第二話 遠江国からの亡命者
十六世紀(1500年代)中盤の尾張国は、現代の愛知県西部と比べて、海の割合が大きい。
現代だと熱田神宮は陸地だけれど、十六世紀段階では海沿いなのである。江戸時代に干拓や埋め立てが盛んに行われたから、地形が中世と現代では違うのだった。
んが、山があって平野があって海が近い、ということは、それだけ、山(高いほう)から平野~海(低いほう)に向かって、水がスルッと流れ込みやすく、洪水被害も多いということなので、戦国時代の尾張国は農業生産力が高くなかった。
伸びてるのは商工業力である。幸いにして、尾張国には熱田神宮と津島神社があり、ひと(参拝客とそれ向きの商人たち)が集まる。ということは、それだけ、物もお金も動く、ということだ。
海が近いのもプラスであった。陸上運送と海上運送では、かかるコストと速度が海上運送のほうが良いためだ。
当然、海上運送のほうが、比較的、コストは安く、速度は早い。安くて早いほうをひとは使うし、ひとが使えば、後は倍々ゲームだ。ひとと物が活発に動く、門前町(神社仏閣の門前で栄えた町)と荷が途切れない貿易ターミナル。押さえりゃ成り金。
そんな尾張国南部を押さえたのが、秀孝の生まれた家。
織田弾正忠家なのである。
なお、秀孝の祖父・織田信定の代で津島を押さえた、というのが史実の話っぽいけれど、なんで、どうやって? 津島を押さえたのか? というのは分からない。
あるいは、西隣国・伊勢国との勢力争いのため? あるいは応仁の乱の騒ぎの冷めない時分であったから、尾張国内で東軍・西軍の争いの余波が響き、手一杯の上司から、津島の管理を任されたのか? あるいは、経済的自立を強めた津島をコラッと攻め焼いて、陸上勢力たる武家――織田弾正忠家――が海上勢力たる津島商人たちを支配したのか?
重ね重ね、史実の詳細は不明。
ところで、現段階は天文十四年(1545年)の二月である。
現代で言えば三月。
十六世紀の太陽の活動の弱い時期のことなので、これからまだまだ寒くなる頃。
尾張国内にあるお寺、雲興寺に、二人の旅人が駆け込んできた。
外は牡丹雪が降り、旅人の一人――小さな女の子だ。しかし、男装をしている――は寒そうに震えて、手と手をこすり合わせている。息は白い。でも、頬と手はかじかんで、赤い。
編み笠の下で光る目は猫のよう。気の強そうな顔立ちで、ふつうにしてても睨んでるように見えるのはご愛敬。
しかし、幼さの残るその顔には余裕がなかった。ふつうの女の子なら、まだしもやわらかな表情を見せるのに、彼女の場合……表情がひどく硬いのだ。良く言えば武者のように凛々しいのだけれど、悪く言えば愛想がとんとないのだった。
女の子はふと親指の爪をかじった。この旅の間についた癖であった。連れの青年のほうも余裕がない。なにかに追いまくられるように、こうと叫ぶのだ。
「お頼み申~すッ、大雲和尚はご在宅かァ~ッ!」
叫んだ、連れの青年……若侍の編み笠の下の目は鋭く、鼻は高い。ちょうど幼さから抜け出した頃合いの顔立ちであった。薄くヒゲを生やしていた。たたずまいは知的で常識人っぽい。カミソリと言えば、そんな感じもする。
けれども、どこか連れの女の子と共通の雰囲気をまとっていた。身体の奥底に流れるなにかが似ているのかも知れない。
兄妹と言えば、そんな感じもする二人だ。
「どちらさまでしょうか?」
と、お寺の小坊主が出て来た。若侍は辞を低くして、
「大雲和尚にお目にかかりたく、遠方より参ったのだが――」
と、来意を告げると、小僧は、ああ、と頷き、裏山のほうを指して言うのだ。
「和尚さまなら、裏山へワラビを採りに出かけました。お帰りになられる時刻は定かではありません。お寺のなかでお待ちになられますか?」
「ワラビ……?」
若侍が首を傾げた。お寺を持ってる和尚さんがそんな雑用をするのか、という心境である。ちょっとイラッとした。まだ幼さの残る小僧はその点、偉いというべきか、自然体であった。若侍のほうを見て、宥めるように笑みを浮かべて、
「お待ちになられますか」
