第五話 井伊家の鬼
陰暦四月はお寺がにぎわう。
秋から冬にかけての裏作(麦や冬野菜、あるいは緑肥用の作物を植える、俗にいう二毛作)で得たタネを預けに、チラホラと近隣のお百姓さんが参って来るからだ。
どこも焼き討ちされ、略奪されるから、まさか寺は焼かないし、奪わないだろう、という考えで、大事なタネを預けに来るのだ(※もっとも、京都のほうでは寺同士で焼き討ちし合ったりしてるし、後に史実上、信長が敵対する寺々を燃やすから、絶対に安全でもないのだけれど)。
(見知ったひとがいないのじゃ)
と、井伊次郎法師直虎は寺の境内で木刀の素振りをしながら、当たり前のことを不思議がった。
日課の稽古の途中であった。
直虎が、足裏をシッカリ地面につけながら、ビュンビュンと素振りをする。その横で、お百姓さんらしい人々が順繰り順繰り、雲興寺を訪れ、大雲和尚や寺の小坊主にタネを渡していくのだ。
小さな頃から、直虎はお百姓さんの季節ごとの動きは見知っていた。別に、惣領娘だから、その統治の予行のため、ではなかった。強いて言えば、人間が好きなのだ。大叔父の一人が井伊家の菩提寺の管理をしていて、学問がてら、お寺にはよく通っていた。
直虎とその大叔父の井伊刑部大輔直元が尾張国に来たのは、実は元々の主筋にあたる、尾張国の守護・斯波氏を頼って来たからであった。斯波氏は元々遠江国の守護でもあったのだから、いわば縁故を頼ったのである。
直虎たちの実態が、今川家からの圧迫を避けての亡命であっても、形式的には旧恩のある斯波氏への忠義を立てにはせ参じた、という面目が立つ。めんどくさいけど、武家的にはこういう形式が大事なのであった(現在の主筋である今川家への言い訳の役に立つ、というのもポイント。え、なに? うち忠義立ててるんだけど? 今川さんトコは将軍家辺りにしないの? というカウンターじみた嫌がらせも兼ねられ、実用性が高かった)。
史実でいえば、武田信玄に追放された父親の信虎が、駿河国の滞留を経て、京都の足利将軍家に仕えたのも、武家の習いというか、再就職先・亡命先としては適当だったからだろう。
もちろん、本音では故郷に帰りたかったのか、晩年は孫の武田勝頼を頼ったけれど、さすがに甲斐国に来られるのはちょっと……となったのか、北隣の信濃国の息子のところに滞在し、死去した後で甲斐国に葬られているけれど。
ともあれ、直虎が稽古をしている、という話であった。
考えてみれば、稽古は故郷のならわしであった。旅に出た人間は故郷の風習を余所へ持ち込む、とはよく聴く話だけれど、自分のこれもそうなのかと、直虎は手ぬぐいで首筋の汗をぬぐいつつ、肩を回して、よ~し! とばかりに次の段階を踏むのだ。
「トリャ~ッ!」
と、直虎が背筋を伸ばして、飛んだり跳ねたりしながら、ボコボコと境内の木(神仏習合の時代なので、たぶん神木)の幹に巻き付けた荒縄の辺りを木刀で叩き始めた。もちろんバチあたりであるが、かえって、度胸をつけるためであった。
とたんに、ザワッとお寺に参って来たお百姓さんの団体が慌て、それを、ドウドウ、お鎮まり、お鎮まり、と小坊主が抑えた。
お百姓さんの団体は、いや、うちらをいさめるよりあの子を……と混乱の極みのようであったが、突然、機嫌の良いクマの笑い声が聴こえたため、みんな肩をすくませて鎮まり返った。
笑ったのは大雲和尚であった。
「ぐあっはっはっは! さすがは次郎法師殿よ! みなも見よ、あの裂帛の気迫! あんなのを間近に受けてしまえば、たとい神木といえども、祟るのをためらうであろう! のう、そうは思わぬか? ぐあっはっはっは!」
と、言ったので、お百姓さんも、そんなもんかな、和尚さまが言うんだし、という感じで納得したようであった。
大雲和尚は続けて、
「小兵は身を捨てて斬りかからねば、かえっておのれの命が危うい。よく仕込まれておる!」
と、直虎を褒めてくれたけれど、
「コラァ~ッ!」
とたんに駆けつけて来たのは、大叔父の井伊直元であった。
