第三話 嘉次郎の畑
山口嘉次郎が畑の見回りをするのは日課であった。
それにしたって、先の旅人の笑いっぷりったらなかった。ああも身をよじって、ひとのハゲ頭を見て笑うのだから、侍と言ったってピンキリ、世も末だねえ、というところであった。
ただ、女の子のほうは心配だった。
嘉次郎はいちおう、足軽の家の生まれで、侍の身分ではあるんだけれど、底辺に近かった。それはまあ良い。例え底辺に近かろうと、自分の才能とか人格とかで働き口を探せる身分ではあるんだから。
ただ、体格だけはどうにもならない。嘉次郎は五体満足で幸せと言ったら幸せではあるんだけれど、間違っても長身で筋肉質でもなかったから、どう鍛えたって身体のでかいやつには及ばないのだ。
嘉次郎なりに、自分の天道(運命)をなんとかしようとがんばったことがある。だいたいダメだった。天道なんて自分独りの力じゃ変えられないことのほうが多いのだ。そして流された。
体格が良ければ別の道もあったろう。
あるいは、頭が人一倍回れば、それも違ったかも知れない。
でも、体格も頭も、嘉次郎は大したことがなかったのだ。
なるようになるしかなかった。なるようになった先が、どんなところであっても、なるようになるしかなかったのだ。
いまは……別に、そんなことはどうだって良いんだけれど、あの女の子も、グレなきゃ良いけど、と嘉次郎は見ず知らずの女の子のことを想い、溜息をついた。
幸いにして吹雪はやんでいた。
風も落ち着いて、しんしんと牡丹雪が降るのみになっている。
谷間を抜ければ嘉次郎の畑だった。欲張りの隣家の老婆の魔の手から畑を守るために、木の杭と荒縄で畑を区切っているところがそうだった。
荒縄で畑を区切るなんて、どう考えても見栄えが悪いし、だいたい外聞も悪い。おまえさん、やめとくれよ、とは嘉次郎の奥さんの言葉。
じゃかあしいわい、と嘉次郎。だって、悪いのはぜんぶ隣家の老婆なのだ。なんたってボケたふりをするのがうまい。気づいたら、あっ、ここ嘉次郎さんトコの畑? と畑の侵食を謀ってるんだから、たまらなかった。
よ~し、そんなら、こっちにも考えがある、と、このような考えで嘉次郎の畑は荒縄の守護を必要としたのだ。隣家の老婆の意地、あるいは寿命が尽きるのが先か、嘉次郎が根を上げるのが先か、これは熾烈な競争なのであった。
ともあれ、お天道さまは見ている。後で後悔するようなことは、なるべくしたくないのが人情であった。
(そうさ。お天道さまは見ていなさる――)
嘉次郎は立ち止り、天道のご利益を感じた。荒縄の区切りの前で、愛らしい幼児がしゃがんでいたからだ。
別段の不思議さはなかった。あの愛らしさを前にしてしまえば、世の不条理も霞む気がした。隣家の老婆もあの子にだけは笑顔を見せる。天魔鬼人も、あの子の前では笑うだろう。
「お供はどうなされました――?」
嘉次郎の声も、ふだんと違って、ふんわりとやさしい生き仏の声色であった。嘉次郎の声に気づいた、蓑にくるまって雪ん子のようになった幼児が立ち上がって、ニッコリと眩い笑顔を向けて来た。
「畑を見に来たの!」
つまり、嘉次郎と同じ理由でここに来たのだと、知れた、嘉次郎の胸はいっぱいになった。
思えば、チラチラと舞う牡丹雪も神霊の寿ぎのように思えた。雪に埋もれた畑は妖精の遊び場であった。まさか『畑が気になる』という理由で幼い主人が雪の日に脱走を図るとは思わないだろうお供の侍は別として、この幼児に関わる人間はみんな幸せになるに違いないと、嘉次郎は確信した。
「お父上さまは困るでしょうに――」
言われて、愛らしい幼児はキョトンとした。体格というのなら、この子は同年代の子と比べて、けっこう小柄である。とうてい恵まれた体格ではない。
しかし、骨相というのか、顔のかたちがべらぼうに良かった。美形というか、美貌というか、とにかく、姿かたちが美しいのは得だろうと、見ていて感心するような顔立ちであった。
そして、姿勢が良い。自然体で、力んだところがない。畑仕事をするにも、笑うにも、屁をするにも力まねばならない嘉次郎とは大違いであった。そして、その力まない、という一点でもって、この子は愛され、重宝されるだろうと、嘉次郎には思えた。
現に、幼児は肩の力を抜いて、ぼんやりと突っ立っている。そのやわらかさを感じる背筋だけで後光を感じるのは、もう声も出なかった。
