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第十九話 お使いと戦国事情

 天文二十二年(1553)七月十二日。

 守護の嫡男・斯波義銀しばよしかね那古野なごやへ逃亡した。


 守護代・織田大和守おだやまとのかみ家の家老・坂井大膳さかいたいぜんの一派に父君の斯波義統しばよしむねが殺害されたため、織田上総介信長おだかずさのすけのぶながの庇護を求めたのだ。


 大和守家側の動機は不明だが、一説によると義統が信長と通謀したからともいう。が、軍記物が出典なので、この世界線の騒動の根幹は守護家と大和守家の尾張統治権に関する権益争いが激化したものと考えたい。

 結果、守護の斯波義統は殺害され、息子の義銀が信長のところへ逃れた。


 信長のお家は大和守家の家臣筋だが、先代のころから和戦を繰り返し、権益を争っていた。


「お父君のご無念はこの信長が晴らしましょう――」


 信長はそう約束したが、さりとて兵が足らない。


「きっとだぞ、織田上総介!」


 年若い義銀に急かされては、信長も武家の恩義を考えるし、動かないのはおのれの義侠心が許さない。


織田喜六郎秀孝おだきろくろうひでたか!」


 那古野城の大広間・合議の場である。

 兵が足りなければよそから借りるしかない。頼みにできるのは叔父の織田信光おだのぶみつくらいだが、規模の大きな近親の家はもう一つある。


「ハイ!」


 後ろに控えていた秀孝が前へ出てきた。

 合議の場の面々の顔つきが変わる。秀孝の初陣の武功を思い出したひとがいれば、秀孝の愛らしさに面食らい、娘にしたい……などとあらぬ妄言を吐いているものもいる。みんな注目していた。


 信長が言う。


「御曹司(義銀)をお助けしたい。が、兵が足りぬ。よって、キサマは我らが兄弟・織田勘十郎信行おだかんじゅうろうのぶゆきのもとへ行き、援兵を乞うて参れ」


 織田信秀おだのぶひでの遺したお家は二つに分かれている。信長の勝幡しょばた織田氏(尾張西南部の津島つしま経済圏)と信行の末盛すえもり織田氏(同東南部の熱田あつた経済圏)である。


「勘十郎の兄上のところ?」


 秀孝、元服してのち、お兄ちゃん呼びは改めている。さりながら舌足らずなのはご愛敬。


 この兄弟の相関関係はややこしい。信長と信行は嫌い合い(というか、信長のほうは対応に困り、信行のほうが一方的に嫌っている)、秀孝はその両者と仲がよい(信長は秀孝を可愛がっているし、信行は秀孝を不出来と思っているが、不出来なほど可愛くはある)。


「そうだ。大事な役目だ」

「喜六さまのお働きで、今後の流れが決まりましょう」


 言ったのは平手政秀ひらてまさひで。信長の家老の一人で、史実だと切腹して果てているが、この世界線だとピンピンしていた(秀孝が政秀の肩をトントン叩くような世界線だと死ぬ気にはなれない、という単純な、それでいて大事な理由である)。


