第七話 泣き虫な甘ちゃんと鬼みたいなふつうの女の子と
※今話前半秀孝の一人称です。
今生のボクが住んでるのは、愛知県の西部になるところ。
昔、住んでた、静岡県の桜橋からすると、もう余所と言って良かった。
時代も違うしね。
転生。分かる。
ボクもネット小説は読んでたから。
でも、ボクが読んでたのはファンタジーとかコメディとか、後は恋愛ジャンルのだから……歴史ジャンル、読んでおけば良かったかなぁ。
転生、ともあれ、転生なんだ。
ボクは戦国時代の尾張国で生まれた、というか、生まれ直した。
名前は織田喜六郎。
おだだんじょうのちゅー家の五男坊です。
ボクのやりたいことは……ん~とね。
とにかくみんなで平穏無事にすごすことカナっ!
だってだって、戦争が絶えない時代だから。
せめて家族や、友人知人とは、仲良く暮らしていたいじゃない?
平穏。平和。
ボクの望むところはそんなトコ。
後はまあ、おいしいものが食べたいから、いろいろやってるカナ~? くらいのもんだよね!
さて、今日はボクの今生の大叔父さん、大雲和尚が住職をしている、雲興寺にお邪魔してるところ。
理由? えっとね。
遠江国――平成でいったら、ボクの住んでた静岡県だけど、井伊谷っていうから、ちょっと西寄りの浜名湖のほうだよね――の地頭(領主さん)の血筋らしい、井伊次郎法師直虎ちゃんと、刑部大輔直元さんっていう、ある意味ボクの同郷のお客さまに会いに行こうかな、と思って。
目的?
挨拶!
そんな理由で?
えっ、そうだけど……。
えっと、その……なんか困ってたらいけないカナ? って。
なに~、なに~!?
ボクがそんな理由で動いちゃいけないっていうの!?
もう知らないんだから!
もちろん、お土産は用意してるからね!
だいたい食べ物なんだけど。
えっとね~、チキンジャーキーと~。
あとね~……ハチミツ羊羹がおススメカナ!
チキンジャーキーはボクのお手製なんだ。ハチミツ羊羹はレシピだけ知ってたから、台所のひとに手伝ってもらっちゃった。
もちろん、おすそ分けもした。
みんなおいしいって言ってくれて、お店で売ったらどうか、だってさ。
ふっふっふ~。
もっと褒めてくれても良いんだよ?
あ、言ってなかったと思うけど、前世のボクの実家は喫茶店だから、いろいろできるよ~。
ともあれ、これは絶対確実の仲良しアイテムだよ。
チキンジャーキーは単純にボクの好物だけど!
あ、甘いものも好きだよ?
さて、ヤブのなかで迷っちゃったことを除けば、だいたいはボクの予定通り。
そう。なんていうかね……迷った。
うう~、どうしよう?
ボクは割合と泣き虫なトコがあるから、独りになると泣いてしまう。
じゃあ独りにならなきゃ良いのに! ってなるよね。
仕方ないじゃん!
今生の身体、崖とかあったら登りたくなるんだものっ!
なんか背中がムズムズするんだよね~。
ジッとしていられないっていうか……。
でも、うわ~ん!
どうしよ~ッ!?
お小姓さん(世話係みたいなの)の藤浪忠左くんと牧清十郎くんともはぐれちゃったしさ~……。
なんだよ~、ボクがなにしたって言うんだよ~。
はい。独りで駆け出しました。楽しげに崖を登って突っ走ってました。
ボクが悪かったからぁ~!
みんなぁ~、ドコぉ~!?
ぐすん……あ。
えっとね、ちなみに。
清十郎くんっていうのは、将来イケメンになりそうな、牧家っていう、尾張国の名家の生まれ。
棒術が得意で、ボクとはお勉強友だち。
ヒーローが好きなんだって。
ボクが現代のマンガの話をしたからだと思うけど……。
ちょっと乱暴なトコも含めても、良い子だよ!
忠左くんのほうは、まだ数えの十歳なのに、背丈の伸びが早くて、羨ましい。
将来を渇望されてる、早熟? なタイプ。
顔も整ってるけど、いつも顔色が青いのはなんでだろう。
……タマゴとか食べさせたほうが良いのかな?