幼児は笑顔で、息を吐いた。よく分かんないけれど、なんか言われてる、程度の笑いだろう。幼児の白い息が雲のように流れた。雪と枯れ草を踏みしめる足音が、調子を踏むように、楽しげに近づいて来た。
嘉次郎が笑うと、眼下の幼児は左手のひと差し指で畑を示した。そして右腕を伸ばして嘉次郎の袖を掴み、くいくい、と、赤みを帯びた指先で引っ張る。見上げてくる、小ぶりの鼻は愛らしく、眉はやさしい線を描き、その茶色の瞳は、まあるく、大きくて、いつものように、澄んだ輝きを放っていた。その桃色の唇から白い歯が見えた時、嘉次郎はやにわに笑みほころぶ自分を感じるのだった。
「今年はほーさくになるよねっ?」
「ええ」
きっとそうなるに違いないと、嘉次郎は幼児を抱き上げつつ、心から思った。
嘉次郎は誰ともなく言った。
「レンゲ草ってのは、緑肥としちゃ効きすぎるのか、すき込んでも、実だけがでかくなって、作物は根腐れするんです。だから、お浸しにして食べるんでなけりゃ、レンゲ草なんてもんは誰も喜ばねえ。使うならハギの花、でなきゃ、マメ類だってのが、農家のいう緑肥です――」
と、そこで、嘉次郎は自身の凍えたほっぺを、童子のぷっくらした赤いほっぺにこすり合わせて、互いの人肌を慰めた。嘉次郎は、白い息を吐きつつ、天空を見上げた。いつからだろうと、嘉次郎は思う。自分はいつから、この天のもとで、生きている、と思え始めたのか。
嘉次郎は続けるのだ。
「でも、そんなら、変じゃねえですか。作物が根腐れして、収穫高が減るんなら、なんでレンゲ草なんてもんが土の上に生えるんです? なんでお天道さまは、まるで意味のねえことみたいなことをなさるんです――したら、悪いのはレンゲ草じゃなくて、植える作物とか、でなきゃ、てめえの畑なんじゃないですか。ねえ、坊ちゃん。いや……」
風の流れが変わったと、嘉次郎は思った。
すると、見る間に、雪雲に切れ目ができ、陽光が畑の中頃を射した。一条の光が線のように広がって、嘉次郎と童子の姿を照らした。その時の、手のなかの命の神々しさを、嘉次郎は生涯、忘れることはあるまい、と感じた。
「織田喜六郎さま。織田、喜六郎さま! この世に、意味のねえことなんか、あるはずはねえんだ!」
れんげちょー、と、幼い秀孝が、荒れ野にレンゲ草を植えようとしているのを、初めて見た時に、嘉次郎は天道のあらましを知ったのだ。
意味のないことなどない。
自分が足軽の家に生まれて、本家のほうは武将としてやっていて、ああ、なんのための人生なのだと、身の至らなさのために、てめえの子どもを何人も死なせてきた自分の人生の儚さを呪った。なんのための命なのだと、吹けば飛ぶ命ではないかと、何度、慰めに思ってきたことだろう。
癒されぬのが人生なのだと思った。
怒り、呪い、憎み、嘆くのが、人生なのだと信じた。
神仏に救いを求めても、なにも救われない。
他人のものを奪い、身内を養い、けれども、病や餓えで子どもが死んでいく。
ならばいっそ狂ったほうがマシではないかと、そう思った。
救いを求めぬために狂うのなら、例え、世に悪鬼羅刹と言われようとも、この戦乱の世だけは生き抜けよう。例え、戦乱の先になにもなくても、屍山血河の向こうが、さらなる死の大海であったとしても。
救いを求めぬために狂うのなら、むしろ、例え百万の子どもの死だろうと本望であろうと、そう信じかけた。
違った。
違っていてくれたのだ。
『なにをなさっておいでなのか』
と、昔――と言っても、一年くらい前だけれど――戦帰りの嘉次郎は訊いたと思う。
水の引かれていない荒れ野のなかで、不思議な輝きを放つ幼児を見た。身なりの良いくせをして、土埃に手を汚しながら、まるで土で遊んでいるように、乾いた土くれを引き剥がして、開いた穴に緑を植えていた。そのくせ、その背筋がしなやかで、見ていて惹き込まれるものを感じたのだ。
問われて、幼児はニッコリと笑ったと、思う。そうして、また、手元に視線を戻して、腰のヒョウタンから、水を荒れ野に垂らしたのだ。水をかけられた緑は、まるで違うもののように、冴え冴えとした輝きを放っていた。
『れんげちょーをうえてゆの!』
まるで意味のあることのように、その幼児は嘉次郎を見上げて、いまよりもっと丸っこかった、茶色の瞳を笑みに細めた。