 信長は政秀の言葉に頷いた。自分の言葉では反発されても、秀孝の嘆願なら信行が受け入れる可能性はあると考えたのだ。


「分かりました!」


 秀孝の言葉が弾んだ。


「おう」


 信長はあごを上げ、笑った。

 合議はまだ進む。しかし、秀孝のやることは定まっていた。


「きっとだいじょうぶ!」


 合議のあと、大変なお役目を授けられましたな、と近習の藤浪忠左衛門秀鑑ふじなみちゅうざえもんひであきに詰め寄られ、


「……策を考えねばなりませんね」


 と言われたが、秀孝は先のように返した。

 小姓の牧清十郎秀盈まきせいじゅうろうひでみつが目を丸くし、秀孝の存念を問う。ふだんは親しげだが、おおやけの場では家臣らしくふるまう。


「腹案があるのですか、殿?」


 意味合いとしては、だいじょうぶなの、と訊いている。

 ほかの近習や小姓も不安顔だ。

 周囲の心配をよそに、秀孝は言うのだ。


「兄弟だから、へーきだよっ!」


 周囲の人間は顔を見合わせるしかない。

 天の高みを見て幸福な時があれば、地の泥濘を見なければ足を取られる時もある。

 藤浪秀鑑が言った。


「……だと、よいのですが……」


 城下の秀孝屋敷が見えていた。


 ◇


 過去、つまり前世の記憶に従う限り、兄弟は助け合うものである。秀孝はそう信じている。


「ほんとうに、策なしで向かうのですか?」


 武具の具合を確かめつつ、井伊刑部大輔直元いいぎょうぶのたいふなおもとが問う。直元の役職は足軽大将で、現段階では秀孝の軍事顧問である。秀孝の姉を妻にしているので、将来は家老候補だろうが、現段階は家臣の一人であった。


 戦争の準備をしている。信長のもとでは数日後の出陣を睨み、各地へ動員や武具兵糧の運び出しが進められていた。直元は那古野で足軽衆の監督をせねばならず、秀孝のお供はできない。いわば留守番組だ。


