六章 『誓い、それは覚悟の表れ』 《前》
俺は、緊張していた。いまにして思えばコマちゃんと子供たちが邂逅したあの日の緊張なんて大したことじゃなかったと思えるくらいに。
豪奢なソファに腰掛け、膝の上で拳を握って掌の汗を必死に隠す。
「そう、緊張なさらないで。大吉さんはどうか知らないけれど、私にはあなたを嫌う理由はないんだから」
そんな風に優しく声をかけてきたのは、正面に座る女性。
俺にとっては義姉に当たる──腹違いの兄である比内大吉の妻・比内菜々海さんだ。
会うのは、これが初めてである。
漆黒の髪をシニョンでまとめ上げ、白い肌を地味なドレスで包んでいる。穏やかそうなその雰囲気はコマちゃんを彷彿とさせるが、決定的な違いがある。
彼女の湛える穏やかな微笑からは、感情の色が窺えない。
「嫌う理由はない」なんて好意的な態度を口で示してはいるが、腹のなかではどうだかわかったもんじゃない──というのが、この菜々海さんに対しての俺の率直な印象だった。
俺がこの比内の実家の門扉を叩いたのは、アカネに会うためだった。
コマちゃんに勇気をもらい三人を取り戻すことを決意した俺は、まず居所の知れているアカネの下を訪れた。
アカネは、大吉の下に養子として引き取られているらしい。
比内次郎吉の死によって急遽比内グループの会長の座を受け継いだ大吉は、会長の座と共にいくつかの遺産をその手中に納めた。
この屋敷──そしてアカネも、そのなかのひとつということである。
「お義父さまが亡くなって忙しいこのときに、急に知らない女の子を連れてきて『今日からこの子が自分たちの娘だ』なんて、困っちゃうわよね」
微笑をわずかに苦笑に変える菜々海さん。
話を聞く限り、養子の件は大吉の方から言い出したことらしい。
「……大吉兄さんは、今日は?」
「お仕事ですって。嫌よねえ、朝から夜まで働きづめで。末子さんも中さんも外に出てらっしゃって、お話相手がいなくてねえ」
「はあ……」
末子というのは比内家の長女第二子で、中というのは次男第三子である。つまり大吉と同様、俺の異母兄姉に当たる。
彼らもそれぞれ比内グループの役員の座についている──家の中にいる方が珍しい部類の人種だろう。だからこそ、俺は土曜日の昼間、兄姉たちが全員で払っているであろうこの時間にここを訪れたのだ。
ちなみに、いま目の前にいる菜々海さんも元々は役員の娘だったらしい。
その菜々海さんはというと、顔を上げていずこかへ視線を向け、心配そうな表情を浮かべていた。
「……あの子ね、いま、部屋に閉じこもっちゃってるの」
その視線の先にはおそらく、家を出る前の俺が使っていた部屋がある。
俺とアカネが、初めて会った場所。
「おにーちゃんのとこに帰る、おじーちゃんはどこ? って──まだ一度も、私のことをお母さんとは呼んでくれないわ」
正確には、アカネはまだ正式に彼女らの娘になったわけではないらしい。
菜々海さんの言った通り、ジジイが死んだばかりで色々と忙しいのだろう、養子縁組の手続きまではまだ手が回っていないようだった。
まだ、後戻りはできる。
「……あの、」
俺は、単刀直入に切り出した。
「アカネと、会わせてもらえませんか」
「ごめんなさい、」
即答だった。
「大吉さんに言われてるの。あなたが訪ねて来ても、茜さんには会わせないようにって」
夫に言われて仕方なく、という体ではあるが、このひと自身、俺をアカネに会わせるつもりはないようだ。
さっきは困っちゃうなんて言っていたが、アカネを手放す気は毛頭ないらしい。
「あなたには感謝してるのよ。この一カ月茜さんの面倒を見てくれていたんでしょう? そうでなければ保護施設なんかに入れられててもおかしくなかったものね。そうなってたら、家には来てなかったかもしれないもの」
「…………」
まあ、たしかに、保護施設とこの家を比べれば、どちらがよいかは瞭然だろう。この家ならば、少なくとも経済的に困窮するということはまずない。実家に戻ったキララと同等か、それ以上の待遇を期待できる。
「……ひとつ、訊いてもいいですか」
「なにかしら?」
「あなたたちのところにいれば、アカネは幸せになれると思いますか」
アカネのこれまでの人生は、客観的にはとても幸せなものとは言えなかっただろう。
一人親の下に生を受け、貧しい生活を余儀なくされてきた。挙句の果てには唯一の家族であった母親に見捨てられ、急に現れた父親に預けられたと思ったら、すぐに見知らぬ大学生に押し付けられる。