と、ゆっくりと訊いた。若侍は、ふと自分を取り戻したように首を振り、
「いや、そういうことなら、裏山のほうに伺わせて頂こう」
と、言い、裏山への行き方を訊いた。そしてまた、なにかに追われるように踵を返そうとした。そこで小僧が、傍らの猫目の女の子のほうをチラリと見て、気遣わしげに、
「お待ちを――」
と、言った。せめて、女の子だけでもあったかいところで待っていれば良い、という心遣いだろう。それを分かっていながら、若侍は手で小僧を制して、猫目の女の子のほうを向き、問うのだ。
「いけるな?」
猫目の女の子は爪を噛むのをやめ、しっかりと頷いた。代わりに、背中に回された手がにわかにギュッと握りしめられた。当の女の子も、若侍のほうも、女の子の手の動きに気づくことはなかった。
若侍は小僧に目礼し、
「我ら侍にござる。然らば」
と、若侍は肩を翻して、山門を降った。
石段をいくらか降りたところで、若侍はふと立ち止まった。なんとなく、という感じで山門のほうを振り仰ぐ。小僧が頭を下げていた。ずっと下げていたのだろう。若侍は怪訝な顔つきをした。かえって女の子のほうが、興味深げに小坊主の姿を眺めていた。
「行くぞ」
若侍が言う。女の子はやや小坊主のほうを見ながら、こくりと頷き、歩き始めた。
山門を降り、道へ出る。
ちょうどそこへ、百姓らしい男が通りかかった。
背中のカゴに農具を入れて、いかにも慣れた足取りで谷間を降ってくる。地元のひとだろうか。若侍はそう思い、行き交うところで、気まぐれに声をかけた。
「イモでも掘るのか?」
と、若侍が言うと、男は立ち止って、じろりと若侍のほうを見た。そして、腰を屈めて頭を下げ、へえ、と挨拶し、
「いえ、畑の様子見で」
と、手ぬぐいを取って、禿頭をさらしながら、言った。若侍は苦笑し、ふと仏心のようなものが湧き、言った。
「熱心なことだが、冬ではないか。今日は雪まで降っている。見れば、畑は家から遠いのだろう? そこまでして、畑は見回らねばならないのか?」
と、訊くと、男は頭頂部分に手をピタピタと当てて、笑い、
「不毛にせぬためです」
と返したので、若侍は思わず笑った。百姓ふうの男は楽しげに笑い返し、お節介ですがと、首に巻いていた布を取り、女の子の首に巻いてやった。女の子が戸惑うような表情をして、若侍のほうを見る。若侍は頷いてやった。
女の子は鼻先を赤くして、百姓ふうの男を真っ直ぐ見上げ、
「済まぬ」
と、お礼を言った。男はそのお礼の仕方が面白かったのか、
「いいえ」
と軽く言い、ふと去り際に、
「遅ればせながら……ハゲましておめでとうございます」
と、言った。若侍は笑ったが、女の子のほうは曖昧な笑みに留めた。百姓ふうの男は気になった様子だが、声をかける筋合いでもない。
「では――」
と頭を下げて、歩き去ってしまった。
女の子は首に巻かれた布のぬくもりにかじかんだ手を触れさせた。覗く首筋は女の子らしくほっそりしていた。ただ、その手はタコでボコボコだった。
「大叔父上――」
と、女の子はか細い声を出した。大叔父上、と呼ばれた若侍は、又姪(甥の娘)の言葉に、かえって表情を厳しくして、
「行くぞ」
と言って、ぷいと歩き出してしまった。女の子はまた爪を噛もうとして、やめ、両手を組み合わせて、一度だけ、ギュッと握り、今度は怒ったような顔で大叔父の後を追い始めた。
二人の生国は遠江国。生まれは引佐郡の井伊谷である。
折悪しく吹雪いてきた。
「はぐれぬよう、手を握っておれ、次郎――」
若侍がそう言い、後ろ手を差し出してきた。次郎と呼ばれた女の子はその手を掴み、雪道を進む。
と、その時――。
「そこにいるのは誰じゃあ~……――」
突然、吹雪の向こうに巨熊の影が立った。
ちなみに、本州のクマは体長120~150cmくらいの大型犬サイズがふつうらしいけれど、筋肉の塊なので、遭遇するとふつうに命の危機である。ただ、サイズがさほどではないので、人間側にも勝算はあった。
ただし、風雪の向こうの巨熊の体長は、なななんと、七尺(2m22cm)はあろうか、という目を剥くほどの巨体であった。
「怪物じゃ~ッ!?」
