五章 『一転、それはどうしようもない別れの時』 《後》
比内大吉。
現在四十一歳で、比内グループの重役の席についている。
比内グループ会長比内次郎吉の第一子にして長男であり、いずれ父親の後を継ぐことを嘱望される、俺の兄である。
もちろん、腹違いの兄だ。
長兄をはじめ次兄の中と長姉の末子は、愛人の子である俺とは違い比内グループ会長とその妻の間に生まれた正統なる子供たちである。
次郎吉からもらった名前の『吉』の字を誇りに思っているようなひとで、だからこそ、父親の顔に泥を塗った(という認識らしい)俺のことを、心底軽蔑していた。
醜いアヒルの子を見るような目は、今でも鮮明に瞼の裏に焼き付いている。
俺が高校を卒業し家を出るよりも随分前に結婚し家を出たので、こうして声を聞くのは実に十年ぶりのことであった。
『元気にしていたか』
「……まあ、ぼちぼち」
挨拶代わりに近況を聞いてくるような間柄では、決してなかった。
俺はぼーっとする頭を覚醒させ、警戒しつつ続く言葉を待つ。
『そう固くなるな。なにも電話口で罵倒するほど、俺も腐ってはないさ』
用件は何なのだ。
別に世間話をしたくて電話をかけてきたのでもないだろう。このひとがわざわざ俺のところにかけてくるということは、それなりに大事な、俺にも報せなくてはならないほどの用事があるに決まっているのだ。
『どうだ、一人暮らしは』
「……別に、どうってことも」
言いかけて、小さな違和感に気が付いた。
この一カ月間、俺は『一人暮らし』ではなかった。
もちろん、そのことをこのひとは知らないはずだ。
だが、本当にそうだろうか。
父親に直接聞かなくとも、最近ちょくちょく俺が本家に顔を出していることは、このひとの耳にも入るだろう。
俺が自発的に帰ることはない。ということは父親の呼び出しを受けての帰宅だろうということは、事情を知っている人間からすれば容易に予想がつく。
心酔と言っていいほどに父親を尊敬し、その反動で俺を執拗に軽蔑しているこのひとが、呼び出しの用件を調べても不思議ではない。
このひとは、アカネの存在を知っているのではないだろうか。
アカネだけでなく、キララやアオイのことも。
その上で、『一人暮らし』の調子を訊くということは──
「兄さん、なんか知ってるのか?」
『何の話だ』
その返答は、とぼけているといった風ではなかった。
しかし事情を全く知らないというわけでもなく。
『続きを言ってみろ』という、俺に対する挑発に他ならなかった。
「ウチに居候してた子供たちが消えた」
『ほう、それは大変だ』
『居候の子供たち』という単語に疑問を覚えた様子はない。
やはり、このひとは知っているのだ。
「商店街の人がうちの近くに黒塗りの車が停まってたって言ってた──その車、兄さんと関係あるんじゃないか」
『どうしてそう思う?』
はぐらかされるでもなく、曖昧な答えでお茶を濁される。
が、その反応を見るに、やはり俺の推測は正しいようだった。
「教えてくれ、兄さん。アイツらはいま、どこにいるんだ」
とりあえず、迷子や事故という可能性はなくなった。
そのおかげか、俺は多少落ち着きを取り戻していた。
向こうに答える気があろうとなかろうと、絶対に三人の居場所を突き止める。その一心で、返答を待つ。
『……ふむ』
が、続いた言葉は俺の予想とは少し違った。
『その前に、こちらの用事を済ませておこうか』
「……用事?」
『ああ、こればかりは、流石にお前にも伝えてやらねばと思ってな』
「?」
急に、どうしたというのだろう。
さっきまでは世間話でのらりくらりと躱していたのに、三人のことを追求した途端態度を変えるとは。
まさか自分の用事を済ませてさっさと電話を切るつもりなんじゃないだろうな。
『父さんが、死んだ』
「………………へ?」
身構えていたところに、全然見当違いな方向からパンチを食らった気分だった。
父さんが、死んだ。
紡がれた言葉を、頭の中で反芻する。
つまり。
「……嘘、だろ」
『こんな悪趣味な冗談は言わん』
「でも、だって──」
ついこの間まで、ぴんぴんしてたじゃないか。
俺にアカネを押し付け、キララとの婚約を勝手に決め、アオイを連れてきて──いつも通りの、自由奔放な道楽ジジイだったじゃないか。
あの元気なじいさんが──死んだ?