 秀孝の婚約者となっている、井伊次郎法師直虎いいじろうほうしなおとら蜂須賀墨はちすかすみの姿もあった。騒ぎを聴きつけ、心配になって駆けつけたものらしい。

 二人は秀孝の相談役を請け負っていた。直虎が武芸や体力づくり、墨のほうが管理の助言をしていた。


「平気……だと思う」


 昨日の今日で会うひと、会うひとに心配されたため、さしもの秀孝も不安になってきている。


「あ、あたしも不安な時は多いですけど、でも……だ、だ、だいじょうぶですよ。なんとかなるはずです!」


 と、墨はいつもネガティブなのに、ひとがネガティブな時は勇気づけようとする。


「当たって砕けろと申すが、喜六殿に砕かれるとワシは難儀じゃのう……」


 直虎のほうは秀孝から距離を取って、なんともいえない顔をしている。

 秀孝と目が合うたびに赤面して、直元の影に隠れたそうだが、直元がそれを許さない。


「ともあれ、無事にお役目を果たして欲しい、と思っておりますのじゃ」


 直虎はそう言う時だけ、将来のことを想ってはにかんだ。

 秀孝は現段階だと信長の扶養家族のため、どこかで土地を持ち、独立した段階で、直虎と墨の二人をつまに迎え入れる約束だった。


 秀孝と墨はまだ婚約と結婚の意味がよく分かっていないが、直虎のほうは気が気でないようだった。

 世界が急に鮮やかになったよう。直虎の心中はそうだったろう。恋愛の知識がない娘なだけに、恋をするともうダメなのだ。


「……出立の準備が整いました」


 藤浪秀鑑が言った。


「分かった! じゃあ――」


 秀孝は近しいひとたち一人、一人の顔を見て、残るひとたちへ向けてこう言った。


「行ってきます!」


 ◇


 末盛城は尾張東南部の丘陵地帯にある。対・今川いまがわの東方防衛線の一つで、信秀の晩年はここですごした。


「やっぱり坂ばっかりだね!」


 秀孝が言う。飛び跳ねるように登っていた。何度か往来したが、坂ばかりなので楽しいらしい。


「……見晴らしはようございます、殿」


 藤浪秀鑑が言う。軍事的に、周囲の観察と敵方の行動の制約が容易だと言っていた。


「ご先代さまは偉いからなあ」


 伯父さんはすごいんだぜ、という口調の牧秀盈。かれの母は秀孝の叔母(信秀の妹)であった。


「ついたぁ~!」


 秀孝が城門で万歳をした。

 先触れの使者は送ってあるから、門番はなにも言わない。

 取次の人間が城門で待っていた。


津々木蔵人(つづきくらんど)です」


 丁寧な物腰の青年であった。世間では信行の色小姓(性的な世話をするひと)という風聞もあるが、別に色気はない。身なりがパリッとしてシワがない。働き者に見えた。

 秀孝が蔵人を見つめ、やや思案した。


「なにか?」

「ううん……」


 秀孝がなんらかの困惑を覚えている。秀孝自身、困惑の原因が分からないようだ。

 蔵人は笑った。自信のある笑顔だった。


「私の世間の風聞をお聴きですか?」

「ふーぶん?」

「おや、ご存知ではない? では、はて……私のほうに粗相がございましたか?」

「……殿」


 藤浪秀鑑が秀孝をせっついた。秀孝は違和感をあとに回すしかない。お役目で来ているのだ。

 秀孝は蔵人に目を合わせ直し、珍しく、笑顔のないまま挨拶をした。


「喜六郎秀孝です。今日は、すえもりどのにごよーけんがあり、まかりこしました」

「承知しております。我が殿もお待ちです。ではこちらへ、御弟君さま――」

(……なるほど)


 藤浪秀鑑が秀孝を先へうながしつつ、状況を理解した。御弟君さま、ね……。イヤな予感がかたちを持っている。

 先導の蔵人が城門の内部に入った。


 秀孝も一歩、城門のなかへ入る。

 秀孝の違和感が強くなった。


「喜六郎秀孝!」


 信長と似て非なる声がした。

 末盛城の大広間では信行方の家老が左右に並び座っている。

 秀孝は挨拶の手を上げ、久しぶりの兄弟の再会に笑顔を浮かべかけた。


 が、秀孝は戸惑う。


「なにゆえそなたは信長のところになぞおる!」


 信行が端麗な顔立ちを歪め、いまにも飛びかかってきそうな姿勢で怒鳴り散らしてきたからだ。

 津々木蔵人は平然と信行の横に控えている。


 見かねたように、クマヒゲの屈強な漢が口を挟んだ。柴田権六勝家しばたごんろくかついえ。代々の家臣で、亡き信秀の計らいで信行に属した歴戦の勇将である。が、平素は賢人であった。


「御殿。久方ぶりのご兄弟の再会でございますから――」


 その申しようでは慈悲がなく、と兄弟の仲を憂慮している口調である。

 信行は鼻白み、勢いよく息を噴いた。横を向き、なにかに耐えている。勝家が言うなら、しょうがないから聴いてやる、という態度で秀孝に向き直り、命じた。


「なれば許してやろう。すぐにこの末盛城へ移るのだ」


 秀孝は愕然とし、言った。


「でも、あの、ボク――」


 信行が立ち上がり、ズカズカと歩いてくる。

 秀孝の小さなあごを掴み、ギリギリと力を強めて、信行は怒鳴った。


「そなたは、どっちの、弟じゃッ!」


 秀孝がびっくりして、困惑し……半べそをかいた。お役目。兄弟。なのに、なんで。どうしていいか分からなかった。


 家老の一人……佐久間右衛門尉信盛さくまえもんのじょうのぶもりが、若いこわもての顔を青ざめさせ、まなざしを柴田勝家に向けた。どうにかしてくれ、と伝えている。ふだんは好漢で通る信盛は、取り巻きが多い時は強気だが、一人だと弱気であった。

