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第四話 苦労の元手

「ともあれ、殿におかれましては、井伊刑部大輔直元、井伊次郎法師直虎の両名には、会って頂きませんと……」


 と、言うのは平手中務丞政秀ひらてなかつかさのじょうまさひで。織田弾正忠家の重臣の一人で、嫡男の吉法師(信長)の補佐役をしているお爺さんだ。

 その老いた額に誰ぞの指が伸び、パチン! とデコピンされる。


「あ痛!」


 と呻く政秀に対し、デコピンの犯人――織田弾正忠信秀は、


「うっせえな。バーカ!」


 と子どもみたいな悪態をついていた。


 古渡城ふるわたりじょうの中庭である。

 武家は弓矢の家、という例えがあるから、という理由で、元来、あまり外に出たがらないタイプの信秀を無理やり中庭に連れ出し、小姓とても下がらせて、政秀が言うのが、今日まで何度となく言ってきた、遠江国とおとうみのくにからの招かれざる客の応対であった。


 時節柄、対今川家戦略には抜かりが許されない時期であった。


 三年前――つまり、五男坊の秀孝が生まれてから、一年後の天文十一年(1542年)の八月に、三河国みかわのくに小豆坂あずきざかで今川家の軍を破り、ようやっと尾張国おわりのくにから戦雲を遠ざけられたのだ。


 信秀の戦のやり方は、体制を整えて、こっちが主導権を握り、相手を押しまくる、というのがほとんどだった。ある意味、王道である。その欠点として、行動が後手、防衛側に回ることが多かった。

 ともあれ、まずは今川家から、三河国経略の主導権を奪い取れたのは幸いであった。


 でも、そうと考えてみれば、またおかしい。考えの基本が防衛寄りの信秀は、自分で掴んだ好機以外は疑ってかかることがほとんどだったのだ。

 つまり、元々は今川家に頭を下げていた勢力のはずの、遠江国の井伊家から、一族の年若い兄ちゃんと、なおもって、直系の娘っ子が逃れて来たのが、信秀には意味が分からなかったのだ。


 勝つことこそ戦である、と慎重に慎重を重ねる性格であればこそ、この気持ちの悪いくらいの意味の分からなさは、信秀のカンに障るところであった。


 とりもなおさず、という感じで、弓弦をビョンと鳴らして矢を飛ばし、遠くの的から外したところで、信秀はイライラと言ってやるのだ。


「良いか、政秀。オレは元来、戦が下手なんだ。親父の代からの付き合いである、おまえが分からない話ではあるまい」

「ごもっとも」


 信秀の戦下手、という話に、あっさりと頷いた政秀に、信秀は愛情のこもった回し蹴りを見舞ってやった。

 どう、と倒れ伏した政秀にのし掛かって、騎虎の勢いでトドメの一撃を信秀がしようとした時、ゴツン、と後頭部に衝撃が走った。


「あっ、痛え!」


 と後頭部をさすりつつ、誰かと振り返れば、正室の土田御前であった。

 今年は今年で子どもを孕んでいるので、お腹が膨れている。

 毎年、毎年、子どもを孕んでいる土田御前は、根っからの酒好きと相まって、日頃は館の奥から出てこない、という、不健全なのか健康なのか、良く分からない生き方をするのが常であった。


「そう、アタシさ!」

「おまえ、御前。ふざけるなよ……お腹の子どもに響いたら、どうするんだよ!」


 と、なにかの例題にしたいくらいのツンデレ夫っぷりを発揮しつつ、信秀が、正室の立ち歩きに抗議の声を上げたところで、土田御前が手に持った酒壺を掲げた。先の一撃は酒壺の底によるものか、と犯行の鈍器を認識したところで、信秀は慌てた。


「わわっ、待て! 話せば分かる!」

「そうかい。じゃあ話そうじゃないか」


 とか言いながら、土田御前が大きいお腹を抱えながら、地べたに座り込んだ。さすがはオレの妻、交渉の要訣を心得ている、と信秀があらぬ感心をしたところで、土田御前に命を救われたかたちの政秀がムックリと起き上がり、土田御前に両手を合わせつつ、会話に加わった。