あと、身内以外にはツッケンドンとしてるかも?
ちょっと難しいトコを含めても、良い子だよ!
え? ボクは全員に対して良い子って言うタイプでしょって?
そんなことないよ。
ボクはボクに良い子って言わないし!
どう? バランスは取れてるでしょ!(ドヤァ)
ともかく、早く合流しないとぉ~……!
ヤブをかき分け、ボクはやっと境内についた。
う~、う~……。
寂しさで、心が、折れるかと思った……!
さーさー! 忠左くんと清十郎くんはどこだろ~。
と、そこで口論が聴こえる。
ボクが伸び上がって周囲を見ても、姿は見えない。
えっ、えっ、ケンカ?
ボクがいないところで……?
ム~……みんな勝手なんだから!
でも、ドコだろう?
正門のほうかな……?
ボクはそう思って、慌てて走って行った。
そしたら、いたよ。
でも……。
アワワワワ!
ちゅ、忠左くんと清十郎くんが、知らない女の子――男装してるけど、パッと見て線が細いよね!――と、手に手に得物を持って、ケンカしてる!
たぶん、あの女の子が次郎ちゃんだと思うけど……。
え~、え~……?
忠左くん! 清十郎くん!
なんで女の子とケンカしてるのっ!?
(止めなきゃ!)
ボクは思わず、といった感じで、走りながら叫ぶんだ。
「だ、ダメぇぇぇ~~~っ!」
ボクはワーワー言いながら、こけつまろびつしながら駆け出したんだ。
でも、声が小さかったのかな?
清十郎くん以外は止まってくれない。
「あっ、若!」
なんて言う、清十郎くんの声を、ボクは前から後ろに流した。
ボクは、待って待って、とばかりに、忠左くんの前に躍り出たんだ。
鞘付きの打刀を振りかぶってる、忠左くんの顔。
さっと顔色が白くなるのが分かるよね。たぶんびっくりしたんだと思う。
すると、その背中のバランスが崩れた。
あっ……こここ、これ、止まらないやつだ!
ボクが危ないやつだぁ~ッ!
ボクは、ギュッと目を瞑ってしまった。
そうした後で、恐い、と思った。
よみがえるのは、無機質な衝撃。
車の前面部。
びっくりして、ホッとして、そうして来る、それ。
なにもかも止まって見える。
心のなかもだよ。
ゾッとしたんだ。
前世のトラウマ。
ボクはたまらずに、
(また死ぬのかな……)
と涙を滲ませながら思った。
独りで突っ走っちゃったのが、悪かったのかなぁ……。
そしたら、いきなり、背後から誰かの気合。
なにかを弾き飛ばす音。
荒い息が後頭部にかかった。
ボクは、その息に……なにか、救われた気がした。
無機質な死の恐怖とは違う。
肌がざわつく感じ。
けれど……解放された感じ。
いま、心臓が跳ねた。
ドクン、ドクンって。
心臓の鼓動が増した。
ボクはいっそう涙が盛り上がるのを感じた。
恐い……でも。
ボクは……薄っすらと目を開けた。
誰に助けてもらったのか、ちゃんと知ろうと思ったから。
そして、ボクは後ろを振り向こうとした……。
瞬間、ガツン!
頭頂部に衝撃がくる!
今生のボクはただでさえちんまいのに、この瞬間、もっともっと背丈が縮む気がして、ボクはすごいイヤな思いを味わった。
「イタぁ~いッ!」
とボクがその場で中腰になる。うう~! と呻いた。
なんだろう、誰、どうしてこんなことするの?
背丈が縮んだらどうしてくれるのっ!?
(ムゥゥ~!)
と、ボクはいろいろ思って、頬を膨らませて後ろを振り返った。
そしたら、息を呑まれる音がした。
ボクは涙目なので、相手の姿がよく見えない。
ボクは涙をぬぐい、相手の顔を見た。
とたん、ストンと腑に落ちた。
ボクはキョトンと立ちすくんだと思う。
女の子がいたのだ。
口元をひん曲げて。
荒い息をして。
鋭い猫目をつり上げて。
拳を震わせて、ボクを睨みつけている……。
そして、びっくりして。
泣くのを堪えているような。
ボクは思ったんだ。
もし、平穏無事な、平和な世の中というものが、あるのなら……。
こういう女の子が笑顔になってる、そういう世の中なんじゃないカナ? って。
違うかな~。
ボクは、そう思ったんだけどナ~!