 柴田勝家が苦渋に満ちた顔をし、わずかに目を閉じた。唇を引き締め、身を乗り出し、平伏しつつ言った。


「御殿。喜六殿のご気性を思い起こされませ――」


 信行が秀孝のあごを放した。

 秀孝が半泣きで見上げると、信行は呆然としている。

 あごを掴んだ手を自身の着物にこすりつけ、傷ついたような表情で言った。


「そなたは、不出来であったわ」


 信行が秀孝に背中を向ける。

 秀孝が手を床につけ、用件を伝えた。


「ご加勢くださいっ!」


 信長の兄上に、とは言わなくても伝わったろう。

 信行が肩越しに見返り、にべもなく言った。


「イヤじゃ」


 イヤ――。

 津々木蔵人が薄く笑っている。見間違いだったかも知れない。


「お手をお上げなさい」


 勝家が言ってくる。

 秀孝が勝家を見ると、勝家は憐れんだようなまなざしを注いでくる。

 周囲には誰もいない。時が経っているようだ。


 秀孝の手の甲にしずくがしたたった。

 勝家の厚い手が肩におかれる。

 秀孝は嗚咽をもらす自分に、ようやく気づいた。


 ◇


「もし――御弟君」


 悄然と下がった秀孝のなで肩に声が降りかかった。

 振り返ると、津々木蔵人がいる。

 人通りのない廊下であった。


「おヒマ、よろしいでしょうか?」


 否応はなかった。

 目元が腫れぼったくなっている秀孝は、とにかく誰の話でも聴く心境であった。早い話が落ち込んでいた。


『津々木蔵人にはお気をつけあれ』


 先ほど、柴田勝家に謎の助言をされたことすら慮外のことであった。心のどこかが弱くなっていた。

 一室に蔵人が入ったので、秀孝も続こうとし、思いのほか薄暗いので躊躇した。


「いま、戸板を開けますので――」


 言うが早いか、オレンジ色の光が部屋に射し込む。家具の倉庫のようだ。

 秀孝が入室すると、もっと奥のほうへ、と招かれる。窓のほうで向き合った。

 やはり、自信に満ちた顔で蔵人は言うのだ。


「あなたさまは間違っておられます」


 言われて、秀孝は胸が痛んだ。間違っている、ボクが。いつもどこかでそう思っている。

 秀孝は、笑いもせず、うつむいた。いつもは考えないような暗いことを考えてしまう。胸をぎゅっと押さえた。もやもやとした不安ばかりが広がる。相手の顔すらまともに見ていられなかった。


「どうすればよかったの――?」


 秀孝は問うてしまった。

 蔵人が笑う気配がある。ひぐらしが鳴いていた。


「話は、実は、簡単なのでございます――」


 秀孝を探す声が聴こえる。一向に帰ってこないので、藤浪秀鑑や牧秀盈が心配になったようだ。

 蔵人が息をひそめた。秀孝も両手で口を押さえてしまう。おかしいと思うべきであった。でも、秀孝はとにかく、答えが欲しかった。


 声が遠ざかった。秀孝はイヤな予感がしたが、蔵人に目で問うていた。どうすればいいの、どうすれば、と。

 蔵人が小声で、しかし、ハッキリと言った。


「こちらにかれませ――」


 聴いた時、秀孝はタッと蔵人から距離を取った。心臓の鼓動が早くなっている。なにを言っているの? 秀孝は目を見開いていた。

 蔵人が苦笑していた。着物をピンと直し、こうも言う。


「少し急いたかも知れません。されど、あなたさまの間違いは間違い。私の正しさは正しさです」

「信長の兄上を裏切ることが正しいって言うの?」

「時局を選び取る眼は常に正しくあります――みんなやってますよ」

「ボク、もう、行くね――!」


 話にならない、そういう意味合いの言葉であった。秀孝が蔵人に背を向ける。

 蔵人の叱声が飛んできた。


「方々が不幸になりますぞ――!」


 小さく、厳しく、鋭利な言葉であった。

 不幸、と聴いたとたん、秀孝の漠然とした不安が、起こりうる悪夢のかたちを持った。秀孝の唇が震える。ボクの判断のせいで?


