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第二十三話 秀孝の施政と態度

 織田喜六郎秀孝おだきろくろうひでたかは夢を見た。前世の夢だ。秀孝ではなかったころ。


 なんのことはない家族の夢。

 不意に涙があふれる。

 涙の意味など分からないが、ただ一つだけ、胸のぬくもりを感じる部分はあった。


 妹を助けることができた。飼い犬も。例えそれが末期の出来事だとしても、お兄ちゃんとして誇るに値する記憶である。


 自己満足かも知れない。でも、秀孝の奥深くにある記憶は、秀孝をある部分で固定し、ある方向へ歩ませていた。


 大事なものだ。とても大事な――。


 ◇


 弘治二年(1556)、五月の末――。


 深夜、ふと秀孝は目覚めた。

 起き上がって、切ないような甘いような夢の残照にぽ~っと呆けた。

 目元をぐしぐしとぬぐって、薄闇に目をこらす。


 寝室なので、同衾の相手がいる。それも二人。

 なんというか、秀孝、この野郎、可愛い顔してこの野郎! と余人のうらやむ待遇なのは間違いないが、二人相手にどう……というのは男性として見ると大変なので、なんともいえない立場ではある。


 一人は鎌倉以来の名門の生まれなので、いちおう正室、第一夫人の地位にある。

 井伊次郎法師直虎いいじろうほうしなおとら。数えの二十一歳。

 史実では女地頭(女性領主)のあだ名を冠する遠江国とおとうみのくにの名士であるが、この世界線だと尾張国おわりのくにへの亡命者、兼、秀孝の妻である。


 もう一人は有名ではない。いちおう史実上の女性だが……尾張国の豪族ないしは無頼漢の妹、とするのが適切な才女である。

 蜂須賀墨はちすかすみ。数えの十六歳。秀孝と同い年。

 内々の仕事に加えて、領地経営の書類確認まで手伝ってもらっている。有能なのはありがたいが、ちょっと仕事をしてないと落ち着かない子だった。


 前者は『うへへ』と笑い寝、後者ははうんうんと唸っている。前者は夢のなかでまで秀孝とニャンニャンしてるに相違なく、後者はきっと領内の汚職や商家の横暴への対処法に頭を悩ませているに違いない。


 果たせるかな、妻としての仕事+新興の秀孝家の内政手伝いは煩雑を極め、その内実は直虎・三、墨・七くらいの比重であった(もちろんお手伝いの範囲でだが、その量とて半端ではないのだ)。

 これは事務管理能力の差である。


 侍女の統轄と武芸鍛錬以外は手持無沙汰な直虎より、はいアレやって、はいコレやって、と男女双方の家人に指示を飛ばし、秀孝から委託されたぶんの決裁を下す、墨が寝ながら唸るのもゆえあることであった。


 これで墨のほうに異心あらば正室の座を奪い、余勢を駆って家中の専制権をば……というのは基盤のしっかりした大勢力の話。仕事を余人に分け与えて平気でいられるお家の話だ。

 仮に現段階の秀孝家で墨が異心を抱けば墨はあらゆる意味で死ぬ。まず過労である。そうでなければ、向こう見ずでおっかない近習・小姓衆に追討されよう。


 誰がそんな無駄なことをしますか! そんなのいいから大殿(信長)やご一門衆に頼んで早く人員を補充してくださいぃぃ~ッ! と墨は悲鳴を上げるところであった。


 もちろん墨が必死の仕事量なら秀孝もそうである。実のところは今夜の同衾すら久方ぶりにすぎない。直虎は殊勝にも寂しいのに耐えた。


 織田家といえば財政の豊かな面がさんざん取沙汰されるが、言い方を変えれば基盤が経済くらいしかない、ということである。

 名門・甲斐武田かいたけだ家の培った人材育成の妙はなく、小田原北条おだわらほうじょう家の培った官僚機構の安定性もない。


 戦国の荒波のなかで経済だけで生きんとすれば、必然、足りない人員の仕事量がいや増し、家中は基盤のなさゆえに国衆世論によって右往左往するしかない。

 秀孝はため息をついた。兄・信長の戦っているものが身に染みていた。


 要は人手不足だし、教育のノウハウはないし、国衆は隙あらば取って代わろうとするし、領地内の寺社・豪商の汚職による税収の混乱がはなはだしいのだ。


 その一つ、一つと向き合っていれば、そりゃ楽になどなれない。


 かえって仕事のなかに仕事を見出し、さらにそのなかに仕事が……と困難への認識が拡大する事態となるのだった(そのぶん視野と能力の向上があるのでプラスマイナスはあるが)。