『葬儀の日程は追って連絡する。喪服の用意をしておけ』
「ちょ、待ってくれ。アカネたちは……?」
それは、三人の行方を知ろうとして出た言葉ではなかっただろう。
父親の死を受け入れられないが故の、ただの現実逃避だった。
『ああ、そうだったな。あの子供たちのことなら──』
もう、お前が面倒を見る必要はない──比内大吉は、そう言った。
それも、比内次郎吉の急逝を受けて、急遽決まったことだったらしい。
最初に決まったのは、俺とキララの婚約破棄。
そもそもあってないようなものではあったが、訃報を受けたキララの父親が、あっさりとその申し出をしてきたらしい。
元々、キララの父親が比内グループの会長に取り入るために決められた、政略的な婚約だったのだろう。じじいが死んで、もうその婚約に意味はないと見限ったということだ。
次に、児童養護施設の人間がアオイを引き取りに来たという。
こちらも、じじいの権威で無理矢理引き取り手を俺に変えていたらしく、当人亡き今、その取り決めも不履行になったとか。
最後に、アカネが比内大吉に引き取られた。
彼と奥さんとの間には子供ができず、子供を欲した奥さんから養子をとろうという話があったらしい。アカネの存在を知っていた彼が、丁度いいと引き取ることにしたらしい。
それらを事務的に述べて、電話は切られた。
ツーツーと鳴り続ける受話器を、そっと置く。
「……押し付けてきたのも勝手なら、引き離すのも勝手だな」
未だ電気をつけるのを忘れられた部屋に、小さな呟きが響いた。
*
それからの生活は、一変した。
いや、元に戻った、と言うべきかもしれない。
ついこの間まですぐ傍にあったはずの喧騒は、追憶の彼方へと消え去ったかのようだった。
「……げ、寝坊した」
朝目が覚めると、時刻は八時を過ぎていた。
今から急いで支度をすれば、遅刻するほどの寝坊ではない。が、最近は七時前には起きているのが常だったので、調子が狂う。
寝起きのはっきりしない頭で、がらんとした部屋を見回す。
俺の寝床は、元の寝室に戻っていた。先日までこの部屋に所狭しと広げられていたアカネの玩具やらキララのアクセサリーやらアオイの本やらはすでに引き払われ、元々あってないようなものだった俺の私物が申し訳程度に置かれているだけで、生活感の感じない部屋になってしまった──いや、だから、元々こんなもんだったのだ。
ただ一時、騒がしい期間があったというだけで、少し前までの俺にとってはこちらの方が普通だったはずなのだ。
むしろ、あの喧騒を鬱陶しく思っていたはずなのに──
「……やべ、そろそろ支度して出ないと」
急いで寝間着から外着に着替え、寝室を出る。
特売日にスーパーで買っておいたパンをレンジに入れ、トーストのスイッチを押す。
トーストを焼いている間に、歯を磨く。
これも、こないだまでは子供たちと一緒にやっていた。
アカネは朝っぱらから元気よく、キララは面倒そうに、アオイはうつらうつらしながら、俺はその様子を見ながら、「しっかり磨けよ」と声をかける──今や、無言の作業になってしまったけれど。
最後にうがいをしてリビングに戻ると、丁度『ピピピ、ピピピ』とレンジが鳴り、トーストが焼きあがったことを報せてくれた。
取り出して、マーガリンを塗る。
ふわ、と欠伸が漏れた。
──おにーちゃん、お口でっかいー!
