六章 『誓い、それは覚悟の表れ』 《中》
俺がキララの父親と直接対決しようとしているまさにそのとき、コマちゃんは別の場所に足を向けていた。
「ここで合ってる、よね……」
見上げる先にあるのは、清潔そうな真っ白い建物。
ともすれば殺風景、あるいは味気ないとも取れるが、しかし、少なくともオシャレなデザインやらモダンな趣味やらが求められているような建物でもないのも事実だった。
児童養護施設。
アオイがいま、ここで生活しているという場所である。
「すみません、先ほど電話した、秋田と申しますが……」
「ああ、聞いてますよ。葵ちゃんですよね」
受付らしいカウンターの向こうで座ってテレビを観ていた男に声をかけると、そんな感じで応対し、親切にもアオイのところまで案内してくれた。
アオイは、図書室らしい、いくつもの本棚が並んでいる部屋の隅っこで、静かに本を読んでいた。
──きっと、先輩に出会う前は、こんな感じだったんだろうな。
家庭内暴力を振るう父親から逃げて図書館に入り浸っていたという過去を聞いていたコマちゃんは、そんな風な感想を抱いた。
外界を完全に遮断し、誰ひとり自分には話しかけないで、関わらないでという、そんなオーラを感じる。
あのマンションで生活していた頃は、感情を表に出さないながらもあんなに活き活きとしていたというのに──いまの少女の姿からは、つい数日前まではちゃんと感じていたはずの『子供らしさ』が、まったく感じられなかった。
まるで、世界のすべてに絶望したような、そんな達観さえ、その背中から感じ取れる。
唯一の信頼できる相手を失った人間はこうなるのだという、見本のような背中。
──アカネやキララも、こんな風になっているのだろうか。
「……アオイ、ちゃん」
『話しかけないでオーラ』にたじろぎながら、青髪の少女に声をかける。
アオイは読んでいた本から顔を上げ、こちらを見た。
「コマちゃんさん……」
別に芸名に『ちゃん』やら『くん』やらがつく芸人じゃないのだから律儀(?)にややこしい呼び方をする必要はないのだが、『コマさん』と呼ばれるのも変な感じがするのでスルーする。
「どうして、ここにいるです?」
きょとんとした顔でそう呟く少女の姿には、先ほどまでびんびんに感じていたような寂しさは感じられない。
たまに遊びにきていただけの自分のことも『あの頃』の一部として受け入れられていたことの証左のような気がして、少しだけホッとする。
「先輩の代わりにね、ちょっとお話をしに」
「……千鳥さんの?」
ちなみに俺はというと、コマちゃんがそんなことをしているというのはまったく聞かされていなかった。
あとから聞いて、俺のためにそこまでしてくれるなんて、と感動に打ち震えたものだ。
俺のため、というか、子供たちのためなんだろうが。
「先輩はいま、キララちゃんのところに行ってるの。だから、私が代わりに」
「そう、ですか」
「ごめんね、先輩じゃなくって」
「いえ、別に千鳥さんが来てくれても嬉しくもなんともないですけど」
相変わらず素直じゃない子だ、と苦笑する。
キララのところに行っていると聞いたとき少しだけ羨ましそうな顔になったのを、コマちゃんは見逃さなかった。
「で、お話ってなんですか? もう、千鳥さんのところには戻れないって聞きましたですけど」
「聞いた? そんなこと、誰が?」
「ええと……千鳥さんのお兄さん、とか言っていたような。全然似てなかったですけど」
腹違いの兄だという大吉のことだろうか──とコマちゃんは当たりをつける。
もしかしたら次兄の中かもしれないが。
「……たしかに、いまの状況だと、戻れないかもしれない」
「やっぱり、そうなんですか……」
アオイの顔に再び影が差す。
その哀しそうな顔に、コマちゃんは胸が痛むのを感じた──が、しかし話はそこで終わりというわけではない。
「でもね、だからいま、先輩はキララちゃんのところに行ってるの。その前には、アカネちゃんのところに行ってた。いまのどうしようもない状況を、どうにかするために」
「どうしようもない状況なのなら、どうにかしようもないと思いますけど……」