女の子は疲労も不満もぶっ飛ぶような黄色い悲鳴を上げ、
「武士道とは死ぬことと見つけたり――!」
と、若侍のほうはとっさに太刀を抜きつつ、パニくった発言を行った。誰だって雪道でクマに遭遇したらパニくるだろうから、これは仕方がない。
考えずに太刀の鞘を払ったのは猫目の女の子も同様であって、青い顔をしながらも、切っ先に殺気を込めている。こういう自然な動作で刀を抜けるのは、ふだんから修練を積んだ武家の生まれでしかありえない。
そんな、見るからに侍度の高い二人に対し、風雪の向こうの巨熊が、ぐおーん! と頼もしげな咆哮を上げた。よく聴くと笑い声であった。
若侍と女の子は顔を見合わせた。そうこうする間に、風雪の向こうからクマが正体を現すのだ。
「ぐあっはっはっは! これは珍客じゃあ! いずこのもののふかは知らねど、いかにも武家の立ち振る舞いではないか!」
「これは――」
と、若侍は風雪の向こうの巨熊がのっそりと姿を現したのを見て、巨熊が実は人間であったことに安堵し、しかし、その僧衣をまとった巨体に、おおっ、と仰け反り、いろんな意味でおののいた。
「ま、まさか……大雲和尚であられるか?」
「いかにも!」
筋肉が応じたようであった。僧衣の上からでも分かる盛り上がった両肩。そして胸筋と上腕二頭筋をムチムチさせ、腕組みをして応えた大雲和尚に対し、たちまち米つきバッタと化した若侍である。
別に降伏のしるしではなかった。待ちびと来たるとか、待ちグマ来たるとか、どっちでも良いけど、こうせねばならないからこうするのだ。
若侍は太刀を背中に回して隠し、地面に片膝をつくかたちで、かしこまって名乗りを上げた。
「ご無礼を致しました! それがしは、名を井伊刑部大輔直元と申す。本日はお日柄もよく、じゃなかった。大雲和尚のご人徳にすがりたき儀があり、遠江国よりまかり越しました――」
その時、若侍、改め、井伊直元の隣に、すっと片膝をつく影があった。又姪である、猫目の女の子であった。
猫目の女の子は片膝をつきつつも、大雲和尚をねめ上げるそのまなざし、あたかも狩りに出て伏せた猫のそれである。無垢ななかに真っ直ぐな攻撃心を宿したその瞳に、受けた大雲和尚はクマの唸り声を発した。
「そなたは誰じゃあ!」
がう~! と、クマの誰何の声を上げた大雲和尚に対し、猫目の女の子は、狩りの時の猫がそうするように、尻を高く上げる――のではなく、まなざしをやや高くし、胸をそびやかした。
その背後では、やはり、女の子は何度か、握り拳をつくっては放し、を繰り返していたけれど……女の子はスッと息を吸い、この世に名乗りを上げるのだ。
「井伊次郎法師直虎! 遠江は井伊谷の、井伊直虎じゃ!」
時、あたかも風雪が唸りを上げ、巻き上げられた粉雪が人間どもの顔にかかり、天高く舞い上がった。大雲和尚は自身の厚い胸板をムキリとせり出し、暗雲垂れこめる空を見上げた。そして思う。
(なんという時代だろうか――)
年端もいかない女の子に、かようなまなざしをさせる時代が、良い時代であろうはずはない。子どもが背伸びをしたって実際に背が伸びるわけではない。なのに背伸びをせねばならない時代とはなんなのだと思った。
「よう参られた――」
大雲和尚はそう言い、巨熊の体躯をせいいっぱい縮ませて、合掌して頭を下げた。その際、大雲和尚の背中のカゴから、山盛りのワラビがいくつかこぼれたのはご愛敬として、さあさ、と大雲和尚は直元を立たせ、次いで、直虎の手を取って立たせた。
その時の直虎の手の冷たさを、大雲和尚は生涯忘れないだろう。傷ましいまでの冷たさであった。大雲和尚はとっさに泣き笑うような顔になり、しかし頭を軽く振って、なにかを振り切るように、曇天に向かって、吼え笑った。
「よう参られた! ぐあっはっはっは! よう参られたァ~ッ!」
大雲和尚は後手を回し、休めの姿勢を取った。そして、ぐおお~ん! とばかりに笑い続けながら、自分の両手を揉んだ。直虎の手を握った時、ふっと直虎の幼い顔が、般若の面に見えた。
あの面が外れる時はあるのだろうかと、大雲和尚は心中で念仏を唱えていた。