ボクは殴られた。確かに。
けど、ボクはかえって納得したんだ。
――ああ、いきなり飛び出して、悪いことしたなぁ、って。
心から、そう思えたから。
次郎ちゃんは怒鳴ったと思う。
「バカぁッ! チビスケェッ! ウロチョロするなァ~ッ!」
次郎ちゃんは鬼みたいな剣幕だった。
でもね。
ほんとうの鬼は、怒らないと思う。
気持ちの持って行き場がないから、きっとひとは怒るんだ。
だから、ボクは次郎ちゃんに声をかけようとした。
ありがとうって。
それから、ごめんなさいって。
ちゃんと伝えようって思ったから。
けれど、ボクの動きは遅かったんだ。
「次郎ォォォオオッ!」
突然、次郎ちゃんが誰かに組み伏せられた。
若い男のひと。
見知らぬ誰か。
けれど、次郎ちゃんと似ている……。
直元さん――?
ボクが察する前に、聴き知った声がした。
「喜六ゥゥゥゥゥゥゥ~~~ッッ!」
ボクには意味が分からなかったんだ。
ボクは、突然、現れた、今生のお父さんに抱擁された。
頭を撫でられて、背中を舐めるようにさすられて、
「だいじょうぶか、平気か!」
って心配されて、そして安心されてる。
それは良いんだけど……。
でも、次郎ちゃんは直元さんにうつ伏せに組み伏せられて……。
呆然とボクを見ているんだ。
次郎ちゃんの気持ちが、行き場を失くしたのが分かった。
そしたら、次郎ちゃんの顔がほんとの鬼みたいになるのだ。
分かってる。
例え、次郎ちゃんが半狂乱のようになって、直元さんや、抑えにかかった忠左くんの手足に噛みついても。
例え、ものすごい目つきでボクを睨んできても。
分かってるから。
ボクは制止するお父さんの腕から逃れて、次郎ちゃんのところに走った。
直元さんたちとの格闘の末に、仰向けになった次郎ちゃんが、なおもボクを睨んできている。ボクはその頬に手を添えて、ある切なさを感じながら、言うんだ。
「泣かないで――」
きみの寂しさが、ボクにはつらい。
誰がなんと言ったって、ボクはきみのことをこう思う。
きみは良い子だ。
だから、泣かないで――。
お願いだからと、ボクは泣きながら、この手に想いを込めた。
◇
直虎という娘は故郷を持たなかった。
この場合の故郷とは、心のふるさととか、自分の帰りつくべき場所であった。
彼女は身体を動かすことが好きであった。
必然、その性質は稽古に対する熱意となった。
しかし彼女の中身は空っぽであった。帰りつくべき場所は彼女のなかで未踏のままであった。その空白を埋めるために、彼女は常に『家族』を欲した――。
大叔父の直元に組み伏せられ、問答無用で言動……いや正確には『動き』単体を封じ込められた時、直虎のどこかで軋みが生じた。思ったのは、
(裏切られた――)
ということであって、呆然とするなかで、彼女なりの『家族』に対する奉仕が無為に終わったことを悟らせた。
次の瞬間には、直虎は溜め込んだ感情を噴出させていた。
その身のうちの空白のなかに、我知らず溜め込んだ感情は、当然ながら、彼女の思案外の暴力を伴って、その身近な誰かに降りかかった。
彼女は噛みついたのだ。
その身にかかる――彼女にとっては耐えがたい――『この世のこうあること』という理不尽に対して。
そして、こうも思った。
(終わった――)
なにもかもがだ。井伊次郎法師直虎を形成していた、あらゆるものが、わずか数瞬のうちに崩壊して行くのが分かった。その元凶は誰か。決まっていた。例え世の誰がなんと言おうと、ただいまこの場の直虎が憎むべき相手は『多大なる愛情にくるまれている』――近くのあの幼児でしかありえなかった。
欲しかったもの。
けれど、手に入らなかったもの。
なぜ自分はそれを欲していたのだろう――そんなことすら、怒りのなかで分からなくなる。
直虎は直虎をかなぐり捨てたのだ。
そうして、睨んだ。
この世のあるさま。
この世が、ここに、あることそのものを。
あるいは、直虎の父親が、大叔父が、家族が――。
直虎に対して、そうしたように!
