六章 『誓い、それは覚悟の表れ』 《後》
疑問符に脳内を埋め尽くされながら、なんとか我が家に──誰も「おかえり」と言ってくれることのない我が家に、辿り着く。
見送ってくれたコマちゃんの姿がないことに疑問を抱く前に、電話が鳴った。
「………」
帰ってきた瞬間を狙い定めたようなタイミング。
こんな嫌がらせのような電話をかけてくるような心当たりは、ひとつしかない。
「大吉兄さんか」
『よくわかったな』
昼間、実家に行ったときにその姿は見当たらなかったが、いま帰ってきたのか、それとも出先からかけてきているのか──細かいことを気にしているとは思うが、それくらい、一挙手一投足を警戒しないといけないような相手なのだ。
「なんか用ですか、オニイサマ」
『そう邪険にするな。今日はただの事務連絡をするだけだ』
「事務連絡ぅ?」
なんだそれ。
俺は別に比内家の仕事を手伝っているわけではない。事務連絡なんて、心当たりがないが。
『父さんの葬儀の、日程が決まった』
「……そうか」
先ほどのキララの父親の言葉が蘇る。
キララとの婚約関係を破棄したのは、じじいからの申し出だった。
その言葉の真意はわからない。大吉からは婚約破棄を言い出したのはキララ父という話だったのに、そこの食い違いはどういうことなのか。
いま電話の向こうに確認すればいいだけの話なのかもしれないが、もしも大吉が嘘を吐いていたのだとすると、素直に本当のことを話してくれるとは思えない。
結局、俺は何も訊かず、葬儀の日程をメモしただけで電話を切った。
大吉に告げられた葬儀の日程は、次の日曜日だった。
式自体は家族親類のみで執り行われるが(ここに俺が呼ばれているというのは些か驚きだ)、そのあとに知人縁者を迎えて送別会が開かれる。
あんなんでも、一応は国内有数の有力者だったのだ、色んなところに顔が利き、その死を弔おうという人間は多い。経済界、政界、教育界──様々な種類の有力者たちが、その送別会で一堂に会することになる。
とは言っても、結局はそれを利用した『顔合わせ』が本来の目的だろう。
黙祷なんて二の次で、ほとんど社交会のように名刺が飛び交うことになるだろう。
そんなところ、頼まれても行く気にはなれないが──今回に限っては、そうも言ってられない事情があった。
葬儀には、アカネが来る。俺と同様、一応は比内次郎吉の子供として。
そのあとの送別会には、キララが来るはずだ。比内グループと提携していた<エクラン・プラチナム>の社長である白金氏が来るのは当然として、その娘のキララも故人(の息子)に世話になった身として、顔くらいは出すはずだ。
アオイが来るかどうかは、ちょっとわからないが──しかし、コマちゃんが「何とかしてみせます」と言っていた。
具体的に何をするつもりなのかはわからないが、あそこまで言い切ったのだから、信じてみてもいいと思う。
ということで、今度の日曜日──比内次郎吉の葬儀、送別会にて、俺、アカネ、キララ、アオイが、久々に一堂に会するのだ。
一世一代の大チャンス。
そこで、俺は絶対にあの三人を取り戻してみせる。
あの遠い日常を、掴みとってみせる。
*
線香の匂いに鼻孔をくすぐられながら、俺は寺の施設内に足を踏み入れた。
ここは、比内家が代々世話になっている寺らしい。先代会長も、その更に先代も、亡くなったときはここで葬儀を上げたという。
俺が暮らす地域からはそれなりに距離があるので(電車賃が気になるくらいには離れている)頻繁に訪れる場所ではないが、そういう事情もあって、見慣れた場所ではあった。
「前に来たのは、なんのときだったかな……」
「大館の伯母様が亡くなられたときだ。それくらい覚えておけ」
「!」
何気ない呟きに返答があり、俺は肩を強張らせる。
いまこの場にいるのは、この寺の関係者でなければ比内の人間だけのはずだ。
幸い、大吉ではない──が、同じくらい、会いたくない相手ではあった。
比内中。
比内次郎吉の第三子、次男であり、俺にとっては次兄に当たる。