 さて起きていても仕方がない、明日も早いのだし、と新婚さんにしては色気がない(先述のように、新領地の仕事が多忙を極めるのだ。直虎の理解と愛情、墨の才能と好意が救いである)秀孝が、ふぁ……とどっちが嫁か分からない可憐なあくびを一つして、寝直そうと寝具を引き寄せた時だ。


 入り口のほうでひとの気配がした。さしたる間もなく小声で言われた。


「……ご就寝の最中、失礼いたします、殿」


 秀孝の側近の藤浪忠左衛門秀鑑ふじなみちゅうざえもんひであきの声である。秀孝のご意見番の自覚があるのか、先年の角田新五つのだしんごの乱を反省材料に、余人の嫉視を避けたい、と自分から裏方の仕事に回っていた。


 秀孝はすぐさま起き直した。傍らではさすが武人肌の直虎がキリッとした寝起きを示し、墨のほうはしょぼしょぼと目をこすった。

 秀孝はそっと息をつき、睡眠気分を切り替えた。


「起きてるよ~」

「……されば殿、お着替えを。その間、手短に申し上げます――当方、四方の街道が封鎖されております」

「えっ、ど、どういうこと??」

「……夜目ゆえ、はきとは申せませんが、おそらくは末盛すえもり勢かと――」


 つまり、信長へ反抗姿勢を強める、もう一人の兄・勘十郎信行かんじゅうろうのぶゆきのしわざということだ。

 秀孝の手が震えた。自分で自分の手の震えに驚いた。

 やおら直虎がその手を包み、わずかに息を吹きかける。気分がすっと楽になった。


 気恥ずかしさはあったが、なんの、寝室のやり取りである。

 直虎は堂々と睦み合いをするところがあって、実名の虎字のごとく、急襲的なボディタッチなんて日常茶飯事だ。

 秀孝なんて何度びっくりしたか分からない。


「お励みあれ喜六殿。ワシはそなたの武運長久を祈っておりますのじゃ――」


 と、切なげな微笑みを向けられれば、秀孝とて熱い気持ちの芯を自覚するにしくはない。

 墨のほうは秀孝と直虎のやり取りを見て『あたしもなんかしたほうがいいのかなぁ』的な、とろんと寝ぼけた顔をしていた。

 秀孝は墨のほうを見て、気恥ずかしいやら苦笑するやら、もにょもにょと、


「お墨ちゃん……あの……お着替え……とか……」


 と、頬を赤くして頼むのだ。お役目が理由でもあるし、なんとなくいたたまれないというのもある。

 墨はここで、目が冴えたようだ。


「はっ、はいぃ~!」


 と、言うや、こけつまろびつ、侍女を呼びに行った。

 直虎がろうそくに火を灯している間に、ややあって墨が着替えを持ってくる。戦装束だ。

 秀孝が着替えをし、お嫁さん二人がそれを手伝う。


 直虎が居住まいを正し、見送る姿勢になる。墨は戸を開けて出入り口を示した。

 ろうそくの灯りのなか、藤浪秀鑑が手をついて待っていた。やはり戦装束である。


「すぐに行けます」

「……では殿。主殿しゅでんのほうへ」


 主殿とは、館城の広場付き玄関のようなものである。

 寝起きしているのは守山もりやま城ではなく、ふもとの館城であった。市場とお城の境目で、単体でも多少の防御能力がある。


 市場の周囲には惣構え(堀や柵の防衛設備)が築かれているから、そう安々と攻め込まれはしない。が、いよいよ危ない時は後方の守山城へ退避することになっている。


 秀孝はお嫁さん二人に顔を向け、結婚一年目ではいくらか慣れたもの、


「行ってきます――!」


 と、お仕事に行くオトコノコの顔、キリッとして言った。

 直虎が機敏な動作で手をつき、墨はいくらか遅れて手をついた。こちらはまだ、あくびをかんでいる。

 が、声と動作はそろった。


「「無事の帰りをお待ち申し上げております(のじゃ)!」」


 秀孝はうんと頷き、ふにゃりと微笑んだ。キリッとした表情はあんまり持たないのである。

 藤浪秀鑑と並んで回廊を歩いた。秀鑑が言う。


「……若衆の動員をいたしますか?」


 この場合の若衆とは町や村の自警団の意味合いである。他家の場合は色事を含む側近集団の単語だったりするが、秀孝家においてそれはない。


 警察というほど完全な官営ではなく、かといって自警団では武装が行き過ぎる。半官半民の義勇兵、いっそ民兵としたほうが近い。

 荒事の多い戦国時代で警察機構をつくろう、と思えば現代と戦国の混合折衷案にならざるをえない。


 要は人員と運営は自治体に任せる。しかし訓練と武装は官の費用でまかなう。武装は貸し出し。勝手な売買はご法度。もちろん若衆同士のケンカや、地域住民への暴力沙汰もご法度とし、書面にまとめて立て看板も出した。


