ。仕事がつかえているのでね」
「ええ~、まだ仕事あるの~!?」
「すまないな、黄星々。明日は休みだから、遊園地にでも行こう」
「わあい! 遊園地~!」
はしゃぐ娘を連れて、キララ父は行ってしまった。
このあと、まさかあんな展開が待っているとは、俺は思ってもいなかった。