アカネ自身がどう思っているかはわからないが、彼女の数奇な人生を知って、同じように生きたいと思う人間はいないはずだ。
そんな彼女が、この家の娘になることで幸せになれるなら──
「そうねえ──広い家で暮らせば幸せになれるってわけじゃないだろうし、あの子がどう思うかはわからないけれど……」
「菜々海さん」
頬に手を当てて思案するような表情を作る菜々海さんの言葉を遮って、俺は言う。
「率直に、思っていることを言ってください」
「幸せに、してみせるわ」
菜々海さんは、しっかりと俺の目を見て、迷うことなく言った。
その目は、しっかりと一人の人生を背負うことを決意した人間の覚悟を湛えている。
初めて、この人の顔に感情の色が宿った気がした。
「……そう、ですか」
で、あれば。
俺からはもう、何も言うことはあるまい。
この家にいれば、アカネは幸せになれる──少なくとも、幸せにしてみせる、とこの人は言ったのだ。
「それじゃあ俺は、これで失礼します」
立ち上がり、菜々海さんに背を向ける。
俺の身勝手なわがままなんて、胸の内深くに押し込んでしまって構わない。
アカネの幸せを、何よりも優先する。
それが、兄としての矜持だ。
重厚な扉を押して、廊下に出る。
だだっ広い屋敷の、長い廊下。
これが繋がっている場所に、アカネがいる。
それがわかっていても、俺は玄関へとまっすぐ歩を進めるしかなかった。
「おにーちゃん!」
不意に。
背後から、声がした。
聞き慣れた、活発そうな声。
「……!」
背後に、アカネがいる。
赤い髪に、元気を体現したような顔立ち。安物のプリントTシャツに身を包み、膝をいつもすりむいているような、外で遊ぶのが好きな小学生。
大喰らいで、テンションが上がるとすぐに腹にタックルをして俺を困らせる。
俺の、腹違いの妹。
たったひとりの、きょうだい。
倉石茜が、そこにいる。
「…………」
その声を聞いて、俺は。
振り向かなかった。
「……あーあ、コマちゃんに怒られるなあ」
無駄にデカい庭園を歩きながら、俺は呟いた。
絶対にアカネを取り戻すと意気込んで出てきたのに、この体たらくである。
事情を話しても、コマちゃんは俺を意気地なしだと断じるだろう。
実際、その通りだ。
俺はきっと、怖かったのだろう。
アカネに会ったとしても、彼女は俺よりもこの家を選ぶんじゃないかと、恐れていたのだ。
「まったく、いつからこんなに弱くなったのかね」
まあ、昔から強くはなかったか。
兄姉たちに疎まれ、味方がいない中で育ってきた。とても、強く育ったとは言えない。
だからこそ、アカネは──そしてキララやアオイは、俺にとって初めての家族だったのだろう。
初めての、笑顔を見せられる家族だったのだろう──そのほとんどは、苦笑だったけれど。
比内の家では、苦笑さえも見せられなかったのだから。
「……アカネは、どうなんだろうな」
アカネは、この家で、笑顔を見せることはできるのだろうか。
兄や姉たち、そして新たな父母の下で、彼女は俺やキララ、アオイに見せていたような笑顔を、浮かべることはできるのだろうか。
「……なんて、今さら考えても遅いか」
アカネは、この家に任せると決めた──なに、味方がひとりもいないわけではないのだ。
俺のときは、唯一の味方は父親である亡き比内次郎吉だった。いい加減な道楽ジジイではあったけれど、それでも心の支えになっていたことは確かだ。
俺にとってのジジイのような人に、菜々海さんがなってくれれば、アカネもきっと、笑えるはずだ。
あの笑顔が絶えることがないのならば、俺から言えることは何もない。
正門に辿り着いたところで、丁度音を立てて門が開いた。
さっさと出ていけと言われているような気がして、俺は鼻を鳴らして大仰な門をくぐった。
*
「……それで、諦めて帰ってきちゃったんですか」
家に帰って、所はリビング。
実家のものより遥かに安いソファに座る後輩の視線が痛かった。
「アカネちゃんを連れて帰るためにご実家に帰ったんですよね。それともお義姉さんとお喋りするためだけに行ったんですか?」
「いや、あのね、なんというか、その……」
言い訳がなんも浮かばない。
お喋りするためだけに行ったつもりはないが、睨まれているうちに本当にそんな気になってきた。
あれれ? 俺はお喋りするために実家に帰ったんだっけ?