 制度としては江戸時代の五人組制度に近いだろう。いわば戦国時点の自治体制度を秀孝の手で推し進めたに等しい。

 と、同時に慣習法の目録づくりと時宜に合った法度の整備を進めている。


 余人からすれば『今川いまがわ家の真似か』と言われるだろうが、そうでもない。

 今川家の主眼が官権介入による、いっそ暴力的な紛争停止ならば、秀孝の主眼は司法を間に挟んで冷静になってもらうこと……いわば司法による暴力措置への掣肘なのだ。


 いわば現実の対処か未来の再現かの違い。こればかりは余人の想像の埒外であったろう。


 つまり今川家は紛争解決にあたって軍事力の投射をいとわないが、秀孝の場合はギリギリまで司法の管轄として対処する(暴力の発動は最後の最後)、という違いだ。

 もう少しいえば、したがって、(これは最終的な話になるが)司法の担い手は別に武家でなくても構わない、それこそ庶民が法曹でもいいのだ、という辺りが戦国人の想像できないところであった。

 

「若衆は避難民の誘導以外に使っちゃダメ。戦うのはボクらのお仕事。若衆は町や村で働いてもらうんだからねっ?」

「……ご賢察と思います。ではそのように命令いたしましょう」


 要は若衆なるものは簡易な警察訓練しかしていないし、そもそも職務自体が自治体運営の補助なのだから、そこから引き離すのは職務に反するからダメだよ、と配慮しているのだ。


 なにを、ちょこざいな、動員すれば足しにはなろう、では盤面に駒をバラまくようなもので、実際には大した役に立たない。

 ゲリラやテロリストは言うに及ばず、サラリーマンだって農家だって教育期間が必要なことを想えば、とにかく数をそろえろ、という命令のいかに無茶かは知れるだろう。


 秀孝は出来がよくないタイプなだけに、余人の苦労には敏感であった。教育の効能、というのも、前世と今生のセットでイヤというほど知っている。


「とにかく、みんなには苦労をかけてるんだから……もちろん、忠左くんもだよ? うん、ありがと~! だからね、だからね? なるべく無理なことはさせたくないなあって思うの」


 秀孝は歩きながらもそう言った。しみじみとである。


 守山領は石高換算にすると一万石以下。とうてい財政に余裕のある領地ではない。

 しかし、先年の角田新五の乱の折、討伐した角田家の倉からゴロゴロ金穀が手に入った。

 中世の常、贈収賄のため込みである。


 秀孝はショックを受けたが、守山領の疲弊の一因に気づけたのはもっけの幸いであった。

 義兄となった蜂須賀小六正勝はちすかころくまさかつがこの手の裏道に詳しいのも好都合であった。

 蜂須賀兄妹と藤浪秀鑑や近習・小姓衆がタッグを組み、対汚職チームの編成と証拠集めが開始されたのは昨年の末。


『ご用改めである!』


 とは言わないが、


『無用の税の徴収ありしこと、ここに並べたる書状の数々の通りである。なんぞ申し開きはあるか!』


 とか、


『利権をほしいままに不当な引き立てを行い、賄賂を要求してため込みたること、そのほうなんぞ言い逃れられるか!』


 と悪代官や生臭坊主、悪徳商人の屋敷にかち込んで、汚職の摘発の成果を上げると、出るわ出るわ、ゆうに二十万石相当の裏金が集まったのだからえらいことだ。

 およそ、守山領で自由にできる予算の百倍である。

 現段階まで搾り取られていた民百姓の喝采はいうまでもない。

 

 その裏金は公費に使っている。ばら撒かないの、といえば、そんなのしても民間に死蔵されるだけで大した意味がないのだ。かたちに残る事業の費用にしたほうがいくらも助かる。なので、若衆(民兵)制度と農政改革、歩道整備と、惜しげもなく資本投下していた。