今日は、いつまで経ってもお寺寄宿の扱いが変わらないのを無念に思い、斯波氏のいる清洲城の門前で腹を斬ろうか、焼き討ちしようか迷ったあげく、そんなら間をとって直談判でどうであろうか、という平和の使者・大雲和尚の提案で、さっそうと直談判に行った直元であるが、ちょうど帰って来たものらしかった。
直元は、赤いのか青いのか、よく分からん顔で、息せき切って直虎のところに走り込んで、ズザザ~ッ! とヘッドスライディングをキメつつ、顔を砂まみれにして叱声を上げるのだ。
「こ、ここをどこだと思っておるのか!? 尾張国だぞ!?? 故郷の風習をそのまま持ち込んでどーする、次郎! 郷に入れば郷に従え、という格言を知らぬのかッ!」
「大叔父上――!」
と、直虎は、ちょっと心外な気持ちになった。故郷では褒められるのに、ここでは場所が違うからダメとは、理屈が通っているようで、ぜんぜん通ってない、と思う。第一、就職交渉先の門前で自殺か放火を迷っていた人間の言葉とも思われなかった(でも戦国時代の武家的には割とポピュラーな抗議の姿勢ではある)。
とっさのことで抗弁もできず、直虎はちょっとした胸苦しさのなかで、背中を丸めて、クッ、と唇を引き結んでしまったが、大叔父の直元の言うことである。直虎は不満と木刀を背中に隠し、うつ伏せの大叔父に対して、片膝をついて応じた。重い息を吐きつつ、言葉を選びながら、言う。
「……おそれながら、この次郎法師。ご神木の幹が痛まぬよう、シッカと荒縄を巻いておりますのじゃ。神仏を尊重するは武家の嗜み。井伊谷のみなみなさまのお教えに従い、ワシは稽古をやっておりますのに、なんでお教えを守ってダメと申されるのか――」
「次郎……」
直元は言葉に詰まった様子であるが、いや、ここで甘やかしてはダメだ! とばかりに首を振って、憤然と立ち上がって、キッと直虎を眼下に見据えるのだ。その後で、大雲和尚に対して直角九十度のお時儀をし、こうと詫びた。
「大雲和尚! この度はうちの又姪が粗相をしまくり、面目次第もありませぬ――」
直虎はぶすっとして俯き、甘く手を握りしめて、足元の小石を蹴った。泣きそうになるが、泣くわけにはいかない。井伊谷の子は強いのだ。たとえ城を落とされたり、当主が殺されたって、きっと不死鳥のごとく蘇るだろう、それが井伊家なのだ。直虎は誰にも見られないように気を配って、そっと涙をぬぐった。
笑い声。
自分が笑われたのだろうかと、直虎が決壊ギリギリな思いで視線を上げると、大雲和尚が剛毅なクマ笑いを上げているところであった。空を仰いで笑っているので、別に直虎を笑っているわけではなかったろう。直虎はちょっとホッとした。
筋肉がムチムチして、僧衣がハチ切れんばかりの袖をブンと振って、大雲和尚はこうと応じた。
「ぐあっはっはっは! なんのなんの! 次郎法師殿の振舞いは、武家の作法に則っておる。本人も言うたではないか、神仏を尊重するは武家の嗜み、と。よくできた惣領娘である。この上は我が織田弾正忠家の男子のいずれかと縁を結ばせ、一門に迎えたいくらいには、将来が楽しみな娘御にございまするぞ!」
「ハッ……はぁ……そう申されますと、弱いというか、当てが外れたというか……」
直元に弱々しく言われて、大雲和尚は毛虫のような眉毛を片方、上げて、ふと気づいたように笑い飛ばした。
「ああ、この大雲に、次郎法師殿への説教の片棒を担げと申されるか! ぐあっはっはっは! 刑部殿、なにをそう無体を申される! 次郎法師殿は、まだ子どもぞ。この上は周囲がドッシリと構え、なんの、世はこともなげであると、次郎法師殿を見守るが上策というものですぞ。そうなされよ、刑部殿! ぐあっはっはっは!」
そう言われれば、直虎は少し救われる気がした。
脳までゆるむかのような晴天である。寒気がようやく去って、人々がホッと一息ついた頃であった。
直虎は、
「ところで、大叔父上。清洲の御前さまはなんと仰せであられましたか?」
と、気分を切り替える努力をして、後頭部でまとめた髪の房をうなじに垂らしつつ、直元を見上げて問うた。御前さま、とは領主の奥方を指すことが多いけれど、この場合は尾張守護の斯波氏のことである。貴人に対する尊称であった。