諦観めいたその物言いに、また胸が痛む。
あのマンションにいた頃も、こんな感じだった。
周りに遠慮して、わがままを言ったりもせずに、諦める。
兄姉たちに疎まれていた俺や、最終的に見捨てられるしかなかったとはいえ貧しくとも親に大事に育てられてきたアカネとは違い、親にさえ虐げられてきたアオイだからこその、諦観。
高いものに手を出そうとしないのも、七夕に自分のことではなくアカネとキララの仲直りを願ったのも、そんな諦めの末のことなのではないだろうか。
自分はわがままを言ってはいけない。
自分は自分の幸せを願ってはいけない──そんな思いを、胸に秘めながら。
そんな遠慮をするくらいならばむしろわがままを言ってほしいと、俺がそう思っていたのも知らずに。
「……アオイちゃん、本当に、それでいいの?」
コマちゃんは、諦め続けた少女をまっすぐと見据え、そう問いかけた。
「先輩のところに、戻りたくない? アカネちゃんやキララちゃんともう会えなくても構わない?」
「……私がどう思うかではなく、実際無理な状況なんじゃないんですか」
「アオイちゃんがどう思うかを、聞かせてほしいの」
視線の先の少女の瞳は、静かに揺れていた。
きっと今も、その胸の内には様々な思いがせめぎ合っているのだろう。
俺と生活していた頃はそういった素直な思いをすべて封殺し、結局出てくるのは誤魔化すような毒舌が口をついて出るばかりだった。
「ね、私の前でくらい、強がる必要はないのよ。アオイちゃんの、本当の願いを聞かせてほしいの」
「……わた、しは──」
やがて。
諦め、強がり、自分を虐げてきた親よりもさらに強く『自分』を殺し続けた少女は。
その青い瞳から、大きな雫をこぼしはじめた。
抱え込んだ、想いと共に。
「私は、帰りたいです……! 千鳥さんのところに──アーちゃんや、キーちゃんのところに! 私の、たったひとつの家族のところに……!!」
やがて、感情の雫は滝となり、少女の頬を流れる。
嗚咽を漏らすアオイの背中をさすりながら、コマちゃんは思う。
この涙を、流させるままにしてはいけない。
この涙は、絶対に止めなくてはならない。
そのためには、少女の願いを叶えるしかないのだ──と。
*
さて、視点は俺、比内千鳥のものに戻る。
コマちゃんがアオイのところに行っているなんてつゆほども知らずに、俺はリムジンの一番うしろに座って、キララ父の待つ<エクラン・プラチナム>社長の邸宅に向かっていた。
車を向かわすと言われて会社の前で待っていたら長いリムジンが目の前に停まったときの驚きを、誰か理解してくれるだろうか。
キララの世間知らずっぷりも納得できようというものだった。
慣れないふかふかのシートに座っていると尻の穴がむずむずするというか、アオイではないがなんとなく落ち着かない。完全に庶民の感覚だった。
俺も一応、日本有数の大財閥の家の子であるはずなのだが……。
まあ、隠し子だけど。
「比内様、と仰いましたな」
不意に運転席から話しかけられ、俺はびくうっと肩を震わせる。
尻の穴が引き締まるのを感じた。
「比内というと、あの比内グループの?」
「え、あ、ええまあ……」
運転手は、頭が真っ白くなった初老の男だった。
おそらく、白金家の運転手なのだろう。
専属の運転手がいるという時点で結構アレだが、リムジンをいくつも所有していて、これはそのうちのひとつなのだと言われるよりはすんなり理解できる。
「失礼、私は白金家の執事をしている、銀と申します」
執事と来たか。というかシロガネって。主人と一時違いじゃねえか。
そういえば、キララの実家にはメイドもいるっつってたな……。
「しかし、比内というと──そうですか、貴方が……」
何かに納得したように呟く執事氏。
なんだろう、比内と言って驚かれるならまだしも、納得されるなんてことはそうないのだが。
「黄星々様が、嬉しそうに話しておられましてな。『とびっきりのいい男』と……」
やめて、そんな目で見ないで! 『ええ~、コイツが? マジでぇ~?』みたいな顔しないで!