──もう、しょうがないなあ、ひーくんは。
──マヌケ面ですね、千鳥さん。
アイツらならこんなことを言ってくるのかな、なんてことを考えて、慌てて片手で口を塞ぐ。
続いて、失笑が漏れる。
あんなうるさいガキども、早くいなくなってしまえばいいのにと、押し付けてきたジジイを恨んでいたはずなのに、なんでこんな未練がましいことを考えているのだろうか。
「……ジジイも、もういないんだったな」
ならば恨む相手も、もういない。
なんだか全部馬鹿馬鹿しくなって、俺は朝食を食べきらぬ間に、トーストを咥えたままスニーカーをつっかけ家を出た。
「なーんだよじっどりー、元気ねえなー!」
「……お前は相変わらず能天気そうだな、バカ松」
大学のテラスで昼飯を食べていると、耳障りな高い声と共に肩をぽんと叩かれた。
「なによ、バイトがめんどいのかい?」
「そんなことで憂鬱になったりしねえよ」
バイトに行けばコマちゃんがいる。あの慎み深い笑顔を見るだけで、このところささくれだっていた心が洗われる気がする。
「ああ、早くバイトに行きたい……!」
「うわ、社畜かよ」
「社員じゃねえよ」
「あ、そういえばさー」
当然のように向かいの席に着く赤松。
スマホをいじりながら、世間話を始める。
「この前話してた、なんだっけ、誕生日プレゼント? どうだったの?」
「お前は振られたくない話を振られたくないときに振ってくるな……」
「ん? しくじったの?」
「遠慮ねえな、ほんとに……」
あの誕生日は上手くいった。
コマちゃんの手伝いのおかげでケンカしていたアカネとキララは仲直りしたし、プレゼントも喜んでもらえた。
アオイがあげたぬいぐるみは毎日抱いて寝ていたし、アカネの髪飾りもいつもつけていた。俺がやったハンカチなんか、折を見て愛おしそうに眺めるもんだから、贈ったこっちがこそばゆい。
大成功だった。
だからこそ──
「……失ったときに、喪失感はでかいもんなんだな」
「また独り言かよー。しかも今回はなんか深刻そうだし。なに、やっぱフラれちゃったの?」
「……ま、そんなとこだよ」
キララ含め、あの騒がしい部屋にあったものは、全部なくなってしまった。
今はもう、あそこには虚ろな過去しかないのだ。
「ありゃ。え、マジでフラれたの? 慰めてあげよっか? 地鶏クンを慰めてあげる会やっちゃう?」
「いらねえよ。これからバイトだし」
暢気な言葉に、つい苦笑が漏れる。
何も知らない人間からの言葉が、いまはなぜか、とても耳心地よかった。
バイトが終わって、帰り道。
結局コマちゃんに三人のことを打ち明けることはできなかった。
また今度遊びに行きますねと笑いかける顔に、いつもは癒されたはずなのに、今日は胸の奥がきゅうっと苦しくなるばかりだった。
商店街を歩きながら、今日の晩飯は何にしようかと考える。
一人分だし、そんなに凝ったものにする必要はないか。
「……うどん、とかかな」
──朝からうどんですか。
──ほんとうどん好きだよね。
──アカネもうどん食べたいー!
甦る三人の言葉を、首を振って追い払う。
そういえば、アカネが初めて家に来たときもうどんだったな。
アカネがキララとケンカして学校を休んだ日、昼飯に出したのもうどんだった。
食べたがっていたハンバーグ、苦手なのを我慢して食べていたナスとピーマンの味噌炒め、誕生日のご馳走──様々な食卓が、脳裏に甦った。
懐かしいと、そう感じた。
もうあの日々は、過去のものなのだと、そう、実感した。
「……そうか」
俺は、あの騒がしいガキどもと過ごした日々を、とても愛おしく思っていたことに、今さらながら気づいた。
*
気づいたところで、どうしようもないのだった。
アカネは大吉兄さんが遺産として譲り受けた本家に戻り、キララは実家に、アオイは養護施設に入れられた。
俺が預かるなんて無理が通っていたのは比内グループ会長の権力があってこそのものであり、俺がいくら失った日々を嘆いたところで、それを取り戻すことはできない。
俺には、なにもできないのだ。
「なんというか、バカみたいだよなあ」
失ってから、その価値に気づく。
ありがちな展開ではあれど、当事者からすれば深刻な問題である。
気づいた価値には、もう二度と手を伸ばすことはできない。
「……なんかもう、どうでもいいや」
リビングのソファに寝転がり、呟く。
晩飯を作る気にもなれなかった。大体ここ数日ろくに食べ物が喉を通っていない。
寝室に行くのも面倒だ。このままここで寝てしまおうと、俺は寝返りを打って目を閉じた。
ピンポーン。
インターホンの音で、目が覚めた。
頭が重い。
随分寝ていた気がしたが、時計を見ると三十分も寝ていなかったらしい。
そんなことをしている間にも、二度目、三度目とインターホンが鳴る。
まだ来客に相応しくない時間ではなかったが、俺は煩わしくて身体を起こそうとはしなかった。
「先輩、いないんですか?」
聞こえてきたのは、コマちゃんの声だった。
慌てて体を起こす。
どうして、コマちゃんがここに? 今日来るなんて話はしていなかったはずだが。
大体、うちに来るつもりならばバイトから直接一緒に来ればいいのだ。
一度家に帰って、急遽ウチに来ようと思い立ったということだろうか。
それにしたって、なぜ?
