第九話 天文十六年(二)
「ご覧くだされ、殿。那古野の町が見えて参りましたァ~!」
小姓の岩室長門守重休が言った。
分かり切ったことを言う、と織田三郎信長は思ったが、かえって苦笑を返した。いつものことである。
「うるさいぞ、馬謖!」
信長が叫ぶ。傍らの平手中務丞政秀が、馬上、溜息を宙に投げつつ、後ろの重休に言ったようだ。
「長門殿。そなたの欠点は、話好きすぎるところじゃなぁ……」
言われた重休は、あっはっは、と笑い声を放って、
「よろしい! そんならばこうしましょう、中務殿! 我が丞相が私のおしゃべりをお許しになられぬというのなら、この馬謖、口がすぎた咎で、泣いて斬られましょうぞ!」
「バカを申せ」
信長は言ってやった。馬上で腰をひねり、背後に向かって、笑いながら、
「キサマ、首と胴が離れても、まだ話しておるに違いない」
聴いて、周囲が大笑いを発した。重休が笑みを浮かべながら、
「そなたら笑いすぎじゃあ~!」
と周囲を指さして回り、最後に信長のほうを見て、なお大きな声で笑った。良い小姓である。初陣の後の、この信長の気落ちを見抜いていたのだ、と思えば、ことのほか可愛い家臣であった。
古渡城の北、那古野城の南、つまり織田弾正忠家の現在の本拠がある、尾張国は愛智郡の、西部辺りの街道上であった。
信長は、数えの十四歳になっていた。重休もそうである。重休は小姓衆のなかでは目立った。姉の岩室殿が父・信秀の側室なので、一種の親族であるし、いろいろと機転が利く漢だからだ。
先日、尾張国の南に位置する知多半島の東岸から船に乗り、三河国へと乗り込んだ。知多半島の大名・水野家との攻守同盟を果たすためである。
信長の役割は敵陣(今川方)後方の城を焼き討ち、水野家の領地がある三河国西部への圧力を減らすことであった。同盟者の嫡男の初陣としては、上出来であったろう。信長は赤い鎧兜に身を包み、自ら先頭に立って敵城の二つばかりを焼き討った。
その際、城下町を焼き払ったのは、敵方のこととはいえ、哀れであった。兵は凶事であり、いたずらに用いてはならない、という漢籍の教えは、幼い頃から叩き込まれている。ただ現実が理想を許さない、というだけだ。
そして、燃える敵の城下町を眼にしてしまえば、自分の居城である那古野城下の町並みが重なって見えて、若い信長は胸を衝かれた。燃えているのは、ただの町なのだ。そう思えば、つらいことだった。
泣きはしない。ただ、つらさを解消するすべは、数えの十四歳の自分のどこを探しても、見つかるものではなかった。
「ところで、殿。那古野では喜六君がお待ちであるとか。良うござるな~、殿はあのような美貌の弟君がおられて! まっ、うちの姉は大殿のお目に適ったのだ、羨ましいと申しますと、バチが当たりますかなっ!」
あっはっは、と、また、なにが可笑しいのか、馬上で自分の膝をバンバン叩いて笑う重休の態度は、思えば、信長にはありがたいものであった。そう、大将が沈んでいては士気に関わる。ちゃんとなさりませ、という隠れた叱咤と思えば、信長なりに、ちゃんとしようか、という気になってくる。
「喜六か」
知多半島東岸から三河国へ入ったのなら、帰路もまた然りであった。知多半島の西部から南部は、まだまだ織田方に従わない豪族が割拠しているのだ。
同盟相手の水野家は、その防波堤という意味で貴重であった。なんとなれば、北隣の美濃国の斎藤家や、東隣の三河国に迫る今川家とよしみを通じ、隙あらば兵を挙げかねない地域なのである。
理由もまた分からないではない。知多半島は水利が悪く、井戸を掘っても塩水しか出ない。すると、なにで生活するか、というと、水運と工芸なのだ。要は商売であった。知多半島の水軍の発達はそういう背景あってのものだろうし、金が要り用なら、売り場所も重要であった。
つまり、東国と畿内。
この二つの売り場への通路にあるのが、美濃斎藤家と駿河今川家なのだ。織田弾正忠家は商売の販路の結節点を押さえている、という意味で富裕であったが、それは必ずしも知多半島の豪族らの生活を守ってやれるものではなかった。