「泣かないで――」
だから。
かの幼児の声は、最初、空虚に聴こえた。
凍えるような世の中だ。
自分をかなぐり捨てても、誰も拾ってくれるものがない。
捨ててしまえば、そこまでのはずであった。
まさしく、終わっていた。命が先か、心が先か。自分を捨てたものには、ただその違いがあるだけであった――そのはずであった。
「良い子だから、良い子だから……ね?」
両の頬を撫でさすられ、ポタポタと額に熱いものがしたたった。
泣かないで、良い子だからと、そう言う割には本人がいちばん泣き虫だ。そしておそらくは甘いのだろう。ダダ甘だ。
だって、直虎が捨てた直虎自身を、その小さな手に拾い集めるようにして、懸命に返してくれているようにすら、直虎には思えたのだから。
「そんなことしちゃダメだよぅ、次郎ちゃん……次郎ちゃん!」
ああ、と直虎は、四肢の力を抜いた。そして、その四肢がいまだ拘束されているから、否応なく流れる涙を隠せるものがなかった。
福音の声こそ切なげであった。
世界の働きのなかで、たった一つだけやさしげなものの声こそ、この世でいちばん寂しげであった。
(ワシは寂しかったのか――)
寂しがっている誰かを見て、自分もそうだったのかと気づいてしまえば、理由は簡単なものであった。
井伊次郎法師直虎、という女の子が、急速にそのかたちを取り戻していくのが分かる。心が震えた。熱いものが喉にこみ上げる。なんだろう、なんだろう……直虎が涙を流しながら、眼前の幼児の瞳を覗き込んだ。
すると、なにかを返すように……幼児が大泣きに泣き始めるのだ。直虎も、釣られて泣いてしまった。
そして、気づいたのだ。
「父上ぇぇぇ~~~、母上ぇぇぇぇ~~~っ……!」
自分はあなた方に、抱き留めていて欲しかっただけなのだ。
この身が、この心が、独り立ちできるようになるまで。
せめて、大人になるまでは……。
なにがあっても、抱きしめていて欲しかったんだ、と。
気づき、泣いてしまえば――。
直虎なりに、里心もついた。
◇
井伊直元はへたりこんでいた。お堂の軒先である。
「次郎が、泣いた――あの次郎が」
呆然と呟く。
境内のドタバタはなりを潜めて、中天をすぎた太陽は午後の日差しをやんわりと人々の肩に注いでいる。
見れば、又姪の直虎は幼児――織田喜六郎――の膝で眠っていた。その様子は飼いならされた猫のそれであったが、背中を丸めているのは、父母恋しさを察せられて、余りあった。信じられなかった。直虎の姿も、これまでの自分の振舞いも。
(間違っていたのか)
直元はそう思わずにはいられなかった。
織田信秀の疲れたようなお叱りの声が聴こえる。
「良いか、みんな。喜六のことはもう良い。先のケンカも、まあ、大目に見てやろう。しかしだな、みんな、もうちょっと落ち着こうぜ? なんだよコレ。なんで女の子泣かせてるの? それもこれも、みんなの落ち着きが足りないせいだ」
信秀の訓示をまともに受け止めている人間なんてこの場に誰もいなかった。直元はもちろん、ケンカの渦中にあった少年二人――藤浪忠左、牧清十郎――も、ましてや大雲和尚ですら、どこかボウッとしながら信秀の言葉を聴いていた。
みんな夢を見ていたようであった。
ケンカも夢、直虎が泣いたのも夢……もしかしたら、自分の亡命も夢かも知れないと、直元は思った。
(おとーさ~ん……)
喜六郎少年が小声でなにかを囁いた。ちょっと弱々しく聴こえた。
とたん、おっ、と喜びの声を上げて駆け寄って行く信秀であった。膝を曲げて耳を貸す信秀に対して、喜六郎少年がコショコショと言っていた。小さい声なのに、いまの直元の耳には響くようであった。
(ごめんなさい、お父さん。ボク悪いトコあった……)
(お、おう……どうした、喜六ゥ~? なんかイヤなことでもあったのか?)