比内グループの役員でもあり、普段は黒髪をかっちりしたオールバックに固め、三つ揃いのスーツで決めたビジネスマンの鑑のような恰好をしているが、今日は冠婚葬祭用の真っ黒い礼服に身を包んでいる。
大吉同様、愛人の子である俺を憎んでいて、小さい頃はよく嫌がらせを受けた。
「……ご無沙汰ですね、中兄さん」
「沙汰を寄越すべきは目下のものだろう。つまりお前が寄越すべきだ」
兄弟を目上、目下で分けるのはいかがなものだろうか。
というか、社交辞令に噛みつかれても困る。
「俺から電話をしたって、兄さんは出やしないでしょう。俺のこと、嫌ってるんですから」
「……フン、そうやってへらへらしたツラを見せられるのが一番気に食わん」
兄姉たちの前で愛想笑いが出てしまうのは小さい頃から刷り込まれた癖のようなものだ。
どんな嫌がらせを受けようとも刃向かわず、愛想笑いで返す。そうしているうちに、その内この中と、長女の末子は俺に近づきもしなくなった。
大吉だけは、執拗に俺を嫌い続けていたけれど。
「俺は色々とやることがあるから、先に行く。精々大人しくしておけよ」
「……はい」
やることがあるのにこうして話しかけてきたのは、彼なりの歩み寄りだったのかもしれない。少なくとも昔であれば、こういう場であろうと、彼は俺のことを無視していただろう。
まるで存在しないもののように。
それでも話しかけてきたのは、彼の方に心境の変化があったのか、それともどんな憎しみも時間は風化させてしまうということなのか。
いずれにしても、人と人との関係は、いつまでも同じというわけではないのだろう。
良い方向にしろ、悪い方向にしろ、変化する。
だとすると、俺ばかりが『昔』と同じように接してしまったのは失敗だったかもしれない。
そう思って、俺は奥に行こうとする中の背に声をかけた。
「兄さん」
「……なんだ」
「……ええと、」
かけたはいいものの、何を言えばいいのやら。
「あ、そうだ──大吉兄さんの奥さん、どこにいるかわかりますか?」
「……大人しくしておけと言うのは、下手に動き回るなという意味なのだぞ」
馬鹿を見る目で見られるが、俺もただジジイの遺影の前で手を合わせるためだけにこんなところに来たわけではないのだ。
やることはちゃんとやらねば。
「菜々海さんはまだ来ていない──ここで待っていれば、そのうち来るだろう」
結局、探し回られるよりはマシだと思ったのか、それだけ言って中は再び背を向けた。
中の言っていた通り、菜々海さんはすぐに現れた。
漆黒のドレスを身に纏ったその姿は、深窓の貴婦人という言葉を連想させる。
彼女は待ち伏せていた俺を視認すると、薄く微笑み、歩く速度を変えずに近づいてきた。
「こないだぶりね。私を待っていてくれたのかしら?」
「ええ、まあ。エスコートが必要かなと思いまして」
「あら、嬉しい」
芝居がかった仕草で手を出すと、菜々海さんはまた微笑んでちょこんと自分の手を重ねた。
まさか乗ってくるとは思っていなかったので、俺はその手をまじまじと見つめてしまう。
「ふふふ、慣れないことはするものじゃないわよ」
「……そう言うあなたは、なんだか慣れてますね」
「あら、これでも社交パーティでは引く手数多だったんですからね」
普通は社交パーティに参加すること自体そうないことだと思うんだが。
……まあ、これは調子に乗った俺が悪かったな。
いたずらっぽい笑みを浮かべる菜々海さんは、すぐに重ねた手を引っ込める。向こうも向こうで、俺のことをからかったつもりなのだろう。
向こうの方が一枚上手だったようだが、しかしこれで待ち伏せの理由から意識を逸らせたなら──
「それで、本当はどういうつもりで待っていたの?」
「……えーっと、」
誤魔化せていなかった。
別に隠すようなことではないのだが、しかし素直に言ったところで、相手にされずに終わるだろう。
ここは、のらりくらりと躱して油断するのを待つか……。
「ちなみに、茜さんだったら大吉さんが先に連れて行ったわよ」