「それは、あの……なんで?」


 秀孝は答えが分かり切っている答えを聴いた。

 この時、蔵人はやさしかった。ぞっとするほどに。


「間違えないために、裏切るのです、御弟君」

「……なにをされておいでか?」


 静かな怒りの声が響いた。


「忠左くん、清十郎くん!」


 秀孝が乱入者を呼び、絶句した。

 藤浪秀鑑と牧秀盈はそれぞれ怒り心頭であった。

 秀鑑は火の噴くようなまなざしで、秀盈は極度に冷たい目をしている。ふだんの印象とは正反対の怒り方。二人とも、蔵人を睨みつけていた。


 初陣の時……あるいは、秀鑑と秀盈はこういう顔をしていたのかも知れない。

 でも、秀孝は初見であった。いつも前を向いていたから、後ろの二人の顔は見てなかった。

 秀孝の足が一歩、下がった。戸惑っていた。


 蔵人が笑う。


「私は御弟君のご相談に乗るためにここにいるのです。そうでしょう、御弟君?」

「……ウソだな」

「どうして? お訊きなされませ。ご自分らの主君に」


 この場の全員の視線が秀孝に集まる。

 蔵人が言った。


「私は御弟君と我が殿の双方のご要望に従い、最善なる手をご献策しました」

「……その手とは?」


 蔵人が手のひらを秀孝に差し出してくる。自分で言いなさい、ということらしい。

 秀孝はおずおずと言った。


「信行の兄上のほうに属けって――」


 刀の鯉口を切る音がした。牧秀盈である。蔵人を睨み据えていた。

 藤浪秀鑑も止めない。やれ。無言でそう言っていた。


「うちの殿は……そんなこと望まねえよ」


 牧秀盈が踏み込む、その時。


「待って!」


 秀孝が止めてしまった。

 驚いたのは、藤浪秀鑑と牧秀盈である。

 蔵人は笑みを深くしていた。


 秀孝は棒立ちで、周囲の面々の顔を見たあと、うつむいてしまった。

 蔵人が興奮したようにまくしたてた。


「御弟君さえ我が方に属けば、必ずや我が殿は兵馬を発しましょう。信長殿はその後ろにつかれるとよろしい。これで万事うまくいきます」


 蔵人の声が秀孝の耳の奥で響く。うまくいく? そうすれば? なにもかもうまくいくの……? と。

 藤浪秀鑑が焦ったような声で言う。


「……我らが殿を人質にでもするつもりかッ!」

「なにを仰せか。人質などと……人質というのは、もっと、こう――」


 蔵人はそこまで言って、はた、と背筋を伸ばした。刻限の鉦。用事があるようだ。秀孝たちを取り残し、出入り口のほうに向かう。


「待てよ!」


 牧秀盈が言い、蔵人が鼻で笑った。

 出入り口の柱に片手を置き、蔵人が肩越しに言った。あからさまに藤浪秀鑑と牧秀盈を見下していた。


「ならばご説得されるとよい。私は止めませんよ――あなた方が下剋上という言葉を頭から信じていなければ、きっとご説得の言葉も見つかるはずですから」


 おまえらでは説得できない。戦国の世の情念を信じるのなら、むしろ肯定するしかない……裏切りを。蔵人はそう言っていた。


 藤浪秀鑑が青白い顔を歪め、牧秀盈が激情の息を吐いた。

 夕闇の迫る窓辺で、秀孝がペタンと座り込んでいる。