「これは御前さま。それがしの命をお救い頂き、感謝の極み……ところで、今日はどうしてお庭へ?」

「そう、それさ。ちょっと気になることがあってね――」


 と、土田御前は酒壺を傾け、グビグビと酒を呑み、プハ~ッ、と酒精を吐いて、ちょっと顔を赤らめて言うのだ。


「ウィッ! えっと……なんだっけ? あっ、そうそう! アタシが言うのもなんだけどね、井伊っての? 会いに行ったらどうだい、遠江国からの客人なんだろ?」


 すると、信秀がイヤな顔をした。さすがに奥さんに政治の話をされるのは気分を害するらしい。腕組みをして、プイッとしつつ、言うのだ。


「うるせえ。女の口出しするところじゃねえや!」


 と、そこで、土田御前の抱える酒壺に気づき、慌てて、


「あっ、いや、その……」


 とか慌てたところで、政秀がクチバシを挟む。


「殿、いかに奥方さま相手でも、そのような仰りようは……」


 信秀は女子どもは大事にしても、野郎に対しては容赦をしない性格であった。ここで遭ったが百年目! ではないが、政秀に対しては三白眼気味の目を剥き、情け容赦なく食ってかかるのだ。


「なんだおまえ。やるってのかコノヤロー!」

「おっ、おっ! いかに殿であっても、いい加減にせねば、先代由来の拳骨が火を噴きまするぞ!?」

「ウィッ! ウィ~……ヒック! でもぉ~、放っておくとぉぉ~、喜六が動くと思うよぉぉぉ~~~」


 良い塩梅で酔っている土田御前の言葉に、思わず、ハッとしたのは、お互いの胸倉を掴んだ状態の、信秀と政秀の二人であった。


「えぇ……」


 と、秀孝到来の可能性を示唆された信秀が、やたらめったらオロオロし始める。そこへ忠臣・政秀が、


「殿、我が頬を……」


 と、健気にも自分の頬を差し出し、信秀が勢いよく政秀の頬を張り飛ばしたところで、やっと信秀は正気に返るのだ。


「喜六! あいつ、井伊家の人間にまでチョッカイ出す気か! 底なしの興味と行動力だな、さすがはオレの息子……」


 信秀の懸念はもっともなところがあった。ここだけの話、喜六郎(秀孝の名乗りはまだしてない)は幼いながらも数々の厄介事に関わる幼児として、織田弾正忠家上層部のなかで有名であったからだ。

 傍らの政秀とて気が気ではない。


「殿、いまはそのようなことを言っている場合では――」

「あっ、そうだな。でも、どどど、どうしよう? オレ、策とか立てないと動きたくないんだよな。策なしで突っ込むとかイノシシ武者だし、ぜってー、オレはそんなヘマしないし!」


「ウィ~。喜六は割と……ヒック! 策とか関係なく突っ込むところがあると思うけどぉ~?」

「そりゃおまえに似たんだよ! まあ、でも、それだけじゃないっていうか、なんて言うのかな~……たまに仙人っぽい雰囲気を醸し出す時があるってゆーか、その場のノリと勢いで、いろんなやつをたぶらかすってゆーか。なにより、めちゃんこ可愛い。さすがはオレの息子……」

「殿、ですから、いまはそのようなことを言っている場合では――」


「うるせーな! 分かってるよッ! あーあー、もー。喜六が出てくるんなら、策とか立てようがねえもんな~。考えろ~、考えろ~、いまできる、オレならできる、そんなスンバラシイ策を……おっ、おっ、閃いたァ~ッ!」


 と、信秀が奇声を発しながら立ち上がり、忙しく歩き去った。その後で、政秀は土田御前に問うのだ。


「ところで、なにゆえ殿にかようなことをお伝えなされたのか?」

「ウィッ? 喜六のことぉ~?」

「さようです」

「あぁ~、そのぉ、ねぇ~――」


 と、ベロンベロンな土田御前は頬をかき、実の祖父のようにも慕う政秀の膝を枕にしながら、ウッヒャッヒャッ! とか酔っ払い笑いをしながら、言うのだ。


「苦労したほうが良いんだよぅ~、みんな~。喜六がそうさせてくれるから~。や~い、やい。ジイ、ジイったらジイ。アンタも、呑め! ウィッ! ヒック! ……当主ってのはさ~、もっと、自分で考えなきゃいけないんだ! だろっ? みんなのため、そして、アタシの酒のため――」

「御前さま……」


 政秀は困ったちゃんを相手にする声色で応じた。土田御前はなにかを想い浮かべるようにトロンとした幸せそうな顔をして、ウトウトと続ける。


「な~に……ウィッ! 文句なんか、言わせやしないさぁ~……てめえで幸せにしてやるって、そう言ったんだぁ~! ヒック! ……それに喜六なら、そう! 喜六なら、最後を悪くはしない! ウィ~……アタシはねぇ~? この幸先の良い苦労を、みんなにおすそ分けしてやろうって、そう……思ったまで、さ……――」


 そして土田御前はグースカピーと寝て、政秀は苦笑しつつ、誰か小姓か侍女を呼ぶのだった。

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