「えっ」
バレバレだった。
一枚というか、菜々海さんの方が何枚も上手らしい。
この前会ったときから何を考えているのかわからないひとだと思っていたが、向こうからすればこちらの考えなどお見通しだということか。
「あの人、どうしてもあなたを茜さんに会わせたくないみたいね」
「……それは、あなたも同じでしょう」
「あら、そんなことないわよ」
恨みがましく言うと、菜々海さんはとぼけた顔を作って返してくる。
いや、この間会わせてくれっつっても会わせてくれなかったでしょう。
「あのときは、まあ確かにそうだったけれど」
「……いまは違う、と?」
「そうねぇ──あなた、あのとき私に訊いたでしょう?」
「……どれのことです?」
あのときは、色々なことを尋ねたはずだ。
『アカネに会わせてもらえませんか』もそのなかのひとつだったが──
「ここでなら、アカネは幸せになれますか──って」
菜々海さんは、そのときのことを思い出すように遠い目をして窓の外を見やる。
「私はあのとき『幸せにしてみせる』って答えたけれど──」
そうだ。俺は、その言葉を信用して、何も言わずに部屋を出たのだ。
あのあとでコマちゃんに怒られ、その選択は間違いであったと、考えを改めたけれど──
「私は、間違っていたのかもしれない」
「え?」
まるでこちらの台詞を先取りするかのように、菜々海さんはそんなことを言ってきた。
「茜さんね、ちっとも笑わないの」
「………」
「初めて会ったときから、一度も。最初はそういう子なのかなって、思っていたのだけれど……」
それは、違う。
俺と暮らしていた頃のアカネは、よく笑う子供だった。
笑顔でないときの方が少ないのではないかと思えるほどに、いつも天真爛漫に、歯を見せて笑っていた。
キララとケンカしたときだって、最後には、きちんと自分から仲直りして笑って見せた。
その笑顔を守りたいと、そう思ったから、俺はもう一度アカネを取り戻す決意をしたのだ。
「そうね、私も、一緒に暮らしはじめてわかったわ。あの子は、きっと笑顔が素敵な子だ、って──だから、ね、千鳥くん」
菜々海さんは、俺の目を見て、言った。
「あの子の居場所は、あそこじゃない──私のところじゃ、ない。『幸せにしてみせる』なんて言ったけれど──それを決めるのは、私じゃなくてあの子なのね。あの子が幸せになるためには、必要なのは私じゃなくて、あなただわ」
だから、と、彼女は言う。
「茜さんのところに、行ってあげて」
「勝手なことをされては困りますよ、菜々海さん」
アカネのいるところへ案内してくれるという菜々海さんについて寺社の中を歩いていると、不意にそんな声をかけられた。
前を行く菜々海さんは、溜息を吐いて振り向く。
「あら、私はこのお寺の中を歩き回ってはいけないのかしら?」
「そういうことを言っているんじゃありません」
いたずらっぽく笑みを浮かべる菜々海さんに呆れ顔を見せるのは、彼女の夫。
比内大吉だった。
「俺が言っているのは、そいつを連れまわすのはやめてくださいという話です」
そう言って、大吉はこちらに視線を向ける。
睨みつけるようなその視線に、思わずたじろぐ。
「この子のこと気に入ってしまったのだもの。別に構わないでしょう?」
「……このまままっすぐ行けば茜のいる部屋がある気がするんですが?」
「そうだったかしら」
のらりくらりと大吉の追及を躱す菜々海さん。
普段からこんな調子なのだとすると、ちょっと大吉が気の毒に思えてきた。
「菜々海さん、俺の言ったことを忘れたんですか。そいつを茜に会わせては──」
「あら、どうして?」
「……意地の悪い」
「こういう私を選んだのでしょう、貴方は」
大吉はついに諦めて肩を竦めた。
菜々海さん、強ええ。
大吉がラスボスだとばかり思っていたけど、この感じだと裏で糸を引いていた真の敵がいたパターンかもしれない。
なんて、変な感心をしていると、菜々海さんへの追及を諦めた大吉は矛先をこちらに向けてきた。