自分たちの口を糊するのは自分たちでしかない、という気概。この点、どうあがいても知多半島は自立的な行動を取ってしまうのである。
この解決策は、信長の考えるところ、二つしかない。そしてその二つとも、現在の織田弾正忠家では実現不可能なのだ。
つまり、権力で無理やり抑えつけられるほど大きくなるか、巨大な動員力を発揮して河の流れを変えてしまうか。そのどちらも唐(中国)のやり方であって、だから、信長的には大陸のやり方をいつかこの目でじかに見てみたい、と思っていた。
「喜六は、不思議だ」
信長は端的に言った。この偉人の悪い癖は世界線が違っても同様で、ものすげえ言葉が足りないのである。
「不思議。確かに!」
重休が言った。弾むような馬の歩き方をさせている。主人が主人なら馬も馬といえようか、非常に調子の良い歩き方であった。が、人馬一体である。才能の無駄使いとはこういうものか。信長は重休の多才さに苦笑するしかなかった。
重休が、馬蹄の響きに一定の音調をつけて、言う。
「さても秀孝君の不思議なところは、顔の広い割に名の響かないところ! 武家の生まれなのに百姓にすごく好かれているところ! あるいは、あるいは、けっこう閃くお方なのに、さほど才人としての噂がないところ!」
「それもあるが――」
信長はわずかに目を閉じ、隣の人馬の馬蹄音楽を聴きながら、言った。
「あいつは自分が美人だと思っていない」
「ハッ――」
重休が愉快そうに笑い、手を叩いた。馬が合いの手を入れるようにいなないた。ほんとうに愉快そうに笑うのだ。ヨイショが巧いといえばそれまでだが、自分は前に出ないおくゆかしさはあった。
こういう軽薄さのある人間は、礼儀の良い人間には嫌われる、という点で、まかり間違えば奸臣の類いと見做されるが、信長は好きであった。
だって友だちとするなら、明るいほうが楽しいのである。もっとも、重休は小姓だが。むしろ小姓(重役ではない)からこそ、こういう明るいやつが活きるのだ、と信長は思っていた。なにより、多才なのが、また良い。
信長は目で笑って続けた。
「あいつは自分がまったくふつうの人間だと信じている」
「ありえない!」
「あいつは自分に存在感がないとすら思い込んでいる」
「ぜんぜんまったくありえないッ!」
「そう――」
その時、那古野の町の南門の辺りに、複数の人影が出て来た。そのなかに、小さな影がある。信長の手勢を認めると、手を振ってきた。犬が振るしっぽと大差がない振り方である。なにかを叫んでいた。いや、分かる――。
『お帰りなさ~~~いっ!!!』
で、あったろう。
信長は言う。首を傾げながら。
「ありえない。そして、不思議だ」
「ええ、ええ。なんで喜六君はあんなに元気なんでしょうね?」
「例えば、わしらがずっと元気ならどうなると思う、長門?」
「疲れまする!」
「だから、不思議だ、と言っている」
「無限の体力でも持っているかのような――?」
「というより、本人にとって無駄なことは何一つとしてしてない、とでも言うべきかも知れんな」
「つまり、徒労がない、と? ――あっはっは! いやいや、それはそれは、まさにまさに!」
「幸せなのだろう。生きていて、楽しいはずだ」
喜六、あいつにとって、きっと幸せでいることが踏むべき一歩目なのだ、と信長は思った。なんという弟か。余人が喜六を能力や仕事で上回ることは容易でも、その幸せな生き方は、ちょっと真似できないだろう。
「これはこれで、幸せなのかな、長門?」
「ええ。なんかもうどうにもならないものがお身内にあると、もう良いか、という気持ちになりまするものな!」
重休の応答に、信長はからりと笑って、こう言った。
「ああ、まったく。気分が晴れた!」
信長はちょっと馬の腹を小突き、駆け足にした。重休が、ホッ、とかけ声を上げて、後に続くのが分かる。手勢の動きが増した。初陣の時は、まだまだ、と苛立ちのなかで思っていた手勢の動き方が、いまは違って見える。腰を据えて鍛えよう。そういう気に、信長はなっていた。