(あのね、ボク……落ち着きが足りなかった。――みんなに迷惑かけちゃった)
思わず、ハッと口元を抑えた信秀の後ろ姿に、大きな感動を見出したのは、直元の見間違いではなかったろう。また涙目になっている喜六郎少年の肩をやさしく叩き、信秀は震える声で言うのだ。
「喜六……そうか、喜六! いま、この場の誰も、オレの言うことなんて聴いてくれなくっても、おまえがそう言ってくれるのなら……クッ! ああ、畜生! 今日は風が……やたら目に沁みるぜ!」
とか言う信秀は、小声を忘れて並の音声で全身を震わせていた。おそらく心も震えていたろう。ただ、その裾を引き、喜六郎少年がなにか言いたげな表情をした。信秀がまた膝を曲げると、喜六郎少年はコショコショッと言うのだ。
(ありがとう、お父さん。でもね……ごめんね。ちょっと静かにしてくれたら、ボクも次郎ちゃんもきっと嬉しいカモ)
と言われたので、あっ、ごめんな! と正気に返ったようなことを小声で言う、信秀であった。
信秀は鼻先を指でこすり、ちょっと後頭部をかいて、周囲をボンヤリと見た。ふっと直元と目を合わせる。すると、信秀がこちらに近寄って来るではないか。
姿勢を正そうとした直元を抑え、信秀はお堂の軒先で並んで座った。ぼんやりと喜六郎少年のほうを見ながら、信秀は言うのだ。
「おまえさ、なんで亡命なんかしたの?」
その声は町の少年が仲間にかける言葉に似ていた。しかし直元は別段、拒否感を覚えることはなかった。心が真っ白に近くなっていたせいかも知れない。自然な口ぶりで応じていた。
「なんでって……成り行きだよ。えっと」
「呼び捨てで良いって」
「じゃあ、弾正殿」
「なんだい、刑ちゃん?」
「次郎は――あの子は、泣くんだな」
直元の言葉に、信秀は鼻息一つつき、頷いた。
「泣くな、人間だし」
「泣かないと思ってた」
「そう思いたくなる女はいるが、泣くぜ。弱点を衝かれると、すげえ泣く」
「遊んでるんだな、弾正殿は?」
「そう思うか? まあ……それなりにだな」
「ということは、すごく遊んでるんだ」
「うるせえ」
直元と信秀は言い合い、低い声で笑い合った。
そこで、信秀は懐から包みを出し、茶色っぽい棒を噛んだ。一つ、直元に差し出してくるので、直元も受け取った。
噛んでみると、良いかおりの鳥肉である。いぶしてあるのか、保存が利きそうだ。しかし味がシッカリついていて、噛めば噛むほど味がしみ出し、うまい。
直元が唸り声を上げていると、信秀が二本目で喜六郎少年を示し、言った。
「喜六がつくったんだよ」
「ほう――」
「手先が器用なんだ。オレに似たんだな」
直元は笑った。なにがどう転んでも、あいつはオレに似ている、と息子の自慢をする種類の漢に思えたからだ。そして直元は、故郷の父母や、親族の顔を想った。
家族が、離れ離れになりたいわけがなかった。しかし、そうせねばならないほど、いまの井伊谷は危険なのだ。家老の小野氏の専横と、今川家の圧力。その二つが揃えば、井伊家の誰もが身の安全を保障されなかった。直元の兄二人は、小野氏の讒言によって、今川家の手で殺されているのだ。
(成り行きだ――)
と、直元は心中で繰り返した。思わず顔を覆い、怨嗟の声をもらさずにはいられない成り行きというものが、この世にはあるのだ。否も応もなかった。顔面蒼白の状態で、脂汗を垂らしながらであっても、歩き出さなければならない時はあった。
「雇ってくれ」
直元は言っていた。思いつきのようなものであったが、これしかない、とすぐに思い直した。信秀がチラリと横目で見てくる。さらに言い募ろうと、姿勢を正そうとした直元を手で制して、信秀が一本の指を立てて言った。