「しっかりしてください! 三人を連れ戻すんでしょう!?」
「……はっ、そうだった!」
危ない危ない、目的を見失うところだった。
「でも、菜々海さんいい人そうだったし、アカネが望むならこのままでもいい気がするんだよなあ」
「いいわけないじゃないですか!!」
弱気な俺の言葉を、コマちゃんは身を乗り出して否定する。
「アカネちゃんは、きっと先輩のところに帰りたがっているはずです!」
「いや、でも、向こうの方が環境はいいわけだし……」
ソファひとつ取っても、ウチと実家じゃ全然違う。アカネのことを考えるなら、やはり裕福な実家で暮らした方が確実にいいはずなのだ。
「そんなことありません! 好きな人と一緒にいれないのに、幸せになれるはずなんて……っ!」
「……ありがとな、コマちゃん」
自分のことのように必死になってくれる彼女には、感謝しかない。
けれど、やっぱりこの気持ちは、俺にしかわからない。
実際にアカネと、子供たちと暮らした俺でなければ。
「ごめんな、やっぱり、俺といる方が幸せになれるなんて言えないよ」
アイツらとの生活を望んでいるのは俺だけだ。
そんなわがままのために、アイツらの生活を奪うことなんて、できない。
それが俺の、兄としての矜持だ。
「兄としての矜持の方が、あの子たちの気持ちよりも大事だって言うんですか」
「……!」
「何度でも言いますよ。あの子たちは、絶対にまた先輩と暮らすことを望んでいます。その気持ちを無視して、先輩は諦めるんですか?」
コマちゃんの視線が、俺を貫く。
しかし今度は、痛いと言うよりも──深く、心に浸透してきた。
「……コマちゃん、悪い。弱気になってた」
いつしか下を向いてしまっていた顔を、前へ向ける。
そうだ、何を迷っていたんだ。
決めたじゃないか──アイツらを、取り戻すんだって。
俺はアイツらとの日々が、好きになっていた。
アイツらだって、同じなはずなんだ。
アイツらが笑顔を見せられる場所は、ここなんだ。
「行くよ、俺。他の誰がなんと言おうと、アイツらの家はここだ」
「はい──それでこそ、先輩です」
コマちゃんに見送られ、俺は再び、家を出た。
アカネ、キララ、アオイ──三人を、取り戻すために。
*
次に出向いたのは、<エクラン・プラチナム>の看板を掲げた巨大なビルディング──キララの父親が経営する会社だった。
「申し訳ありません、アポイントメントのない方のお通しは原則禁止となっておりますので……」
「社長に繋ぐだけでもできませんか? 比内千鳥って言えばわかると思うんですけど」
「申し訳ありません」
取り付く島もない。
このまま受付で押し問答をしていても仕方がないので、一度外に出ることにした。
最後の抵抗として受付嬢を恨めしげに見やって(特に気にした風ではなかった。こういう客の対応には慣れているのだろう)、自動ドアをくぐる。警備員さんにちょっと変な目で見られてしまった。
「……はあ、自宅とかわかんないし、あの親父さんに会うにはここしかないんだけどなあ」
会社のことは、少し調べたらすぐにわかった。
社長の名前がわかっているのだから、それを打ち込んで検索すればいいのだ。
白金月 [検索]←
そうして出てきたのが、この<エクラン・プラチナム>だった。
主に宝飾品のプロデュースを手掛けており、新宿なり渋谷なり原宿なり、それなりに人の溢れる街に行けば提携店が目に入る──らしい。服飾関係にも手を伸ばしているらしく、以前キララに連れられて服を買いに行った店も、提携店だったという。
キララの誕生日に彼女の父親が贈ったネックレスも商品だったようだ。
「……つうか、色々自分の会社に頼りすぎだろ」
娘の誕生日に自分のとこの商品を贈るなよな。
とはいえ、こうして会社の外観を見るだけでも大きな会社だということは窺える。そんな大会社の社長に会おうというのは、土台無理があるのかもしれない──が、だからって諦めるわけにもいかない。
俺は、キララに会いに来たのだから。
「……とはいえ、具体的にどうするかね」
まさか会社に潜入するわけにもいくまい。
受付が通してくれない以上、ただのイチ高校生である俺には為すすべがない。
「……月さんに、直接繋げればいいんだけど」
キララのスマホには、つながらなかった。
着信拒否でなければ、おそらく番号を変えたのだろう。どれほど親に規制されてもキララの方から平気でかけてくる気はするが、それも許されない状況にあるのだろうか。
となると小学校の前ででも出待ちしていたほうが確実な気がするが──流石に、小学校前で小学生が出てくるのを待ってる大学生の図とか、犯罪的すぎる。
まあ、たとえ通報されても、少なくとも嘉鳥先生は俺のことを知っているのだから大事にはならないと思うが。
「……ん、いや、待てよ」
そうだ、嘉鳥先生だ。
キララの担任である嘉鳥先生ならば、キララの連絡先──もっと言うなら、キララの親父さんの連絡先くらい知っているのではないだろうか。
教えてくれるかどうかはわからないが……なに、ダメで元々だ。
教えられないようなら、また別の方法を考えればいいだけの話。いまは、試せるだけの方法を試すしかないのだ。
ダメだったら通報覚悟で出待ちしよう──そう心に決めて、俺は自分からかけることはあまりなかった小学校の番号に電話をかけた。
「黄星々ちゃんのお父さんの番号ですか。わかりました、ちょっと待っててください」
「え、いいんですか?」
あっさりと。
嘉鳥先生は、月さんの連絡先を教えてくれた。
逆にこちらの方が勢いで遠慮してしまいそうなくらいだ。
「あの、そういうのって個人情報の管理的な問題とか、大丈夫なんですか」
こちらから教えてほしいと言っておきながら何を言ってるんだという感じだが、しかし俺の気持ちもわかってほしい。
いや、だって俺の連絡先だって登録されてるんだよ?