嘉次郎は唇を歪めて、嘲笑ったと思う。なんの意味があるのか。荒れ野にレンゲ草を植えても、いずれ、いや、すぐにも枯れ果てるだろう、と。
意味などないのだ。価値などない。
この世のあらましは、いつだって、無意味で、無価値で、救いようがないのだと。だから、
『やめちまえ、そんなもん!』
と、嘉次郎は叫んだ。いつもなら、荒れる気持ちのままに、視界に入るものすべてを蹴倒し、踏み潰していたことだろう。
その時は、幼児の身なりの良さに気おくれしたのだと、嘉次郎は思った。
後になって、いや、違ったなと、思う。
幼児は頭を下げたと思う。なぜそうするのか、と嘉次郎が戸惑う間に、幼児はすっくと立ち上がって、嘉次郎の目を覗き込んで来た。きらきらとしていた。茶色の瞳は、見ていて切なくなるほど、澄んでいた。
その瞳が閉じた時、嘉次郎はうろたえた。死の臭いが鼻についたからだ。そんなはずはあるまいと、慌ててかぶりを振れば、幼児の身体の奥底から発する、おぞ気のふるうような死の臭いは消えていた。
代わりに、幼児はすっかり神仙のようになっていた。身体全体が光っているような気がしたのだ。幻覚だろうか。嘉次郎が目をこする間に、幼児の声だけが、嘉次郎の耳に響いていた。
『これでほーさくになるんだもん』
その時、嘉次郎はなにかを思い出しかけた。いったいなにを思い出しかけたのかと、天を見上げたと思う。
天はなにも答えなかった。代わりに、抜けるような青空の向こうから、かつて亡くした息子や娘の魂が遊びに来ているような気が、とっさにして、嘉次郎は胸が張り裂けるような気分になった。
ああ、オレはなんという男なのだと、嘉次郎は両手で顔を覆った。
初めて、自分の生き方を恥じた。
そして、気づいたのだ。
なんのことはない。
自分は、命の重さに臆していたのだ。亡くした命が重くってたまらないから、いつまでも逆上していたのだ。身近な人間の死に対して、びっくりして、びっくりして、びっくりし続けてしまったから、混乱のあまりに気が触れてしまっていたのだ。
『待ってくれ! 待ってくれ!』
嘉次郎は自分の子どもたちにそう呼びかけるように、立ち去ろうとする幼児の背中に必死の鼻声をぶつけた。
去ってしまった自分の子どもを追いかけるように、慌てて駆け出そうとして、足がもつれてその場に倒れ込んだ。泥で顔をしたたかに濡れさせ、ふっとその時、思い浮かぶものがあった。背後を見る。倒れた嘉次郎の足の傍に、幼児の植えたレンゲ草があるのを見つけた。
瞬間、嘉次郎は、しゃにむに、根からレンゲ草を掘り返して、両手で包み込むようにして胸にかき抱いた。一声、吼えるように、泣き叫んだ。ごめんなぁ、と、誰にともなく、涙と鼻水を垂らしながら。
そうして、はたと視線を巡らせれば、眼前に、仙気のかき消えたような、キョトンとした顔の、当たり前の幼児がいた。
この時である。ああ、なんて綺麗な子だろうと、初めて思ったのは。そして、おそらくは、天の恵みを感じた時も。
この不出来な自分にできるのは、この二本の足で立ち上がり、歩いて行くことだけだから。
天道かくあるべし。
嘉次郎は両手で包んだ小さなレンゲ草を差し出しながら、眼前の、人形のように愛らしくて、神さまみたいに神々しい幼児に誓った。
『オレに任せてくれろ。立派に育てる。自分の子どもみてえに、立派に育てる!』
ここが人生の瀬戸際だという予感があった。嘉次郎は念じるように目を瞑った。すると神さまみたいな幼児が動く気配がある。嘉次郎が恐る恐る見てみれば、やっぱり――幼児は頭を下げていた。
なんのことはなかった。嘉次郎はその時、ふっと気づいたのだ。
なんのことはなかった。こんなの、誰かの懸命さに頭を下げているだけなのだ。そう、なんのことはなかったのだ。
自分のこの命も、誰かに自然と頭を下げてもらったのなら、なんのことはない。悪くはないのだ。
嘉次郎も自然と頭を下げた。幼児の命と、これから、いろんな人々と関わっていくのだろう、尊い人生に対して、深々と。
そうして、間があり、嘉次郎がくしゃくしゃになった顔を上げれば、眼前にあるのは、まるっこくて、やわらかな、ニッコリとした笑顔であった。
『ありがと~!』
この幼児の笑顔を糧に、レンゲ草を育ててみるのも悪くはあるまい。やろう、と思ったから、やるのだ。山口嘉次郎は自分の天道のあらましを知ったのだ。それだけで、対価は充分すぎるほど、充分であった。