「駐輪場に先輩の自転車が置いてあるのも確認しました。いるんですよね?」
……どうやら、居留守を使うことはできないらしい。
俺はゆったりした動作で、玄関に向かった。
扉を開けると、コマちゃんは安心したようにほっと息を吐いた。
「よかった、もしかしてもう寝ちゃったのかと思いました」
「……まあ、入って」
本当に寝ていたとは言えない。
沓脱に子供靴がないのを意識させないようにしながら(部屋に上げればいないことはバレるのだから、まったくの無駄な抵抗だが)リビングに通す。
麦茶を出して、テーブルにつかせる。
「……ええと、」
何から言い出そうかと考えていると、コマちゃんの方から切り出してきた。
「あの子たち、いなくなっちゃったんですね」
核心を、直接ついてくる。
射抜くような視線から逃れるように、つい顔を逸らしてしまった。
「何があったのか──話して、くれますね?」
「……わかった、話すよ」
今さらはぐらかすわけにもいかず、俺はコマちゃんの向かいに座って対面した。
「そんなことが……」
「もう、三日も前かな」
「どうしてすぐ話してくれなかったんですか!」
すごい剣幕で迫ってくるコマちゃん。
顔が近い。
「どうしてって言われても……」
コマちゃんにいらない心配をかけるわけにもいかないし──いや、それも見栄だな。
ただ、現実逃避していただけなのだろう。
口に出すのが怖かったのだ。
口にしたら、その現実に直面してしまう気がして。
けれど、どれだけ逃げても、現実は追いかけてくる。
きっと、ここが潮時だったのだ。
「……コマちゃん、どうしてわかったんだ?」
「……いえ、わかっていたわけでは──ただ、このところ先輩の様子がおかしかったので、何かはあったんだろうな、と」
「……心配、かけちゃってたか」
格好つかないなあ。
まあ、あの三人が来てからはコマちゃんの前で格好つけられてたことの方が少ないか。
ならこっからも、格好つけるだけ無駄かもしれない。
「俺さ、アイツらのこと、今までは家計を圧迫するうるさい奴ら、ってくらいにしか思ってなかったんだ」
「………」
コマちゃんは何を言うでもなく、ただ俺の独白に耳を傾けてくれた。
「朝は早くからうるさいし、夜遅くまで騒いでるし、飯の間も外に出かけても、ずっとうるさいんだ──正直、いなくなってくれるならさっさといなくなればいいのにって思ってた」
朝起きて、朝食を作って、学校に行くのを見送って、バイト先に来る三人をあしらって、買い物をして、夕食を作って、寝かしつけて、次の朝また起きて──休日なんかは昼間も相手をしなきゃいけない。そんな毎日に疲れて、辟易して、いなくなれば清々すると思ったことは一度や二度ではなかった──はず、だった。
「けど、違ったんだ」
「違った、というと?」
問い返すコマちゃんの顔は、疑問というよりも、わかりきった問題の答え合わせのような、テストを見せてくる子供を見守る親のような表情だった。
「アイツらがいなくなって、わかったよ。俺はあの騒がしい毎日を──その、煩わしさも含めて、好きになってたんだって」
そう、好きになっていた。
俺は、アイツらがいた日々を。
奔放なアカネを、おませなキララを、口の減らないアオイを。
鬱陶しいと思いながら、やれやれと呆れながら、たまらなく好きになっていたのだ。
「……先輩の気持ちは、わかりました」
「あ、いや、好きっていうのはあれだよ? キララが聞いたら喜ぶような意味じゃなくてだよ?」
「わかってますよ」
つい照れ隠しにおどける俺に、コマちゃんは苦笑してそう返す。
「先輩があの子たちのことを大好きだってことくらい、見ていればよおくわかります」
「……そんなにわかりやすかった、俺?」
自分で気づかなかっただけで、実はすごくデレデレしてたりしたんだろうか。
やだ、恥ずかしい……。
「それで、」
少しだけコップに残っていた麦茶を飲み干して、コマちゃんはそう切り出した。
「先輩は、これからどうするおつもりですか?」
「………、」
どうするつもりかと問われたら、どうしようもないと答えるしかない。
結局、そこに行き着くのだ。
アイツらへの気持ちを自覚するしないに関わらず、アイツらは、手を伸ばしても届かない場所へと行ってしまった。
今更もがいても、時すでに遅く。
どれだけ焦がれても、あの喧騒に包まれた毎日は、果てしなく遠い。
「それで、いいんですか?」
コマちゃんは、俺の目をしっかりと見つめて言った。
「そうやって、どうせ無理だと諦めて、手を伸ばすこともやめてしまって──それで、いいんですか?」
「……!」
「愛おしいと思うものに精一杯手を伸ばすのは、悪いことではないはずです。どれだけ遠く離れていても、どれほど距離が開いていても」
「けど、」
「諦めちゃ、ダメです」
諭すように、しっかりとした口調でコマちゃんは続ける。
「あの子たちだって、望んでここを離れたわけじゃない。だったら、きっと──」
そこから先は、必要なかった。
俺はゆっくりと、立ち上がった。