「もちろん、普通は教えられることじゃありません。電話番号はもちろん、児童の名前さえ、大切な個人情報ですから」
「じゃ、じゃあなんで……」
「……最近、茜ちゃんと黄星々ちゃん、元気ないんですよ」
電話口で、嘉鳥先生は神妙な声を出す。
「葵ちゃんの担任の先生も言ってました。最近は少し明るくなってきたのに、前の葵ちゃんに戻ったみたいだって」
「前の……」
俺の知っている限り明るいアオイというのに覚えはないが、つまり、『前の』アオイはもっと暗かったということなのだろう。
アカネも、先生の話では昔は周りに対して遠慮がちな子供だったという。それが、最近は家で見せるような元気で奔放な明るい子供になったと、先生が嬉しそうに報告してきたのはよく覚えている。
いまは、そうでないと言うなら。
母親と二人で貧しい暮らしをしていた頃のアカネに、親に甘やかされてわがままに育ってきたキララに、父親に虐げられて本の世界に逃げるしかなかったアオイに──戻ってしまったと言うのなら。
俺はやっぱり、アイツらを連れて帰らなければならない。
「教えてください、先生。キララの父親の連絡先を」
『──私の連絡先なんて、よくわかったね』
「ま、まあ、これが俺の実力ですよ」
電話の向こうのキララ父に対し、あえて強気なことを言う俺。これから一世一代の交渉をするのだから、できるだけこちらのペースで話を進めたいところである。
『そういえば小学校には連絡先を教えてあったな。学校の先生に教えてもらったというところかな』
バレバレだった。
土台、敏腕社長を相手に優位に出ようというのは無理があったのかもしれない。
嘉鳥先生、怒られたりしないといいけど……。
『それで、今日は一体どういったご用件でわざわざ私用の連絡先にまでかけてきたのかね──まあ、大体予想はつくが』
特に迷惑といった風ではなく、キララ父は落ち着いた感じで俺に尋ねる。
言っている通り、予想がついていたのだろう。俺がどんな用件で連絡してきたのかも、そろそろどうにかして話をしに来るであろうことも。
「だったら迂回したりせずに率直に言います──キララに、会わせてください」
『……ふむ。返せと言ってこないだけ、まだ可愛げがある、といったところかな』
……流石に実の父親に対して『返せ』とは言えない。
何様のつもりだ、って感じだ。
「返せとは言いません。けど、一度でいいので会わせてください──俺はまだ、アイツにお別れも言ってない」
『それが、キミの真意かね?』
「……はい」
真っ赤な嘘だった。
俺はキララにお別れを言いたいわけではない──当たり前だ、そんなことを言ってたらまたコマちゃんに怒られちゃうぜ。
俺は、もう一度キララと──そしてアカネと、アオイと、一緒に暮らすために動いているのだ。
『……まあ、いいだろう』
そんな俺の真意に気付いているのかいないのか、キララ父はそう言った。
『キララに会わせるわけには、今のところいかないが。少し、会って話をしようか』
「会って、って……あなたと?」
『こんなおじさんが相手では嫌かね』
「……いえ」
願ってもない。
何事も、会って話をしないとはじまらない。
おっさんが相手だろうと、ばっち来いだ。
『では、車を向かわせる──いま、自宅にいるのでね。すぐに着くと思うから待っていたまえ』
私も、待っているよ──そう言って、キララ父は電話を切った。
「待ってるって……」
なんか、そこまで言われると会いたくなくなってくるな。
もちろん、そんなわけにはいかないのだが。