 これがだいたい今年の話である。


 だが、無茶をしたことは確かだ。いかに腐敗が目に余ったとはいえ、拙速の摘発なんてやらないほうがいいのも確か。急いだあとのマイナス面が恐いからだ。

 それをやむなくやった。それは秀孝家(為政者)の都合であって、他家の知るところではない。

 秀孝の懸念はわけあることだ。


「みんなお待たせ~!」


 秀孝らは主殿前の広場についた。近場に屋敷を構える人々が集まり、ごった返している。

 想定より少なかった。織田氏の内紛となれば大義名分の要素が薄い。後難を恐れて日和見に出る人間は多いのは分かる。


 それでも少ない。理由は分からないではない。昨年来の嵐のような政治の動転のあとである。ことの善悪の区別をつけるいとまもなく、こうも物事が変わればそれだけで反発を強めるひとはそりゃ出るだろう。


 秀孝はちょっとがっかりした。みんながんばったのに、と思う。が、こういう時ほど親父の偉さが身に沁みるのだ。


「殿。御身の足軽衆三百人、すでに持ち場につき、迎撃の備えは整っておりまする」


 家老、兼、足軽大将の井伊刑部大輔直元いいぎょうぶのたいふなおもとが言った。

 中核戦力はいるからそう落胆なされるな、ということだ。そうなのだ。外来のお殿さまが苦心するのはここで、その点、秀孝はたいそう恵まれていた。


 秀孝は両手を合わせた。今生のお父さんへ。そして目の前の人々へも。そして、こうと言うのだ。


「お聴きかも知れませんが、現在お城の周囲の街道が封鎖されているようです。ボクの役目は守山領の守備です。みなさんにおかれては、どうかボクにお力添えいただけるよう、よろしくお願いいたします!」