ていうか前見て! ……あ、信号待ちか。
「……えと、すみません、期待外れで」
「いえ、黄星々様のご趣味は理解いたしかねますが、ご自分で選ばれた相手なら、私が口を挟めることではありません故」
理解いたしかねるっつっちゃったよ。
一応キララ父、つまりご主人様の客なんだけど、執事ってこんな失礼でいいの?
「ともに暮らした黄星々様だからこそ解る魅力もございましょう。少なくとも、預けるに値する御仁であると旦那様は評価したのでしょうしね」
「……そんなに高く評価されてるとは思えませんけどね」
実際、ジジイが死んだ途端に婚約を破棄してきたのだ。元々不承不承だったのだろう。
キララの子供らしい好意はともかく、キララ父に好かれているとは思えない。
「……まあ、その辺りは、会って確かめるのがよろしいかと──到着いたしました」
停まったことに気付かないほど、スムーズな停車だった。
いつの間にか、窓の外には比内の実家に引けを取らない大きな屋敷が門を構えていて──門柱には、『SHIROKANE』と書かれた表札が存在感を放っている。
そこが、<エクラン・プラチナム>社長・白金月の住む屋敷だった。
「よく来たね。まあ、かけたまえ」
案内されたのは客間とかでなく、白金氏本人の書斎だった。
いや、逆に緊張するわ。なんでいきなり自分の部屋に通すんだよ、このおっさん。
かけるっつったって一人用のワーキングチェアくらいしかないし。
俺が座ったらこのおっさんは立ちっぱなしということになるのだが。
色々と破天荒だな、この人。
「コーヒーでも飲むかね? 丁度、頂き物の良い品があってね」
「……いえ、遠慮しておきます」
「マナー的には、遠慮はむしろ失礼に当たるのだがね」
「遠慮させてください」
コーヒーなんて、喉を通る気がしない。
金持ちが良いものと言うならお高いものなんだろうし、残してシンク直行というのも申し訳ない。
「フム、では私だけで失礼するよ」
「ど、どうぞどうぞ」
「砂糖かミルクはいるかね」
「コーヒーは遠慮するって言いましたよね!?」
砂糖だけ貰ってどうしろと。
舐めてろって言ってんのか?
「冗談だよ。そんな顔をされても困る」
いや、真顔で冗談言われても困ります。
というか、そんな話をしに来たわけじゃないんだよ。
「あの、本題に入りませんか。コーヒーを淹れてるのを待てるほど、俺には余裕がないんで」
「コーヒーはもう淹れてあるが」
「そういうことじゃなくて!」
この人、話する気あるのか!?
『会って話をしよう』って言ったよな、この人!?
「冗談だよ」
「だから真顔で冗談言うのやめてくださいってば!!」
なんか疲れる……こんな人だったっけ?