 すすり泣きの声が聴こえた。秀孝であった。


「ごめんね、みんな。ごめんね。でも……――」


 少し、考えさせて――。

 秀孝の懇願に、かける言葉を、藤浪秀鑑と牧秀盈は持てなかった。


 翌朝――事態はさらにややこしい方向に動く。


「……なぜ、ここにおられるのですか?」


 藤浪秀鑑が口元をひきつらせて、来訪者を迎えた。

 秀孝たちの宿舎に顔を出したのは、あろうことか井伊直虎と蜂須賀墨の二人であった。

 直虎は青ざめた顔で息を切らし、墨も息が乱れているが、墨のほうは油断のない目つきで周囲を見回していた。

 直虎が言った。


「喜六殿が……急のご病気じゃと……――」


 秀孝が一睡もできず、憔悴した顔を見せると、直虎は絶望したような顔になった。墨のほうは違う。


「ね、寝不足……ですか? あと、あと……気苦労の相が出てます、よ?」

「えっ……う、うん。そんなところ……――」


 聴き、直虎が廊下でしゃがみ込んだ。腰が抜けたらしい。次いで、泣くのだ。


「げ、元気か……元気なのか! 要は、要はそうじゃな!? ……よかったのじゃ……よかったのじゃあ~!」


 泣く直虎を墨があやした。恋する娘は異様にもろかった。

 なにがなんだか分からず、秀孝が藤浪秀鑑のほうを見た。秀鑑が墨に問う。


「……どちらのお手引きで参られましたか?」

「つ、津々木のご家中、と――」

「昨日、斬っておけばよかったんだっ!」


 牧秀盈が急に立ち上がって叫び、秀孝と直虎がビクッとした。藤浪秀鑑が考え込み、蜂須賀墨が状況を整理した。


「お、お、お……お疲れのようです(?)ねぇ~?」

「……ああ、ええ、お疲れですね」


 藤浪秀鑑が言い、秀孝を見た。

 秀孝も、状況がどうなっているか、くらいは分かる……人質。婚約者二人をそうするつもりなのだろう。誰が? 決まっている。津々木蔵人がだ。


「裏切りは……悪いこと、なの?」


 秀孝が問い、周囲のものは答えられなかった。誰もが戦国の世に生きる以上、裏切りの良し悪しは時と場合によった。


「……我らは、殿に付き従うまでにございます」


 ずるい言い方ではあった。藤浪秀鑑自身もそれは理解していたろう。

 ただ、周囲の面々も同じ気持ちのようではあった。


「す、すべては婚儀を済ませてからではあるがの!」と、井伊直虎。

「そ、そ、そうですねぇ~……あたし、ちょっと状況が分からないけど、でも……白無垢は夢なんです……うひひ」と、蜂須賀墨。

「まあ……それくらいしかできないけどさぁ~」と、牧秀盈。


 決めるのは秀孝だ。殿なのだ。


「そっか」


 秀孝はそう言い、うつむきがちな自分の両頬をパンと張った。やる気出せ。オトコノコでしょ! たぶん周囲から見ると漢字が違うが、秀孝の想いはそうであった。


「ごめんね、みんな。あともう少しだけ、考えさせて」

「……時はありませんぞ。せめて、今日のうちに」

「分かってる」


 戦の準備のことを想えば、信長の想定している日時までそう余裕があるものではない。末盛城から動員をかけ、兵糧を用意することを考えれば、藤浪秀鑑の言うことはもっともであった。