「一つ訊くが……おまえはなにができるんだ?」
「負けない」
直元の物言いに、信秀はちょっと意表を衝かれたような顔をした。そしてもう一つ、いぶした鳥肉をくわえつつ、地面を見た。直元は待った。信秀はそうして、ポツリと言い出すのだ。
「なるほどな。てめえの生真面目さの危うさは分かってんだな。上等だ……刑部大輔、もしおまえが、前へ出る、戦う、功名を上げる――てな、焦ってることを言ってたらよ、オレはおまえを、どこかで殺してたぜ」
「それは」
「功名大事なのは良い、愚直なのも良い。しかし生真面目なのは良くねえ。そういうやつに限って暴走するんだからな。自我より生真面目さのほうが強いと、目的が見えなくなるんだ。しかし、おまえは良い……負けない、か。心意気だろうぜ、自分にも負けないんだろう。気に入った。支度金、百貫(約一千万円)出す」
信秀の言葉に、直元は震えた。そしてツバを呑みつつ、信秀の続きを待った。信秀が言う。
「浪人を四人ばかし雇って、身支度を整えろ。俸禄はオレの歳入地から、百五十石ばかし出してやる。どうだい。それくらいありゃ、なんとかなろう」
「つまり――」
「ああ、雇ってやる」
信秀はあごを上げて、いぶした鳥肉をくわえつつ、ニッと笑うのだ。直元は思わず、頭を下げた。感謝の言葉を繰り返し述べる。
「よせやい」
という信秀の言葉に顔を上げると、信秀の無邪気な笑みが心に残った。直元は、そういう漢か、と信秀の本性を見た思いがした。それは同時に、この御仁は家に縛られるのを嫌う種類の漢ではなかったか、という想念に結びつき、直元はとっさの言葉を失くした。侍の生まれではなく、自由な商家の生まれであったなら、この御仁はもっともっと幸福であったのではないか――。
信秀は直元の絶句したような様子に、キョトンとしたが、ふと太い首を回し、喜六郎少年のほうを見て、鍛えられた腕で直元の肩をさりげなく抱き、漢くさいほど漢らしい仕草で、振り向きざまに、こうと言うのだ。きっとこの一連の動作で多数の女性を泣かしているに違いないが、ともあれ。
「ただし、喜六に属けるぞ、刑部」
「それは……名誉なことでは?」
「いや、そういうことじゃなくて、なんだ……」
信秀は頬をかき、ちょっと情けない顔になって、しみじみと言うのだ。
「苦労するんだ、刑部。喜六に属くとな、苦労するんだ」
直元は噂の喜六郎少年をあらためて見た。
小柄だが、しなやかな背筋をして、その肌は白く、唇はぷっくりとした桃色、瞳は丸く大きく、その表情は柔和であった。茶色い髪ではあるが、その色艶は素晴らしく、日が照ると綺麗な赤毛になるのがまた美しかった。
女装をすれば、その時点で傾国の美しさを発揮するだろう。これで男のコ……と、そこで喜六郎少年と目が合った。
(こ・ん・に・ち・は!)
パクパクと口の動きで挨拶される。喜六郎少年が手をグーパーして、ニッコリとした笑みを向けられれば、信秀の言い分も分かった。これは苦労する。見るひとを惹きつけるものを、その内外に持っているからだ。
しかし――と直元は喜六郎少年から目を離し、こちらをジッと見ている信秀に対して、自分の感想を述べた。
「あの若君は、あなたによく似ておられると思いますが、弾正殿。いや、大殿?」
その言葉に、信秀は目を丸くして、次いで、ダッハッハ! と大笑いしながら、直元の肩をバンバン叩いた。直虎が身じろぎする。喜六郎少年が慌てる。信秀がクックッとツボにハマったような呻き声をもらして、直元に言うのだ。
「そうかい。そいつぁ……苦労するわけだなぁ」
晴天である。直元は信秀の幸せな呟きを聴きつつ、新天地でのこれからの暮らしを思っていた。