ああ、ジジイの前では猫被ってたのか。そりゃあ、提携先のお偉いさんを前に冗談ばっか言うわけにはいかないよな。
「それで、本題ね──黄星々のこと、でいいんだよね」
「当たり前です。他に話すことなんてありません」
「……フフ、そこまで言うとはね。どうやら本当に余裕がないようだ」
うっ……たしかに、今のは失言だったかもしれない。
今から俺は、交渉しようとしているんだから、それならできるだけ相手を立てないといけない。
曲げてはならないところは曲げる気はないが、曲げられるところは曲げないと交渉にならないのだ。
「……いいでしょう、いくらでも付き合いますよ、冗談でもなんでも」
「フム、ならば──そうだね、ちょっと雑談に興じるとしようか」
おい。
付き合うとは言ったけど、そう開き直られても困るんだが。
日がある内に帰れるかなぁ……。
「──キミは、ご兄姉とは折り合いが悪いそうだね」
「……まあ、そうですね」
本当に雑談を始める気らしい。
俺と兄たちとの仲がなんの関係があるというのか。
「私も娘も一人っ子なのでね。兄や姉がいる者の気持ちというのが気になるものなのだよ」
「……あの人たちは、兄姉と呼べるような相手じゃありませんよ。キララと、アカネやアオイとの方が、よっぽど姉妹らしい」
「フフッ、なるほど──たしかに、仲良くしていたようだね。あまり家では友達の話はしなかったから、心配していたのだ」
「その『友達』を、あなたは奪ったんですよ……!」
アカネとは、学校で会うこともできるかもしれない。けれど学年の違うアオイとなると、なかなか会う機会も減るだろう。
いや、アカネとだって、気まずくて話せていないかもしれない。
少なくとも、彼女らから以前のような元気はなくなってしまったと、嘉鳥先生は言っていた。
それを奪ったのは、紛れもなく目の前にいるこの男だ。
「酷いことを言うね、『奪った』なんて」
「聞いてますよ、俺との婚約関係、解消したのはあなただって」
「それは事実だがね」
「だったら! やっぱりアイツの元気を奪ったのはあなたでしょう!!」
キララの元気がなくなったのは、俺と会えなくなったからだけではない。
アカネと、アオイと──友達と今までのような関係でいられなくなったのも、その原因であるはずだ。
そしてその、『原因』の原因となったのは、この人なのだ。
「……フム。たしかにキミには、キララを預けるだけの価値があったようだ」
これだけ言われて尚、飄々とした態度を崩さずに何事か呟く白金氏。
その態度に、俺はいっそう苛立ちを募らせる。
「いやね、帰ってきてから、黄星々はやたらと家の手伝いをするようになったのだよ。婚約相手としてはともかく教育係としては、キミは適任だったようだ」
「そんなこと……!」
教育係なんて、誰にでもできることだ。
俺に預けたりしなくたって、ちゃんと叱って、ちゃんと話せば、それでも言うことを聞けないほどキララは馬鹿ではない。
ちゃんとアイツのことを見ていれば、そんな簡単なことに気付かないはずはないのに……!
「あんたは、キララの父親失格だ」
アイツの家は、こんなところじゃない。
こんな、誰ひとりアイツのことをちゃんと見てやれないところじゃない──絶対に。
これじゃあ、比内の実家と何も変わらないじゃないか……!
「いまのあんたにならでっかい声で言えるぞ──キララを、返せ」
「……まあ、落ち着き給え」
俺の心からの言葉をまったく意に介さずに、白金氏はそう言った。
まるで癇癪を起こした子供をなだめるように。
「言ったろう、これは雑談だ──そろそろ、本題に入ろうじゃないか」
もう、付き合ってられない。
この人と話しても、何も変わらない。
そう判断して、俺は踵を返した。
その背中に、白金氏が声をかけてくる。
「いいかい、黄星々とキミとの婚約を破棄したのはね──」
その言葉を聞き終えるのとほとんど同時に、俺は書斎の扉を乱暴に閉じた。
「比内様、お帰りになられるのでしたら、いま車を──」
「結構です」
無遠慮に話しかけてきた銀さんの申し出を丁重に断って、俺は白金邸の敷地を出た。
外の景色も見ずに車で運ばれてきたので、最寄り駅の方向さえわからない。
けれど俺はそんなことを気にもせずに、適当な方向に歩き出した。
──いいかい、
書斎を出る直前にかけられた言葉が、脳内でぐるぐると繰り返される。
──いいかい、黄星々とキミとの婚約を破棄したのはね、
今さらそんなことを言われたって、意味が解らなかった。
一体、何故。
その答えを聞いたはずなのに、頭に浮かぶのは尚も疑問ばかり。
何故、何故、何故──どうしてなんだ、ジジイ。
──婚約を破棄したのはね、比内会長……キミのお父様からの、最後の申し出だったのだよ。
何度問うても、もうこの世にいない父親に、その声が届くことはない。