「千鳥、少し話がしたい」
「……葬儀がそろそろ始まるだろ」
「いいから、ついて来い」
その言葉には、有無を言わさぬ迫力があった。
抵抗できないと悟り、俺は素直に頷く。
それを見て、大吉は菜々海さんの脇を通り過ぎ、勝手口のある方向に足を向けた。
勝手口から、外に出る。
庭園のようになっているそこは、何度か来たことのある場所だった。
先ほど話に出た大館の伯母さん(具体的にどのような血縁だったのかは忘れた)の葬式をはじめとした色々な用事でこの寺を利用した際、暇になるとここに来て虫やら花やらを眺めていたのだ。
傍らにはいつも、挨拶周りで忙しいはずの父親の姿があった。
「──まったく、菜々海さんの気紛れにはいつも冷や冷やさせられる」
「難儀なひとを選んだな、兄さんも」
自販機で買った缶コーヒーから口を離し溜息を吐く大吉に、俺は苦笑を返す。
こればかりは心からの言葉だった。
あんな人と一緒に暮らしているなど、想像しただけで気が滅入る。
ひょっとするとガキ三人の面倒を見るのよりも面倒かもしれない。
「お前、どうやってあのひとに取り入ったんだ?」
「……いや、別になにも」
目が泳ぎまくった。
取り入ったつもりはないが、結果的にはそうなったということだろう。俺としても、まさかあのひとが味方についてくれるとは思っていなかった。
完全に予想外だ。
「……家に、来たんだってな」
「一応、あそこは俺の実家でもあるはずだけど?」
まあ、その辺りまで隠せているとは、流石に思っていなかった。
監視カメラがあるし、菜々海さんだって隠す理由がない。
「白金さんのところにも押し掛けたと聞いたぞ。葵が預けられている養護施設にも」
「耳が早いね」
アオイのところに行ったのはコマちゃんだが(俺もあとで知って驚いた)、そこまでは把握していないらしい。
「それで、もうそんなことはやめろとでも言いたいのか?」
「……それで済むのなら、話は早いのだがな」
また溜息を吐く大吉。
昔からこんなに苦労性だっただろうか、このひと。
「どうやら菜々海さんも、そこまで娘に固執していないみたいだしな──白金の社長も、何を考えているのかわからん」
「ん?」
白金の社長の考え──ってなんだ?
月さんは、ただジジイの死に際してキララと俺との婚約を破棄しただけだろう。わからないも何も、そこにある考えなんて明白すぎると思うのだが……。
「俺も、そうだと思っていたのだがな」
「……?」
なんだろう、俺はてっきり、すべての元凶はいま目の前にいる男だとばかり思っていたのだが。
いまの言い分だと、どちらかというと俺と同じ、状況に流されているだけのように感じる。
「実際そうなのだろうさ。今回の件で俺が横槍を入れられたのは茜を養子に迎えることくらい──いや、それすらも、あの人のてのひらの上だったのかもしれん」
「あのひとって……月さん?」
「いや、白金の社長も俺と同じだろうな。あのひとのてのひらの上で踊っていたに過ぎん」
「……どういう、意味だよ。『あのひと』って、一体──」
問い詰める俺の言葉は、大吉の出した手に遮られる。
その手には、ひとつの便箋が握られていた。
「これは……?」
「手紙だよ。『あのひと』からの、な」
謎の人物からの手紙を受け取ってしまった……。
恐る恐る便箋を裏返し、差出人の名前を確認すると──
そこに書いてあったのは、『比内次郎吉』という、達筆な署名だった。
*
千鳥へ。
大吉に預けておいたこの手紙がお前の手に渡っているということは、儂はもうこの世にはいないのじゃろう──なーんつってな、一回やってみたかったんじゃ、これ。
まあ冗談はさておき、これは儂からお前に宛てた、遺書ということになる。
返信は受け付けんから、心して読めよ。
まず、茜と黄星々ちゃん、それから葵のこと。
ジジイの身勝手なわがままで押し付けてしまい、本当にすまなかった。
言いたいことは色々あるじゃろうが、残念ながらそれを聞くことはもうできん。じゃから、儂の言いたいことだけを好きなだけ言わせてもらう。