 秀孝は頭を下げた。しーんとなる。ダメなんだろうか……と秀孝が落胆すると、笑い声が上がった。

 顔を上げると、元々の守山領のひとだ。贈収賄に関与していない――秀孝に対してなんら隠し立てする必要のないひとだ。こうと言われる。


「殿さま、それはちょっと早い」

「さよう。いましばらくお待ちあれ!」


 言う間に、どやどやと大勢のひとが来る気配がした。

 秀孝が戸惑う間もない。ワッと熱気が押し寄せるように、若い人々が広場に集った。

 若衆の面々である。


「お殿さま!」


 と、誰かが主殿の秀孝に気づくや、みんな、さっと膝をついた。周囲の武家はまばゆげに若衆を見ている。

 秀孝は面食らった。なんで、どうして? と思う。分からない。なぜなら、秀孝は半分は現代人だから。

 見るに見かねた井伊直元が秀孝のところへ近づき、若衆を愛でるように声高に言うのだ。


「ご覧あれ、殿。若衆の面々の奉公ぶり。なんともあっぱれよとお褒めくだされ!」


 唐突に秀孝は理解した。素朴な忠誠心。共同体への奉仕。素直なまでに名誉と献身を求める人々の姿。

 秀孝は視界のうるみを感じ、顔をくしゃっとさせた。手のひらで何度か目をぬぐい、打ち震えたような声で返した。


「困るよぉ~!」


 そう、困る。非常に困る。素朴な戦国精神なんて持って来られてもシステムはうまく働かない。

 現代のシステムは分業と個人主義が入ってるから、職務の範囲内で動いてもらわないと困る。そんな無理言われても……! という思いだ。

 でも、嬉しい。それはそうだ。秀孝は半分は戦国人だから……いや、そういうものでもない。


 他者のまごころはひどく嬉しい。それだけに、秀孝は困るしかないのだ。

 さりとて、困るのは若衆も同じである。秀孝が泣いたので、慌てて若衆の面々は言うのだ。


「そんな。別にオレたちは姫殿さまを困らせようなんて……!」

「そうだ、姫殿さま。そんな困ることじゃねえんだ。オレたちを使い倒してくれりゃ、それで――!」

「姫殿さま?」


 秀孝が不穏なキーワードに反応し、半泣きの顔を上げた。ちょっとムッとしている。


「ええ、姫むがっ!」

「バカッ! おまえ空気読めよ!?」

「いえね、なんでもないんですよ、姫、じゃなかった。殿、殿、殿……殿、さ、ま?」

「そんな言いにくそうにしても知らないよっ!!」


 と、秀孝がぷんすかして腕組みし、ぷいとそっぽを向いた。姫扱いは心外である。だってオトコノコなのに! というところ。

 そこらの武家相手なら不敬と言われそうだが、秀孝には似合うので周囲の武家の面々も苦笑するしかない。

 井伊直元が言った。


「困りましたなあ、これは。殿もおイヤ。若衆もイヤ。これでは話はまとまらず――みな、困るかも知れませぬなぁ……?」


 と、直元はチラッと秀孝を見る。何年か秀孝に仕えれば、この愛らしい主君の勘所も分かるものだ。

 果たして、


「困る?」


 という部分に反応し、秀孝は機嫌を直した。マジメな表情になっている。

 ん~……と小首を傾げて考える。

 ふと、秀孝は訊いた。


「若衆のひとはどうしたいの?」


 代表、と井伊直元に言われ、総まとめらしい若者が出てきた。膝をつき、応じる。


「ぜひ、戦陣の端にお加え頂ければと――」

「ダメ。戦うのは武家のお仕事ですっ!」


 秀孝、にべもない。

 若衆の代表は食い下がった。百姓だとバカにされておいでなら――そう言いかける。

 が、秀孝に手で制せられる。


「若衆は町や村を守るものです。ほかならない、ボクがそう決めました! なので、これはめーれーです。若衆は近隣の村々を回り、農具を埋めて隠すこと、食糧も同様にすること、それから、ここが大事――避難民を市場に誘導し、町の惣構えを守ってください!」


 言うや、これでどう? という感じで秀孝は周囲を見た。武家はみんな頷いている。


 若衆の代表がポカンとした。秀孝が『どうかな?』と言いたげな、はにかんだような笑みを見せた。若衆の代表はさっと顔を赤らめた。金魚のように口をパクパクさせている。

 突然、若衆の代表は自分の頬を全力で張った。秀孝はびっくりしたが、周囲の面々は、だろうな、分かるよ、とうんうん頷く。


 若衆の代表は輝く瞳で頷き、やけに張り切った声で応じるのだ。


「応! まっかせてくだせぇ~ッ!!」


 秀孝は『う、うん――』と頷くほかなかった。


 明るくなりかけた空の下を人々が動く。

 それは敵――秀孝は相手を敵と信じていいのか分からない――も同様であった。

 木戸を守る武家から使い番(伝令)が派遣された。


 末盛方の使者が来たとのこと――やはりそうなのか、とはみんな思うが、口には出さない。

 秀孝は会うと決めた。使者の取次は速やかだった。

 朝焼けのなか、秀孝が主殿に立ち、広場に使者が立った。知らない顔だ。


 しかめつらしいやり取りのあと、使者が口上を言う。


「織田上総介信長の無道は天地に聴こえ、万民のすすり泣き絶えることなし。

 主、勘十郎信行、ここに至りて林佐渡守秀貞はやしさどのかみひでさだの義気に感じ、これを助け給うことこそ万民のためと信ず。


 主、のたまわく。愚弟、喜六郎秀孝。時機いや遅しといえども、兄弟の情、断ちがたく、背信の咎を免ずゆえ、急ぎ我が元に馳せ参ずべし。

 また喜六郎の家臣に告ぐ。信長の無道ここに極まれり。しからば諸君らの忠誠・封土はこの信行の預かるものである。


 得物の切っ先を西に向け、信長を葬りしのちは、きっとこの信行が諸君らを厚遇するであろう。

 喜六郎秀孝、並びにその家臣に対し、この信行は誠心忠実を期待するものである。以上!」


「えっと……どういう意味?」

「自分ができないことをおまえはやれって言ってるのさ、殿」

「……おい清十郎せいじゅうろう


 と、出しゃばってきた小姓の牧秀盈まきひでみつの肩を叩き、藤浪秀鑑が言った。引き下がらせた以外、特に罰するようすはない。牧秀盈の言葉はもっともだと、藤浪秀鑑も思っているからだ。それは周囲の面々もそうだろう。

 井伊直元が言う。


「つまり、大殿(信長)か、勘十郎さまのどちらにつくか。道は二つに一つだと申しているようです。早い話が、降伏勧告でござろう」

「どうして勘十郎の兄上が来ないの?」


 秀孝が問うた。しょんぼりしている。

 誰も答えない。使者も答えない。

 東の山並みから朝日が登る。秀孝は妙に澄んだ空気のなかで、自分の……そして守山城主としての見解を伝えた。


「勘十郎の兄上が降伏したらいいんだ。そうだよ。勘十郎の兄上だってほんとは分かってると思う。

 ボクは信長の兄上を助けたい。でも、勘十郎の兄上も兄上なんだって。

 だから言います。兄弟仲良くがしたいなら――ボクに降るように」


「それは、つまり――」


 あっけにとられる使者に向かって、秀孝はごくごく短時間、キリッとし、こう伝えるのだ。


「勘十郎の兄上に、こう伝えて。『逆だよバカ!』って。じゃないと口も利かないからね!」


 って、と。

 要は『そっちが降ってよ!』という、全面降伏の要求であった。

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