直元はなぜかムッとして、
「会えなかった」
と、両腕を胸の辺りで組んで、そっぽを向いてしまった。その背中の陰りから、直虎には直元の無念の大きさが分かったので、なるべくやさしく、
「だいじょうぶですじゃ、大叔父上。次はきっと会えますのじゃ!」
とか言ったら、直元はウッと呻くや、肩を震わせて、口元を手で抑えてしまった。大雲和尚がその肩をやさしく叩いている。なにか悪いことを言ってしまっただろうか、と直虎がオロオロしていると、直元が目元に――きっと悔し涙だろう(直虎視点)――光るものを浮かばせて、
「良いのだ、次郎。むしろ私が悪かった……――」
と、直虎の両肩に手を添えて、やさしく言ってくれた。
「あの……ほんとに元気を出して欲しいのじゃ……」
と、直虎が弱々しく言えば、もうなんというか、直元はワッと勢い込んで顔を覆い、傍らの大雲和尚の厚い胸板へ飛び込んでしまった。大雲和尚は幼児をあやすように、直元の背中をさすりつつ、
「次郎法師殿。ここはもう良いから、着替えを済ませてこられると良い」
と、なにやら苦笑しつつ言ってきた。直虎はほんとうに悪いことをしてしまった、という思いで、ペコリと頭を下げて、その場から慌てて走り去った。
と、そこで、着物が肌にペタッとしていることに気づいた。汗だくである。
(そうじゃ、水浴びでもすれば――)
と直虎は思った。良い思いつきである。水を浴びれば、この散々に乱れた気持ちも落ち着いてくれることだろう。
直虎は裏手の井戸のほうに向かった。
このお寺には、干ばつ用のため池もあるけれど、さすがにそれを使うのはダメだろう。お寺の裏手は恐いけど、やっぱり井戸が良い。頭から水をざんぶと被り、粗い布で肌をゴシゴシと拭えば、きっと気持ちの整理もつくはずであった。
直虎が、手ぬぐいと木刀をブラブラさせながら、しょんぼりと歩いていると、サワサワという足音がした。なんじゃろう、と視線を向ければ、苔むした裏手のほうから、二人の少年が飛び出して来るところであった。
「……おらぬ、おらぬ! 若はいずこに……!?」
「おっ、姉ちゃん。なんで女のくせに寺にいんの?」
声をかけられて、直虎は戸惑った。
大小の少年二人はヤブから出て来たのであり、その背後には濃い陰翳を背負っていた。これが夕闇なら、もののけの存在を疑うだろう。しかし、時刻は昼である。もののけが跋渉するには不釣り合いな白日の天下であった。
直虎は相手を見極めるような顔をして、胸元の辺りで手ぬぐいと木刀を握りしめ、こうと言った。
「そなたらは……なんじゃっ!?」
問われて、少年二人はちょっと直虎のことをバカにしたような顔をした。きっと怯えているのを悟られたのだろう。
幼いほうの少年が、長身の少年を見上げ、言っている。
「なんだってよ、先輩」
「……知らん。我らが何者かは、若がご存知だろう。そうだ、娘。若を……我らが若さまを見なかったか? こやつより小さいくらいの……そう、神のごとき美貌のおさなごなのだが――」
すっごい妙なことを言ったのは、顔にスダレのかかったような、やたら青白い顔立ちの長身の少年のほうだった。家格が低いのか、着物はどこかくたびれて、草履も擦り切れている。けれど、背筋はピンと伸びているし、なにより、侍の手をしていた。第一印象は『侮りがたい』であって、年齢はまさしく直虎と同い年くらいだろうから、数えの十歳くらいだろう。
もう一人の口が軽そうなほうは、上下の着物も、履物も良い。顔立ちも白面の貴公子然としながら、しかし、背負う気合いが段違いであった。一見して良家の子息であろう。たまにいる、生まれも育ちも能力もある異質な風格であった。ワルガキっぽく肩に練習用の棒を担いでいるのはいかにもワンパク坊主だが……四つくらい年下っぽかったから、こっちは数えの六歳くらいだろう。
「……どうした、口が利けぬわけでもあるまいに」
と、長身の少年があごを上げて、問うてきた。その時、とっさに直虎の脳裡に浮かんだのは、
(相手に噛みつく気でやれ!)