儂があんなことをしたのには、それなりに理由があったんじゃ。
道楽ジジイがまたわけわからんことしはじめた、とでも思っとったじゃろ。けどな、儂はこれでも、人のためを思ったことしかしてこなかったんじゃぞ。
……まあ、結果的に迷惑になることもいっぱいしてきたがの。
大吉にも、色々と迷惑かけたしの。
ともかく、茜たちをお前に預けたことについても、儂には儂なりの考えがあった。
……罪滅ぼし、だったんじゃろうな。
お前には、小さい頃から苦労をかけさせてしまった。生まれの経緯のせいで兄や姉にも疎まれ、周りからは色眼鏡で見られ──幼かったお前には、さぞ苦しかったことじゃろう。
儂はそれをわかっていながら、何をすることもできなかった。
だからこそ、儂は少ない余生を振り絞って、お前に罪滅ぼしをしようと決めたのじゃ。
なんで子供たちを預けることが罪滅ぼしになっているのか、とでも言いたいところじゃろうな。
それはの──お前に、家族を作ってほしかったからじゃ。
儂も、大吉や中、末子も、お前にとって家族と呼べる相手にはなれんかった。
お前が高校を卒業して家を出ると言い出したときにの、儂は心から後悔したよ。
お前が生まれてからずっと、儂はお前に孤独を強いてしまった。お前の『家族』になってやれないまま、お前に『一人になる』という選択をさせてしまった。
老い先短いジジイには、もうできることなんて残されてない。
じゃから儂は、子供たちに、お前の家族になってもらおうと思ったのじゃ。
お前はもうわかっているじゃろうが、お前に預けた子供たちには、おおよそ家族と呼べる相手がいない。
茜は母子家庭で貧しい生活をしてきて、最後には母親も我が子を見捨てるという選択しかできんかった。
葵は暴力を振るう父親と暮らし、本の世界に閉じこもった。
黄星々ちゃんだけは、表面上は問題ない裕福な家庭に見えるがの。実質、あの子も『ひとり』じゃった。父親は忙しく、自分のことをちゃんと見てくれない。母親も然り。世話を焼いてくれるのは使用人ばかりで、親からの愛を十分に感じられてなかった。
そのことを相談してきたのは、月だったんじゃ。最近子供の面倒をまともに見られていない、どうすればいいだろうか──っての。
そういうわけで儂は、独りぼっちの子供たちを、お前の下に預けることに決めた。
同じく独りぼっちのお前なら、あの子たちの家族になれると思って。
あの子たちなら、お前の家族になれると思って。
じゃけど、いつまでもそんな勝手を通すわけにはいかんかった。
お前に茜を預けるために呼びつけたあの日にはもう、儂は自分に残された生命が、なんとなくわかっておったからの。
死んだジジイの言うことを、いつまでも聞く必要はない。
けれどお前は、儂が死んでも律儀に儂の願いを聞いておったことじゃろう。
じゃから、ちょっとした細工をさせてもらった。
まず、茜は大吉に引き取ってもらうことにした。あそこは前から子供を欲しがっとったからの。それとなくそうするように働きかけたから、多分あいつはその通りに動くじゃろ。
昔っから、アイツは儂に対しては素直すぎる。
それから月に掛け合って、儂が死んだら黄星々ちゃんとの婚約を破棄してもらうことにした。
最後に葵。あの子は、儂が何かするまでもなく、儂が死んだら保護機関が勝手に動くじゃろうな。葵に関してはお前に預けるのにも相当無理をしたからの。
ともかく、お前はもうあの子たちの面倒を見る必要はない。
儂のわがままに付き合わせて悪かったの。
これからは、好きに生きるといい。
比内次郎吉より。
*
ジジイの遺書を読み終わり、何かを言う暇もなく葬儀の時間になってしまった。
順番に並んで焼香を上げる間も、俺の頭の中には手紙の文面が浮かんでいる。
結局、すべてはあのジジイのてのひらの上だったということか。
子供たちを俺に預けたのも、俺から引き離したのも、全部あの男の目論見通りだったのだ。
俺に家族を作りたかった?
もう面倒を見る必要はない?