 確約が欲しい。今日のうちに。信長か、信行、どちらに属くのか。そして、援兵が引き出せるかどうか。みんな無事に済むか、済まないか。


「ボクは、ボクなんだ――」


 秀孝はふっと呟いた。

 すべての答えは、そこにある気がした。


 ◇


 裏切りは悪いことである。問う必要はない。なぜ? 現代人の魂がそう言っているからだ。


 しかし、裏切らねばことが運ばないことは確かである。

 信行からは反発を食らい、津々木蔵人からは人質を取られ、信長の要請する期間まで余裕がない。

 津々木蔵人の言うように、裏切ればなにもかもうまくいくことは確かだ。少なくとも、一時的にはだが。


 困っていた。秀孝はそうだ。

 だからこうした。


「お母さ~ん!」

「あれ、喜六。来てるのは知ってたけど……なんか挨拶が遅くないかい? お母さんは哀しいねぇ――」


 やつれた表情を見せたのは土田御前つちだごぜんである。逸話上の彼女はどうあれ、この世界線の彼女は最近、ちょっと憂鬱であった。


「どうしたの、お母さん……?」


 秀孝が心配そうな顔をした。自分の用事はスポーンと頭から抜けていた。

 土田御前の居室は奥のほうにある。お家の内部で決裁すべきアレコレは土田御前の管轄であったが、表のことはタッチできなかった。

 土田御前は秀孝の頬を引っ張り、元気が出たような顔をした。


「ん~ん。別に。積もる話はあるけれど……なんか女ぶりが上がったねぇ、喜六?」

「ボクはオトコノコですけどっ!」

「こいつは失敬。で、なんか用事だろ? 聴こうじゃないか」

「そうでした」


 秀孝はそこでスコーンと頭に用事を取りもどし、ちょっともじもじしてから、言うのだ。


「お母さん、あのね、例え話なんだけど――」

「分かる。恋だね」

「ち~が~う~! お役目の例え話~っ!」


 秀孝がぷんすかと両腕を振り、土田御前がケラケラと笑った。


「で?」


 と、また、土田御前が言う。

 秀孝が息をつき、真剣なまなざしで問うた。


「なにもかも分かんなくなったら、どうしたらいい?」

「酒呑んで寝る」

「そーいうのじゃなくて……」

「割とマジなんだけど。そうさねぇ……」


 ややあって、土田御前が言った。


「詳しいやつに訊けばいい。なにもかも分かんないことなら、どう考えたって分かりゃしないからね」

「ボク一人だとダメ?」

「ダメだねぇ。そう、ダメダメだねぇ――」

「そっか……」


 秀孝は、むしろ晴れやかな表情であった。

 母親と膝を突き合わせて話していたところから、すっくと立ち上がる。

 土田御前から見ると――子どもが急に大きくなった気分であった。


「息子は、息子なんだよ。分かるかい、喜六?」


 土田御前が目を細めて言った。ちょっと泣いている。お酒が禁止されているのがつらい……そういう気分もあるが、根本はもっと身近な理由であった。


「母親はさ、どの息子がいちばんか、なんてないんだよ」

「お母さん」

「喜六。アタシはさ……――」


 土田御前が言うに尽くせぬ言葉に迷い、喉を詰まらせた。その手を秀孝が取る。土田御前が握り返し、言った。


「無理はするんじゃないよ」

「しないよ」


 秀孝はニッコリ笑った。土田御前が秀孝の顔を見て、滲む自分の視界に気づいたのだろう……袖で自分の目元をぬぐい、笑い返した。


 秀孝は行く。自分の抱える問題について、いちばん詳しいひとのところへ。

 行先は……織田勘十郎信行のところである。


 ◇


 悪事はボロい。理由は簡単。目先の利益につられるやつの行為が巧みなはずはないのだ。


 津々木蔵人は焦っていた。

 信行に取り立ててもらって以来、この青年は家中に自分の勢力を扶植することを日課としていた。

 別の誰かを取り立て、ほかの誰かを欺き、また別の誰かをけしかける。

 もちろん、その誰もから自分が感謝されるように仕向けるのは忘れずに。


『あいつは仕事のできるやつ――』


 そう噂が立つよう動き回った。

 結果は上々。蔵人はそう信じている。

 同調者もできたのだ。共犯者というべきかもだが。

 それは家中の細部に及んでいる。


「津々木殿――」


 昼前、同調者の一人に耳打ちされてから、蔵人の化けの皮がはがれ始めた。


 疾走に近い足取りで廊下を駆ける。

 柴田勝家などは目を丸くして津々木蔵人の疾走を見て……なにかに気づいたのか、痛快に笑った。


(こんなバカなことがあるかッ!)


 蔵人は心中で絶叫した。いや、バカなのだ。少なくとも、渦中の二人は。だからこんなことになっている。


『でね、うんとね――』


 信行の居室のほうから話し声がする。

 蔵人は青ざめた。

 通せんぼしてくる小姓(同僚)を突き飛ばし、信行の居室に駆け込んだ。


「殿ォッ! ウソです! なにもかもッ! ウソですゥゥ~ッッッ――!」

「ウソ? なにがじゃ、蔵人?」

(ああ、これはダメだ――)