という、稽古の記憶であった。
こうなれば、否応はない。相手と適当に会話して流す、というのも、実は訓練が必要なのだ。直虎は適当に会話して流す訓練など受けたことがなかった。あるのは、はい、いいえ、の真っ向勝負の侍の記憶だけであった。
直虎は一つ気合を入れて、背筋を伸ばし、口元を引き締め、前へ何歩か進んだ。手ぬぐいを首にかけて、左手で木刀を持った。左利きではない。こう持つのだ。直虎は長身のほうの少年の眼下に立ち、こうと言ってやった。
「ワシは知らぬ。余所へ行け!」
「……そうか」
言いながら、長身の少年はちょっとムッとしたようであった。言い方の問題であったろう。長身の少年はジトッとした暗い目で直虎を見下ろして、ふと、ハン、と笑って、横を通りすぎつつ、言ってきた。
「……臆病者が。ウロチョロするな」
瞬間、直虎の全身の毛が逆立ったようであった。
「待て!」
気づいたら、直虎は言っていた。呼吸が荒くなって、視界が狭まっているのを感じた。背中そのものがなくなったような感覚であった。
「いま、なんと申した――!」
直虎に問われて、長身の少年がうっとうしそうに振り返ってきた。総髪にマゲの頭をやや後ろに倒すようにして、薄気味悪い笑みを浮かべて、こう言う。
「……怒ったのか、臆病者?」
直虎は、次の瞬間、木刀を構えていた。
「ワシはッ!」
言いながら、直虎は否応なく踏み込み、木刀を振るっていた。長身の少年が鞘ごと打刀を持ち、直虎の木刀を鍔の辺りで受け止め、その暗い目で見定めるような目つきをした。
直虎は渾身の力で、上に押し上げるようにして長身の少年の鞘を打ち払い、二、三歩、距離を取って、こうと叫ぶのだ。
「臆病者ではないッ!」
刹那、直虎はふと、もう一歩、後ろに下がっていた。視界をなにかが横切り、ヒュウと口笛を吹かれて、直虎は幼いほうの少年に棒で突かれていたのだと悟った。幼い、とはいうけれど、先の気迫のこもった棒先はなんだ。
幼いほうの少年が地を蹴り、跳んだ。とっさに直虎が木刀を構えなおせば、そこに回し蹴りが来るではないか。
受け止め、弾いた。直虎はもう三歩ほど後退し、その後退した出来事自体に憤怒してしまった。降り立った幼い少年が棒をくるりと肩に回しつつ、へらへらと笑って、その端整な顔を傾げて、胸の辺りに長い髪の房を垂らして、言ってくるのだ。
「じゃあ、姉ちゃんは勇者か?」
直虎は怪訝な顔をして、呟いた。
「ひーろー?」
「誰にも負けないやつ!」
幼い少年は背筋を伸ばして、その両足でしっかと立ちつつ、にこやかに笑うのだ。
「うちの若が教えてくれたっ!」
直虎はブンと木刀を真横に薙ぎ、幼い少年をけん制して、言うのだ。
「ワシは直虎じゃ!」
その時、長身の少年が背負う影を濃くして、問うてきた。
「……なおとら? おまえの姓名は井伊直虎か?」
言われて、直虎は胸を張って応じた。
「そうじゃ。だったらどうしたっ!」
「……こんなやつのために」
長身の少年が背中を曲げ、幽鬼のようにうな垂れた。幼いほうの少年は呆気に取られたように、マジマジと直虎を見ている。長身の少年が顔だけ上げた。丸い背中をして、その両目だけを炯々と光らせられるのは、いっそ恐怖であった。
「……若がご慈悲を示されるのは構わないが、こんな臆病者のために、我々の時間を潰されたくはないな」
「ワシはっ、臆病者ではないッ!」
「……どうだか」
長身の少年がやっと背筋を伸ばし、ヌラリと立ち上がった。ただ、先ほどまであった芯のようなものは欠けていた。無気力さを滲ませて、虚空を睨んで、打刀すら重そうに垂れ下げている。
そうして、直虎の顔すら見ずに、長身の少年は不機嫌そうに吐き捨てるのだ。
「……遠州の井伊の正嫡というのも、名ばかりよな」
「取り消せ」
直虎は、その言葉だけをひねり出していた。身体の震えは増し、おこりのようにブルブルと震えている。
バカにされて良いはずはなかった。井伊の名を、井伊直虎という存在を、こんなところで汚されて良いはずはなかった。
長身の少年が言う。
「……なにが悪い。我々の時間を潰したのは、おまえだ。井伊の臆病者!」
噛み殺してやる。
直虎が思ったのは、それだけだった。木刀を構えなおし、ジリ、とかかとを浮かせる。左手を軸とし、やわらかく柄を握った。後は、打ち込むか、打ち込まないか……はい、いいえ、の世界でしかなかった。
「へー!」
と、幼い少年がはしゃいだ。
「……フン」
と、長身の少年が斜に構えて鼻を鳴らし、鞘付きの打刀を両手で握り直した。
そうして、言うのだ。
「……来い。ケンカくらいなら、買ってやる」
直虎のなかの鬼が吼えた。
背後はなく、ただ前しかない。
いまの直虎の存在は、まさしく『井伊家の鬼』であった。