最後まで、あのジジイは勝手ばかりだ。
なぜそんな大事なことを、死んでしまってから言い出すのか。これでは手紙にあった通り、何も言い返せないではないか。
もしも生きていたなら、今度は平手打ちじゃない──拳を握ってその頬に一発お見舞いしてやる。
そんなことを遺影の前で考えながら、焼香を上げる。
俺の後ろには、菜々海さんが見繕ったらしいドレスを着たアカネが控えている。
何やら言いたそうにうずうずしているが、流石に場を弁えて黙っている。
俺も、この場では何も言わなかった。
「大吉兄さん、ちょっといいか」
葬儀が終わり、場所を変えての送別会──という名の名刺交換会。
俺は人混みの中心で愛想笑いを振りまいている大吉に声をかけた。
大吉は一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに周りに断りを入れて人混みをかき分けてこちらに歩いてきた。
扉の方向を顎で指し外に出るように示すと、大吉は頷く。
それを確認して、俺はそのまま外に出た。
「兄さんは、あの手紙の内容は?」
「一応、話は父さんから聞いている」
「じゃあ、アカネのことは……」
「菜々海さんが子供を欲しがっていたからな。丁度いいと思ったのだ」
「そうですか」
窓から日光の差し込むホテルの廊下で、俺と大吉は向かい合っていた。
すぐ脇にある扉の向こうでは、今も名刺交換会が繰り広げられているだろう。大吉が抜けた分、中に客が集中しているかもしれない。
「……父さんは結局、何がしたかったんだろうな」
夏の熱気に負けてネクタイを緩めながら、呟く。
「俺に家族を──って言いながら、自分が死んだらその家族を取り上げて。意味わかんねえよ」
「立つ鳥跡を濁さずってやつさ。自分が死んだあとに禍根を残したくなかったんだろ」
「禍根、残しまくりなんですが」
白金さんのとことも揉めたし、こうして大吉と顔を合わせなきゃいけなくなってるし。
「父さんが手回ししてなければもっと揉めていたかもしれないぞ。白金の社長が娘を返せとせっついてきたかもしれないし、養護施設は無理矢理お前から葵を引き離したかもしれない」
「………」
だからと言って、相談くらいしてくれてもいいじゃないか。
何か少しでも話してくれていれば、何か変わっていたかもしれないのに。
そんな思いが顔に出ていたのか、大吉は呆れたように、溜息を吐いて、口を開いた。
「……さっきの手紙な、お前が実家に来たら渡すようにと言われていたんだ」
「へ?」
「お前が来たとき、俺は家にいなかったから、今日になってしまったがな」
「それって、どういう……」
実家に来たら──なんて、そんな不確かな可能性にかけて渡すようになんて、それこそ意味が解らない。
葬式に出るのは確実なのだから、そのときに渡すように言えばいいのに──
「いや、実家に来なかった場合は、たとえ葬式に顔を出しても渡すな、と言われていた」
「渡すな??」
いよいよわけわかんなくなってきたぞ。
渡すなってどういうことだよ。
「……つまり、お前に茜や、葵や白金の娘を取り戻す気がないのなら、渡す必要はないと言いたかったんだろうな」
「……それって」
「最後に、書いてあっただろう、これからは好きに生きろ──と」
「!」
「お前は、どうしたいんだ」
射抜くような、大吉の瞳。
それを受けて、俺は──
「先輩!!」
そのとき、すぐ傍にあったエレベーターの扉が開いて、そんな声が聞こえてきた。
振り向くと、そこには息を切らして膝に手をつく、コマちゃんの姿が。
そして、
「千鳥さん……」
「アオイ!」
コマちゃんの服の端をちょこんとつまみながら、アオイが目を丸くして立っていた。
「よかった、間に合った……」
肩で息をしながら、コマちゃんは口を開く。
「約束通り、連れてきましたよ」
そして、そんなことを言って、にぃっと、笑って見せた。
「千鳥さん」
とてとてと、アオイがこちらに歩いてくる。
俺は状況が呑み込めず、ただ立ち尽くしていた。
たしかに、コマちゃんはどうにかしてこの場にアオイを連れてくると言っていた。
その約束を、彼女は果たしてみせたのだ。
「次は、先輩の番です」
「俺の、番……」
「絶対に、アカネちゃんとキララちゃんを、連れ戻してきてください」
「!」
そうだ。
俺がどうしたいかなんて、問われるまでもなく決まっている。
「行きましょう、千鳥さん」
そっと俺の手を取って、アオイは言う。
俺は、その手を握り返し、力強く頷いた。