 蔵人は信行の顔色――青筋を浮かべて微笑んでいた――を見て、あっさりと諦めた。

 つまりこういうことなのだ。悪事を企むものは元来、怠け者である。


「私が、いつ、喜六を陥れろと頼んだ――?」


 根回しが未完。


「私が、いつ、そなたに命じた――?」


 焦って動いて失敗する。


「聴いておるのか、蔵人ッ!」

「ハイ、ソウデス。オッシャルトオリデス――」


 あげく、壁にぶつかると諦める。

 蔵人はへなへなと床に尻をつけ、それでも挽回の機会を狙って周囲を見ていたが……こうなっている時点で、もうダメだろう。


 秀孝は信行と蔵人のやり取りを眺めて……いらぬ罪悪感を覚えたようだ。二人の間にそっと入り、仲裁の言葉を上げる。


「あの、蔵人さんはボクと勘十郎の兄上のことを想って献策してくれるって……」

「まだそんなことを言っておるのか、そなたは?」


 信行の怒りの矛先が秀孝に向いた。

 秀孝は戸惑い、小さくなった。

 秀孝はすべてを話していた。


 信行は扇子で手の甲を打ち、信長と似た――それでいて余裕の類いがない――まなざしで睨み、秀孝に言うのだ。


「だが、蔵人の申すことも一理ある。我が方に属け。さすれば那古野方へ加勢を送ってやろう」


 秀孝は毅然と返した。


「それはできません」

「なぜ?」

「言っても怒らない?」

「言わねば怒る」


 言われ、秀孝はちょっと目をくりくり動かし、一息に言った。


「裏切りは悪いって思うからです」

「フハッ――」


 信行はちょっと白目になったあとで、たまらず笑った。

 蔵人が追随で笑ってくる。


「小賢しいわッ、蔵人ッ!」


 今度は蔵人が小さくなった。信行から見て、蔵人は見どころがあった。いろいろあるが、要約すると蔵人は津々木家の若当主なのだ。やり方が悪い面があるが、蔵人なりに苦心している。いまもそうだ。不真面目な点さえ直せば、まだ……そう信じる、信行もたいがい甘いのだが。

 信行がため息を吐き、言った。


「母上はこの信行を選んではくれぬ。信長も、そなたも、誰もお選びにならぬ――」


 秀孝は、信行の言いたいことが分からなかった。

 信行は自嘲の笑みをもらした。ぼくだけを選んで、自他にそう言えというのか――信行はもう一度、言う。


「こっちに来い。喜六郎秀孝。私のほうが器量がある」


 秀孝は答えられなかった。ただ一言、


「お母さんはみんな一緒がいいと思う」


 と、土田御前の気持ちを代弁した。

 信行は屋外を眺めた。夏の青空。うとましいほどの快晴。風が吹き込んでくる。土と草のにおいがした。


「分かったよ」


 信行は折れた。ただし、と、これだけは付け加えて。


「今回だけだ。次は……力づくでも、そなたをこっちに引きずり込むぞ」


 ◇


「ほんとうに来るのか」

「来るよ~」


 七月十八日。陰暦なので、新暦だと八月に入っている。

 東のほうから叔父の織田信光の加勢が来た。が、まだ待つ。来てほしい勢力が来ない――。


「あ、来た~っ!」


 ほら来た~、そうはしゃぐ秀孝。赤い鎧姿であった。

 信長の顔色は明るくなり、次いで、少し憮然とした。こちらは赤と萌黄色の鎧である。石に座り込んでいた。


 秀孝が信長を見て、首を傾げている。

 信長はあごをしゃくり、言った。


「柴田勝家だな、アレは」


 織田信行は来なかった。信長はそう言っている。

 そっか、と、言う、秀孝は寂しさを覚えないではない。


「でも、約束は守ってくれたよ!」


 秀孝はそう言って、喜んだ。まだ希望はある。そう言いたげであった。

 信長は苦笑し、座っていた石から腰を上げて、柴田勝家の率いる末盛勢を出迎えた。


「苦労!」


 この日、信長らは南下してきた清洲勢を迎撃・破砕し、敵方の家老級の首を何人も上げた。

 信長の武名は上がり、秀孝の名も上がった。信行方では柴田勝家の名が上がったが、信行の名そのものは上がってない。

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